ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

夏だから


夏だから


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私にまで強制的に遺伝してる


初めて書き込みさせていただきます。


私は18歳の高校生(女)なんですが、
卒業した先輩に聞いた話を
紹介したいと思います。








以下、聞いたままを記載します。


「私がまだ生まれる前、お兄ちゃんが2つか3つの頃だったんだけど、家族で一軒家に引っ越したことがあったのね。特に建物が古いとかってわけでもないしとにかく安いからって理由で買ったんだけど、案の定、曰く付きだってことを入居した後に聞かされたんだよ。」

「どうもうちらが入る1ヶ月だか前に、向かいの家で焼身自殺があったらしいのね。そんでこの家をうちらが買った方ね。でも前の住人がその場面(焼身自殺)をモロに見ちゃったとかで、ショック死だか発狂したんだか知らないけど、とにかく行方不明になっちゃったんだって。」

「でも今更そんな話聞かされたってもう手続きした後だったし、もちろん気分良いわけないけど仕方なくそれには目を瞑って暮らしだしたわけ。」

「けどその日から明らかにお兄ちゃんの様子がおかしくなった。」

「階段の踊り場の窓から例の向かいの家が見えるんだけど、そこを通る度にお兄ちゃんが言うの。『人が燃えてるよ!』って。まだ3歳の子供がだよ?」

「他にもお風呂に入ったら入ったでいきなり泣き出すし、ことあるごとに『怖いおばあちゃんに殺される』とか口走るしで・・・さすがに親もまずいんじゃないかと思い始めたけど、具体的にどうしたらいいのかわからないまま時間が経ってお兄ちゃんの妙な言動はそのまま幼稚園に上がっても続いてたの。」

「結局そこには2年くらい住んでたんだけど、その2年の間に病気だなんだでお兄ちゃん3回くらい死にかけたって。」

「入退院も年齢の割にはあり得ない回数だったらしいし、このままじゃ本気でヤバいと思った親がやっと有名な霊能者だかを呼んだんだって。遅せーよって話だけど(笑)そんでその霊能者が、お兄ちゃんを見るなり言うのよ。『この子よく今まで生きてたね、もう10体以上憑かれてるよ』って。」

「そんなん言われたらもう引っ越すしかないじゃん。何とか今の家探して移って来たらしいけど、そんなヤバい家に2年も住んじゃったもんだからもう家族全員バッチリ見える様になっちゃってて、父さん家帰って来た時『おーい、玄関の前で女が泣いてるから塩まけ塩』とか言ってるくらい。しかも、その後生まれた私にまで強制的に遺伝してるし、マジ冗談じゃないよね。」

「今はもういい加減慣れたから、お兄ちゃんとゲームしてる時後ろで見てるのがいてもシカトできるし、チョコ(犬)が庭のユズの木の首吊り霊に吠えてても黙って部屋に上げるのがあたりまえになっちゃってるけど、この間久々にまずいと思ったことがあったよ。」

「夜10時くらいにチョコの散歩に出かけた時、近所の公園の横通った時に中に人影が見えたのね。最初は気にしてなかったんだけど、よく見たら首に縄ついててしかも顔が血で赤いんだ。『あ、コレやべえ』と思ったんだけど足が動かなくて、犬も怯えて座り込んでんの。」

「焦ったよ、何かあっちも気付いたらしくて笑いながら近づいて来てるし、これ本気で死ぬかもってちょっと覚悟したもん。」

「その時ちょうどお母さんが私が忘れたフン袋持って追いかけて来てて、固まってる私に『いいから。何も見えないふりしてゆっくりこっちに来なさい』って言って何とか助けてくれたんだけど、あれ系奴って普段滅多に見ないから油断してたんだね。あれは本当にギリギリだったと思うよ。」




俺はその女を直接見てはいない


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猪名川(宝塚の北)で車を走らせてた時、

後ろの車がやたらパッシングするのよ。

DQNが煽ってるんだと思って

無視して走ってたんだが、


あまりにもしつこくパッシングするので、こっちも頭にきて路肩に車を止めたら、そいつも同じように止めてきた。

俺は車を出て「何やねん!何か文句あるんかいや!」と食って掛かったら、向こうも車から降りて来たのよ。
でも顔が真っ青・・・。



そいつが言うには、運転中の俺の車の屋根に女が座ってて屋根から運転席を覗きこみながらドアウィンドウを両手がガリガリやってた。
運転席に入り込もうとしているみたいだった。

それで、俺にその事を伝えようとしたけど近づくの怖いからパッシングで知らせてた・・・
て言うのよ。

俺はその女を直接見てはいないんだけど、今でもちょっとトラウマになってる・・・。




辺りを見回すと、後ろに白猫が一匹


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うちの母は大の動物好き。

テレビでどんな人間ドキュメントが

あってもしらけ顔なのに、

動物物となると号泣できる。


そんな母がある日、父の生家のある田舎道を歩いていると、

「もしもし、そこのお方」

と呼び止められた。

「??」

と辺りを見回すと、後ろに白猫が一匹。

猫が一鳴きすると、
垣根から痩せこけた子猫がゾロゾロ出てきた。

「何か欲しいの?」

と白猫に聞くと、

「にゃんでも構いません」

と答えたので、パンを一袋買って置いてきたそうだ。

母はこれを真面目に話してきた。

まぁ、動物好きで野良猫を病院に連れてくような母だ。

お礼に(?)三日三晩、
玄関にモグラを持ってくる猫の姿を目撃している自分としては、
あり得ない話ではない…気もする。





人ごみにまぎれて妙なものが見えること


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人ごみにまぎれて妙なものが見えることに

気付いたのは去年の暮れからだ。

顔を両手で覆っている

人間である。


ちょうど赤ん坊をあやすときの格好だ。
駅の雑踏の様に絶えず人が動いている中で、立ち止まって顔を隠す彼らは妙に周りからういている。

人ごみの中でちらりと見かけるだけでそっちに顔を向けるといなくなる。
最初は何か宗教関連かと思って、同じ駅を利用する後輩に話を聞いてみたが、彼は一度もそんなものを見たことはないという。
その時はなんて観察眼のない奴だと内心軽蔑した。
しかし、電車の中や登下校する学生達、さらには会社の中にまで顔を覆った奴がまぎれているのを見かけてさすがに怖くなってきた。

後輩だけでなく何人かの知り合いにもそれとなく話を持ち出してみたが・・・誰もそんな奴を見たことがないという。
だんだん自分の見ていないところで皆が顔を覆っているような気がしだした。
外回りに出てまた彼らを見かけた時、見えないと言い張る後輩を思いっきり殴り飛ばした。

俺の起こした問題は内々で処分され、俺は会社を辞めて実家に帰ることにした。
俺の故郷は今にも山に飲まれそうな寒村である。



両親が死んでから面倒で手をつけていなかった生家に移り住み、しばらく休養することにした。
幸い独身で蓄えもそこそこある。
毎日本を読んだりネットを繋いだりと自堕落に過ごした。
手で顔を覆った奴らは一度も見なかった。

きっと自分でも知らないうちにずいぶんとストレスがたまっていたのだろう。
そう思うことにした。

ある日、何気なく押入れを探っていると懐かしい玩具が出てきた。
当時の俺をテレビに釘付けにしていたヒーローである。
今でも名前がすらすら出てくることに微笑しながらひっくり返すと俺のものではない名前が書いてあった。

誰だったか??

そうだ、確か俺と同じ学校に通っていた同級生だ。
同級生といっても机を並べたのはほんの半年ほど。
彼は夏休みに行方不明になった。
何人もの大人が山をさらったが彼は見つからず、仲のよかった俺がこの人形をもらったのだった。

ただの懐かしい人形。

だけど妙に気にかかる。
気にかかるのは人形ではなく記憶だ。
のどに刺さった骨のように折に触れて何かが記憶を刺激する。
その何かが判ったのは生活用品を買いだしに行った帰りだった。

親友がいなくなったあの時、俺は何かを大人に隠していた。
親友がいなくなった悲しみではなく、山に対する恐怖でもなく、俺は大人たちに隠し事がばれないかと不安を感じていたのだ。

何を隠していたのか。
決まっている。
俺は親友がどこにいったか知っていたのだ。

夕食を済ませてからもぼんやりと記憶を探っていた。
確かあの日は彼と肝試しをするはずだった。
夜にこっそり家を抜け出て少し離れた神社前で落ち合う約束だった。
その神社はとうに人も神もいなくなった崩れかけの廃墟で、危ないから近寄るなと大人達に言われていた場所だ。

あの日、俺は夜に家を抜け出しはしたのだが昼とまったく違う夜の町が怖くなって結局家に戻って寝てしまったのだ。
次の日、彼がいなくなったと大騒ぎになった時俺は大人に怒られるのがいやで黙っていた。
そして今まで忘れていた。



俺は神社に行くことにした。
親友を見つけるためではなく、たんに夕食後から寝るまでが退屈だったからだ。
神社は記憶よりも遠かった。
大人の足でもずいぶんかかる。
石段を登ってから神社がまだ原形をとどめていることに驚いた。

とうに取り壊されて更地になっていると思っていた。
ほんの少し期待していたのだが神社の周辺には子供が迷い込みそうな井戸や穴などはないようだ。
神社の中もきっとあのときの大人たちが調べただろう。

家に帰ろうと歩き出してなんとなく後ろを振り返った。
境内の真ん中で顔を両手で覆った少女が立っていた。

瞬きした。
少女の横に顔を覆った老人が立っていた。

瞬きした。
少女と老人の前に顔を覆った女性が立っていた。

瞬きした。
女性の横に古めかしい学生服を着込んだ少年が顔を覆って立っていた。

瞬きした。
皆消えた。

前を向くと小学生ぐらいの子供が鳥居の下で顔を覆って立っていた。
俺をここから逃がすまいとするように。
あの夜の約束を果たそうとするように。




ヤバい仕事


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これを書いたら、昔の仲間なら俺が誰だか分かると思う。
ばれたら相当やばい。
まだ生きてるって知られたら、また探しにかかるだろう。
でも俺が書かなきゃ、あの井戸の存在は闇に葬られたままだ。
だから書こうと思う。
文章作るの下手だし、かなり長くなった。
しかも怪談じゃないから、興味の湧いた人だけ読んで欲しい。

今から数年前の話。
俺は東京にある某組織の若手幹部に使われてた。
Nさんって人。
今やそういう組織も、日々の微妙にヤバい仕事はアウトソーシングですよ。
それも組織じゃなく、個人が雇うの。
警察が介入してきたら、トカゲの尻尾切りってやつね。

その代わり金まわりは、かなり良かったよ。
俺は都内の比較的金持ちの日本人、外国人が遊ぶ街で働いてた。
日々のヤバい仕事っていうと、凄そうだけど、実際に俺がやってたのは、ワンボックスで花屋に花取りに行って代金を払う。
その花を俺がキャバクラから、高級クラブまで配達する。
キャバクラ行くと、必ず花置いてあんだろ?あれだよ。
で、花配りながら集金して回る。

もちろん花屋に渡した代金の、3~5倍はもらうんだけどね。
3万が10万、5万が25万になったりするわけよ。
月に3千万くらいにはなったね。



俺がやるヤバい仕事ってのは、最初はその程度だった。
それでも結構真面目にやってた。
相手も海千山千のが多いからさ。
相手が若僧だと思うと、舐めてかかって、値切ろうとするバカもいるんだよね。

その度に暴力沙汰起こしてたんじゃ、仕事になんないわけだ。
起こす奴もいるけど・・・。
でも警察呼ばれたら負けだからね。
次から金取れなくなるから、組から睨まれる。
タダじゃすまんよ。

そういう時、俺は粘り強く話す。
話すけど肝心なトコは絶対譲らない。
一円も値切らせないし、ひとつの条件もつけさせない。
前置き長くなったけど、まあうまくやってるってんで、Nさんの舎弟のSさん、Kさんなんかに、結構信頼されるようになった。

それで時々花の配達に使ってるワンボックスで、夜中に呼び出されるようになった。
積んでるのは、多分ドラム缶とか段ボール。
荷物積む時は、俺は運転席から出ない事になってたし、後ろは目張りされてて、見えないから。

それでベンツの後ろついてくだけ。
荷物を下ろしたら、少し離れたところで待たされて、またベンツについて帰って、金もらって終了。

何を運んでたなんて知らない。
その代わり、1回の仕事で、花の配達の1ヶ月分のバイト代をもらえた。

ある夜、また呼び出された。
行ってみると、いつもとメンツが違う。
いつもはSさんかKさんと、部下の若い人だったがその日は、幹部のNさんがいて、他にはSさん、Kさんの3人だけ。
3人とも異様に緊張してイラついてて、明らかに普通じゃない雰囲気。
俺が着いても、エンジン切って待ってろって言ったまま、ボソボソ何か話してた。

「・・・はこのまま帰せ」

「あいつは大丈夫ですよ。それより・・・」

途切れ途切れに会話が聞こえてたけど、結局俺は運転していく事になった。
何だか嫌な予感がしたけどね。

後ろのハッチが開いて、何か積んでるのが分かった。
でも今回はドラム缶とか、段ボールじゃなかった。
置いた時の音がね、いつもと違ってた。
重そうなもんではあったけど。

更に変だったのが、SさんとKさんが同乗した事。
いつもは俺一人で、ベンツについてくだけなのに。
しかもいきなり首都高に入った。
あそこはカメラもあるし、出入口にはNシステムもあるから。
こういう仕事の時は、一般道でもNシステムは回避して走るのに・・・。

首都高の環状線は皇居を見下ろしちゃいけないとかでさ、何ヵ所か地下に入るよね。
恥ずかしながら、俺は運転には自信あるけど、道覚えるのは、苦手なんだよね。
方向音痴だし。

多分環状線を、2周くらいしたと思う。
車が途切れたところで、突然Nさんが乗るベンツが、トンネルの中で、ハザード出した。
それまでSさんもKさんも、ひと言もしゃべらなかったけど、Sさんが、右の車線に入って止めろって。

言われるままに止めたよ。
そこって合流地点だった。

で、中洲みたいになってるとこに、バックで車入れろって言うからその通りにして、ライト消した。

両側柱になってて、普通に走ってる車からは、振り返って見たとしても、なかなか見つけられないと思う。
まあ見つけたとしても、かかわり合いにならない方が良いけどね。
Nさんが乗ったベンツは、そのまま走り去った。



SさんとKさんは、二人で荷物を下ろしてたけど、俺にも下りて来いって。
俺はこの時も、嫌な予感がした。
今まで呼ばれた事なんて無かったし。

SさんとKさんが、二人で担ぎ上げてるビニールの袋。
映画とかでよく見る、死体袋とかいう黒いやつ。
もう中身は、絶対に人間としか思えない。
とんでもない事に巻き込まれたって思って、腰が痛くなった。
多分腰抜ける寸前だったんだろう。
何で組の人じゃなくて、俺なの?ってその時は思ったけど、その理由も後になれば分かったんだけど。

で、Sさんがポケットに鍵があるから、それ使って、金網の扉の鍵開けろって言うから言う通りにした。
金網開けて、5~6メートルでまた扉にぶつかる。
扉というより、鉄柵って感じかな。
だって開ける為の把手とか無いし、第一鍵穴すら見当たらない。

どうすんだろうな?と思ったら、またSさんが別のポケットを指定。
今度は大小ひとつずつの鍵。
コンクリの壁にステンレスの小さい蓋が付いてて、それを小さい方の鍵で開ける。
中に円筒形の鍵穴があって、それは大きい方の鍵。
それを回すと、ガチャって音がして、柵が少し動いた。

右から左に柵が開いた。
壁の中まで柵が食い込んでて、その中でロックされてる。
鍵を壊して侵入は、出来ない構造らしい。

更に先はもう真っ暗。
マグライトをつけて先に進んだけど、すぐに鉄扉に当たった。
『無断立入厳禁防衛施設庁』って書いてあった。
これは不思議だった。
だってここ道路公団の施設だよね?

ていうか、こんなとこ入って、平気なのかなって思った。
まあこの人たちのやる事だから、抜かりは無いとは思うんだけど、監視カメラとかあるんじゃないのって、不安になったけど、中に進んだら、もっと不思議なもんが、待ってたんだけどね。

鉄の扉も、さっきの鉄柵と同じ要領で開いて、俺たちは中に入った。
SさんもKさんも、うっすら汗かき始めてて、随分重そうだったけど、運ぶの手伝えとは言わなかった。
中に入るとすぐ階段で、ひたすら下に下りて行った。
結構下りた。
時々二人が止まって、肩に担ぎ上げた「荷物」を担ぎ直してた。

階段を下りると、もの凄く広い通路が、左右に伸びてた。
多分幅10mくらいあったと思う。
下りたところで、ひと休みした。

通路はところどころ電灯がついてて、凄く薄暗いけど、一応ライトは無しで歩けた。
俺たちは反対側に渡って左手に向かって進んだ。

時々休みながら、どれくらい進んだかな。
通路自体は分岐はしてない。
ひたすら真っ直ぐで、左右の壁に時々鉄の扉がついてる。
ある扉の前でSさんが止まって言った。

「これじゃねえか。これだろ」

そこには『帝国陸軍第十三号坑道』そう書いてあった。
字体は古かったけど。
信じられる?今の日本にあるのは、陸上自衛隊でしょ。
何十年も前のトンネルなのか、これは?

SさんもKさんも、汗だくで息も荒くなってたから、扉を入ったところで、また「荷物」を下ろして、休憩する事にした。
二人とも無言だったから、俺も黙ってた。

しばらくして、Sさんがそろそろ行こうって言って、袋の片側、多分『足』がある側を持った。
そしたら・・・『袋』が突然暴れた。

Sさんは不意を突かれて、手を放してしまい、弾みで反対側の袋の口から、顔が出てきた。
猿ぐつわを噛まされた、ちょっと小太りの男。
どっかで見たことある・・・それもあるけど、分かっていながらも、袋からリアルに人が、しかも生きた人が出てきた事にビビッて、俺は固まってた。

「おい何で目を覚ました!」

「クスリ打てクスリ!」

「袋に戻せ!」

とか言ってるのが聞こえた。

Kさんはクスリは持って無いとか、何とか答えてた。
その間も『袋』は暴れてた。
暴れてたというか、体を縛られてるらしく、激しく身をよじって、袋から出ようとしていた。
するとSさんが、袋の上から腹のあたりを、踏んづけるように蹴った。
一瞬『袋』の動きが止まったけど「ウ?!」と、すごい唸り声を上げながら、また暴れ出した。

Sさんは腹のあたりを、構わず蹴り続けた。
それでも『袋』は、暴れ続けた。
やがてKさんも加わって、二人で滅茶苦茶に蹴り始めた。
パキって音が、2、3回立て続けにした。
多分肋骨が折れたんだと思う。

『袋』の動きが止まった。
その時なぜか、男は頭を振って、俺に気が付いた。
それまですごい形相で、暴れていた男が、急に泣きそうな顔で、俺を見つめた。

Sさんが「袋に戻せ」と言うと、Kさんが男の肩のあたりを、足で抑えながら、袋を引っ張って、男を中に戻した。
今でもその光景は、スローモーションの映像のまま、俺の記憶に残ってる。

男は袋に戻されるまで、ずっと俺を見てた。
一生忘れられない。

Kさんが、袋の口をきつく縛るのを確認すると、Sさんは更に数回、袋を蹴った。

「これくらいかな。殺しちゃまずいからな」

Sさんはそう言って、俺を見た。

「お前、こいつの顔を見たか」

「いえ・・・突然だったんで、何が何だか」

そう答えるのが、精一杯だった。
その時は本当に、どこかで見たような気がしたけど、思い出せなかった。

SさんとKさんは、再び動かなくなった『袋』を担ぎ上げた。
それまでと違うのは、真ん中に俺が入ったこと。
もう中身を知ってしまったので、一連托生だ。

それからその13号坑道ってやつを、延々歩いた。
今までの広い通路とはうって変わって、幅が3mも無いくらいの、狭い通路だった。

右手は常に壁なんだけど、左手は時々、下に下りる階段があった。
幅1mちょいくらいの階段で、ほんの数段下りたところに、扉がついてた。

何個目か分かんないけど、Sさんがある扉の前で止まれって言った。
帝国陸軍第126号井戸』って書いてあった。
それでSさんに言われるまま、中に入った。

中は結構広い部屋だった。
小中学校の教室くらいはあったかな。
その真ん中に、確かに井戸があった。
でも蓋が閉まってるの。
重そうな鉄の蓋。

端っこに鎖がついてて、それが天井の滑車につながってた。
滑車からぶら下がっている、もうひとつの鎖を引いて回すと、蓋についた鎖が徐々に巻き取られて、蓋が開いてく仕掛けになってた。

オレは言われるままに、どんどん鎖を引っ張って、蓋を開けていった。
完全に蓋が開いたとこで、二人が『袋』を抱え上げた。
もう分かったよ。

この地底深く、誰も来ない井戸に、投げ込んでしまえば、二度と出てこないもんね。
でもひとつだけ分からない事があった。
なんで「生きたまま」投げ込む必要があるの?

二人は袋を井戸に落とした。

『ドボーン!』

水の中に落ちる音が、するはずだった。
でも聞こえてきたのは、バシャッて音。
この井戸、水が枯れてるんじゃないの?って音。
SさんとKさんも、顔を見合わせてた。

Sさんが俺の持っているマグライトを見て顎をしゃくってみせ、首を傾げて井戸を覗けってジェスチャーをした。
マグライトで照らしてみたけど、最初はぼんやりとしか底まで光が届かなかった。
レンズを少し回して焦点を絞ると、小さいけど底まで光が届いた。

光の輪の中には
『袋』の一部が照らし出されてる。
やっぱり枯れてるみたいで、水はほとんど無い。

そこに手が現れた。
真っ白い手。
さらにつるっぱげで、真っ白な頭頂部。

あれ、さっきの『袋』の人、つるっぱげじゃ無かったよな。
ワケが分かんなくて、呆然と考えていたら、また頭が現れた。

え?2人?ますます頭が混乱して、ただ眺めてたら、その頭がすっと上を向いた。
目が無い。
空洞とかじゃなくて、鼻の穴みたいな小さい穴がついてるだけ。

理解不能な出来事に、俺たちは全員固まってた。
しかも2人だけじゃ無さそうだ。
奴らの周囲でも、何かがうごめいている気配がする。

何だあれ?
人間なのか?
なぜ井戸の中にいる?
何をしている?

その時、急に扉が開いて、人が入ってきた。
俺は驚いてライトを落として、立ち上がってた。
SさんとKさんも。

入ってきたのは、Nさんだった。
Nさんは俺たちを見て、怪訝そうな顔をした。

「S、もう済んだのか」

Sさんは少しの間、呆然としていたけど、すぐに答えた。

「済みました」

Nさんは俺たちの様子を見て、俺たちが井戸の中身を見た事を悟ったみたいだった。

「見たのか、中を」

俺たちはうなずきもせず、言葉も発しなかったが、否定しないことが肯定になった。

「さっさと蓋閉めろ」

言われて俺は、慌てて鎖のところに行って、さっきとは反対側の鎖を引いて回した。
少しずつ蓋が閉まっていく。

「余計な事を考えるんじゃねえ。忘れろ」

そう言われた。
確かにそうなんだけど、ぐるぐる考えた。
殺しちゃまずいって、Sさんは言ってた。
Sさん自身も、なぜ殺しちゃだめなのか、知らなかったんだと思う。
生きたまま落とした理由は?
生きたまま・・・・あの化け物のような奴らがいるところへ。
考えたく無くなった。

俺たちは来た道を戻り、車で道に出た。
今度はSさん、Kさんは、Nさんのベンツに乗っていった。
そしてそれが3人を見た最後になった。

俺は思い出していた。
あのとき『袋』に入っていた男の顔を。
最近出所してきた、会長の3男だった。
出来の悪い男というウワサだった。
ケチな仕事で下手を踏み、服役していたらしい。

俺は2、3回しか顔を合わせた事が無かったが、大した事無さそうなのに、威張り散らしてヤな感じだったのを覚えてる。

だからといって、会長の息子を殺すのはアウトだよ、死体を隠したっていずれバレる。
それでも出来るだけバレないように、俺を使って運んだんだろうけど。

あの出来事から2週間くらいして、Nさんが居なくなった、お前も姿をくらませって、Sさんから電話があった。
バレたんだ。
会長の息子を殺ったのを。

組から距離をおいていたのが幸いして、俺は逃げ延びる事ができた。

SさんやKさんがどうなったのかは知らない。
あれから数年、俺は人の多い土地を転々としている。
これはあるネットカフェで書いた。

もうすぐネットカフェも、身分証を見せないと書き込めなくなるらしい。
これが最後のチャンスだ。
組の人たちがこれを知れば、どこから書いたのか、すぐに突き止めると思う。
だから俺はこの街には、二度と戻ってこない。

誰かあの井戸を突き止めて欲しい。
なぜあの井戸に、暴力団なんかが鍵持って入れるのか。
そうしたら俺の追っ手は、皆捕まるかも知れない。
俺は逃げ延びたい。
これからも逃げ続けるつもりだ。




某怖い話、体験談より
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ヤバイ仕事の彼は
今どうしてるのか?

昭和天皇


昭和天皇


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お腹を空かせた者がいたら、パンを与える。
けれどそれでは一時しのぎにしかならない。
なので、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を諭すのがより良いことだ、そんな話を聞いたことがある方も多いのではないかと思います。

だけど日本には、それ以外の第三の道がある、というお話しです。





昭和20年8月の終戦後、日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。
食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りず、不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配してた。

その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がった。
そのきっかけとなったのが、昭和天皇の全国行幸だったといわれています。

そこで昭和24年5月に、陛下の佐賀県行幸のときのお話しを、書いてみたいと思います。


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昭和天皇行幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、総日数は165日です。

実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、我々平民と違って、休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。

そうしたお忙しい日々を割いて、全国行幸をされました。

この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。


この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。

しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。


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当時、焼け野原になった日本で、人々はそれまでの悠久の大義という価値観さえも失い、正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。
物価も高騰する。

お腹を空かせた家族のために、闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、ようやく物々交換で米を手に入れると、それを根こそぎ暴力で奪われる。
いわば無政府状態ともいえるたいへんな状況だったのです。

そういう状況から国内が一日も早く脱皮し、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。
そんなとき、陛下が選択されたのが、全国行幸だったのです。

未曽有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには何が必要か。
いまの世の中なら、すぐに財政出動だ、何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、あの時代に陛下が選択されたのは、全国民の真心を喚起するということだったのです。

国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がること。
そのために陛下は、
「全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えよう。」
と、全国を回られたのです。

ところが、共産主義に感化された一部の人々は、そうした陛下を亡き者にしようとか、あるいは陛下を吊るし上げようと、各地で待ち受けていた。

そんな中で、実際の陛下の行幸で何があったのかを、佐賀のケースで見てみようと思うのです。

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陛下が佐賀県行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に行幸されています。

因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で、歌を刺繍して天皇陛下皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。

その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦死者に対して詠まれた次の二首です。


 やすらかに
  眠れとぞ思う きみのため
   いのち捧げし ますらをのとも

 なぐさめん
  ことのはもがな たたかいの
   にはを偲びて すぐすやからを


というもので、陛下もこのことにいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。

また終戦後は、因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていたのです。

陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいたそうです。

その町道の一角には、ある左翼系の男が、麦畑を作っていたそうです。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる、などと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放して「ここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていたといいます。

朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。


image天皇陛下によく似ている
賢明な皆様は気がついている


群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがります。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがった。

御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみます。
一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立つ。
そのあとから、陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。

その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがります。

陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まったといいます。

ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの感動が、群衆を包み込んだ。

お車を停められたところから、因通寺の門まで、約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていた。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープとかもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。

そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返す。
その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。


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陛下が寺の山門に到着します。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段がある。
その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられたそうです。

そうです。
石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。

陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされます。

そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれます。
寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。

図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べます。


「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」


そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいます。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。

するとそのとき、入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申された。
すると、不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったのだそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所のことについてご説明申し上げることになっていました。

自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分は、あんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせると、住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ます。
そして書いてある奏上文を読み上げた。


「本日ここに、一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これにすぎたるものはありません」


住職は、ここまで一気に奏上文を読み上げた。

ところが、ここまで読み上げたところで、住職の胸にもググっと熱いものが突き上げます。


引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのだそうです。

意識は、懸命に文字を探そうとしている。
けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまった。
ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。

そのとき、誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じた。
入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。

このとき、住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にない、と思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。


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こうしたことは、外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、日本に駐在していていよいよ日本を離れるというときに、おいとまごいのために陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。
駐日大使というと、長い方で6~7年、短い方でも2~3年の滞在なのですが、帰国前に陛下にお目にかかってお別れのご挨拶をするとき、ほとんどの駐日大使が「日本を去るに忍びない、日本には陛下がおいでになり、陛下とお別れをすることがとても悲しいともうされるのだそうです。

この言葉が儀礼的なものではないことは、その場の空気ではっきりとわかるのだそうです。
そして陛下とお話しをされながら、駐日大使のほとんどの方が、目に涙を浮かべられ、言葉を詰まらせる。

特に大使夫人の方々などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。

こうしたことは、その大使が王国であろうと、共和国であろうと、共産圏の方であろうと、みな同じなのだそうです。

むしろ共産圏の国々の方々のほうが、より深い惜別の情を示される。

さて、ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。

この奏上が終わると、何を思われたか、陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられた。


「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」
と住職に申された。

住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。

この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれます。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。


ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っている。

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。

「どこから?」
満州から帰りました」
北朝鮮から帰りました」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、「おまえたちは、遠く満州北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。

そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。
その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に

「大切に病を治すように希望します」
と申された。

鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、

「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられます。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられます。


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それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされた。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。

重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
そしてやさしいというより、静かなお声で、

「お父さん? お母さん?」
とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。

陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、三人の女の子の真ん中のこの手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。

陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」
とお尋ねになります。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」

この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は
「おひとりで?」
とお尋ねになる。
父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい?」
と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は
「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。
部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」
と申された。

そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちた。

そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。
これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。

その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。
東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていた。

子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。

山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。

その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてくる。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられます。

「どなたが戦死されたのか?」


「息子でございます。たったひとりの息子でございました」

そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。

「うん、うん」
と頷かれながら陛下は

「どこで戦死をされたの?」


ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。

そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあった。
そばにいた者全員が、この様子に涙した。


遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれます。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められた。

そこでは、若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていたのです。


実はこの人達は、シベリア抑留されていたとき、徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達です。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。

そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていたのです。

そうした意図を知ってか知らずか、陛下は、その一団の前で足をお止めになられます。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられた。


「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国があある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。
みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います」

陛下の長いお言葉だったのですが、そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまった。

「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきます。
そして、


天皇陛下さま。ありがとうございました。
いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、着の身着のままでした。
外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで赤裸です。
生活も最低のものになった。
ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。
そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。

しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかった。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。

今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」

と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。

「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」
と泣きじゃくるのです。

すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。

彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられた。
何も言うことのない、感動と感激の場面だったそうです。


いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」
と申したそうです。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」
と申された。

御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。

宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。


 みほとけの
  教へ まもりて すくすくと
   生い育つべき 子らに幸あれ



ねずさんより
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このブログの意図はなんなのか?リンク


美智子皇后は何人いるのか?リンク



image美智子様の母親
正田富美子さん よく似ている
当然、抱いている赤ちゃんが美智子様である


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image美智子様秋篠宮殿下 
よく似ている

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現在の美智子様と体格が明らかに違う 
何故か?いつからなのか?


今日も変わらない
コンスの挨拶
変な日本語のコンビニ店員
いつもマスクの街ゆく会社員
一年中風邪をひいているのか

顔を晒す事は恥なのか
最低限の礼儀なのか

顔を見て
嫌事のひとつでも言う方が
愛想があるのではないか

最近やっと
分かった様な気がする

何故
こんなものを日本にバラ撒くのか?

そう、俺たちのモラルを解体してるのだ


テレビからダラダラと流れ続ける
下らない在日の自称芸人

ナ○ポでパチンコに励む輩

イケメン?の俳優さんたち

団体が幾つあるか分からない
秋元の実行部隊

どれが真実か分からない
テレビのニュース

日本人が古来から持つ礼節
他人を思いやる気持ち
恥を嫌う国民性

もう外圧に対抗する気も無い
今の安倍内閣
日本を解体する為だけの政府

日本人を常に脅えさせる
毎度の人工地震
ゲリラ豪雨
放射能

毎度
天皇陛下を貶める
記事を書き続ける
さゆ、RAPT、その他の面々

簡単な事だ
誰も天皇陛下を神だとは
思っていない

でも
天皇制を認め
ひとつになってきた
過去の日本人

天皇陛下を貶め
天皇制を解体すれば

日本人はまた
心をひとつにし
戦う事が出来るのか?
誰も戦争など望まない

国を愛し
子どもを愛し
未来の日本を
憂う心

社会的弱者を
救う心意気

スマホでは無く

泥だらけで
あそぶハナタレ小僧

ゴム跳びで遊ぶ
少女たち

真夏の夕暮れの
縁側将棋

現場でビールはダメなのか

小洒落たバーで
ワインを飲めというのか

俺たちは
何をなくしたのか?

本当はなくしていないのか?


見えてくる
ひとつの結論

どうすれば
本来は誇り高き
日本人から

魂を濁らせ
自尊心を崩壊させ

自分勝手な
傲慢なあの国の様に
出来るのか?

在日に支配されている
日本国政府
日本を護る気など
さらさら無い

天皇制を
破壊したい勢力
護る人たち


そこに
天皇陛下がいる

それが答えだ

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image日本画の様な
純和風美人の香淳皇太后


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image今上天皇美智子様の血は
途絶えていない
正当なる血統は
顔を見れば明らかだ

皇室に紛れ込んだ
美○○様と浩○殿下は偽者だ
影武者に騙されるな


玄人裸足の香淳皇太后の日本画リンク



皇室ブログは真実もあるが
嘘も多い

日本に何故
天皇制が必要なのか

もしくは必要無いのか

もし天皇制が悪ならば

昭和天皇
全国行幸の意味は

奴らが
日本人を怖れる理由は

ここにあるのではないのか

秘密のノート


秘密のノート


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手料理

「料理が趣味でストレス発散になるから」と言いつつ、いつも仕事で帰りが遅い俺の為に必ず食事を用意してくれる。本当に感謝しています。この美味い食事が俺のストレス解消になってます。


帰りが遅いとき

帰りが遅いときでも半分寝ながら起きて待ってて帰ったら適当な夕飯を作ってすぐ寝る嫁かわいい。


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方向音痴な嫁

いつも目的地と反対方向に歩き出す嫁
すかさず、手を繋いで「こっちだよ」って言うのを何回もある
かわいい!


妻の作るパスタ

妻の作るアンチョビの入ったパスタが大好きです。
週4くらい夕飯これでいいです。
あとドレッシングは妻が作ったモノじゃないと嫌です。
もう市販ドレッシングとか無理です。
妻ありがとう。


手紙テロを起こす嫁が可愛い

毎回旅行から返ってくると旅先から手紙が届く。
犯人は嫁で、自分が見ていない隙に手紙を書いているのだ。
嬉しかった、楽しかった、次はどこどこに行こうね!など、もらったこっちは嬉しいに決まっているではないか(*^^*)
全く可愛い奴め。


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いつもありがとうpart2

寂しくて寝れないなんて可愛い事いうくせに帰ると爆睡してる。寝癖がえらいこっちゃでおはよう。可愛い。デートしようっていうと凄く喜ぶ。2人で美味しいねってご飯食べる時間も、手を繋いで歩く何気ない帰り道もすごく幸せです。今日はいっぱい遊びたいから起きてるって言うくせに腕枕してトントンしてあげると秒で寝る。おじいちゃん、おばあちゃんになってもこうして過ごしていたいです。



結婚15年。今でもちゃんと夜の営みでいったふりをしてくれる。






いつの間にこうなったのだろう
まあ しかたないか
うわさの○○ノートです
あなたの葬式を
心から願う人々


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お前は何のために生きてるんだ?お前がいなくても誰も困らないだろう?


どうにかして殺してくれ。とにかく憎らしい毎日毎日。 警察や病院から毎日毎日毎時間旦那が死んだと聞きたくて仕方がない。 殺したいほんとに。 どうにかなりそうだ毎日毎日…。 なんなんだ、お前は何のために生きてるんだ?お前がいなくても誰も困らないだろう? 大体なんで生きてんだよ?役立たずのくせに!!! ただの屑に生きる資格なんてねえよ。 本当に憎らしい。 配慮をしてくれと言ってもぶつぶつ文句を言って譲歩しようともしない。 日本語を話せるくせに日本語の意味が分かんねぇもんな。 あああほんとに殺したい!!!今すぐに殺したい!!どうにかなりそうだ毎晩毎日!!! お前は人の睡眠時間を削るのと配慮をすると死ぬのか?? アニメを見ないと死ぬのか?  じゃあ死ねよ今すぐに!!!邪魔くせえほんとに。 一刻も早く死んでくれよ!! 全てがなんという方だ嫌い気持ち悪い汚いとしか思えねえんだよ! どっか消えろ。そのあたりで死ねよもう、道端でもいいから!!



ろくな稼ぎもない甲斐性ナシ

いままで散々お金の事で苦労をかけてきているのに お前は好き勝手金を使うんですね いま無職なのはどこのどいつだよ 贅沢できない状況で、よくもまぁ次から次へと金を消費しますね ローンの支払いも全て私に電話がくるようになってて、自分は一切そういう 事をしない 俺が電話すると喧嘩になるからっていつも避けてますね そもそも喧嘩になる意味がわかりません 毎回お金の工面をするのは私です 親には散々お金を貸してもらえないかと頼み、なんとかやりくりをしたときもあります 稼ぎが少なくてごめんなぁって調子よく言ってくるけど 本当にそう思ってるならバイトでもなんでもして少しでも家計の足しにしてください なんていってほしいの? そんなことないよっていってほしいの? 馬鹿言うな お前がいなければ少なくとも、もっとまともな生活ができたんだと思うと はやく死んで消えてくれたらいいのにって思います 甲斐性ないなら消えてくれ


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説明不要



ベッドにまっ裸で寝転がるなよ。カビるし、何より気色悪いもの見せるな。子供に悪影響しかない。


とにかくだらしない。 帰宅して、まず靴は脱ぎっぱなし。夜キャバに出掛けるとき靴履き替えたらしまえよ。 服脱いだら脱ぎっぱなしは、いつから当たり前?何ヵ所にも脱いで重ねて置きっぱなし。濡れたバスタオルも床に捨ててある。洗うまでにタイムロスあるんだからタオルハンガーにかけろよ。風呂のフタも開けたら閉めろ。風呂でオシッコするな。子供にもさせるな。 体はボディーソープ使って初めて洗ったと言うんだろ?お湯で流しただけであの汚い下半身が浸かってたなんて最近まで知らなかった!さすがに、洗ってから入ってと言ったら『俺は汚くない』の一点ばり。 風呂上がって、びしょびしょのまま布製のソファ、ベッドにまっ裸で寝転がるなよ。カビるし、何より気色悪いもの見せるな。子供に悪影響しかない。 朝起きて、カーッペしたきったねーティッシュ、テーブルに置くなごみ箱に捨てろ。部屋はごみ箱じゃない。お前が居ると空間も空気も汚れる。 トイレ開けっ放しで大小かまわずするな。毎回下痢のお前のトイレタイムなんか誰も聞きたくないし、臭いし最悪!スマホ見ながらだから、子供も入っていくし、最悪!最悪!キモい!おまけにどんだけ便器、便座裏汚しても掃除しないし最低!自分で汚したのくらい掃除しろ。 消臭スプレーもしろ。子供たちが汚した跡があると、文句言う最低なヤツ。お前の後に使用する方が百万倍気分悪いけど!?終わったらトイレの便座を下げて扉をきちんと閉めろ。 灰皿の灰はビニール袋にいれて結んで捨てろ。そのまま捨てるっごみ箱開けた時に灰が舞ったり、煙草の悪臭がしてきてただでさえ煙草嫌いなんだから最悪な気分にこっちはなるんだよ。 キャバ帰りの2時3時帰宅してからのコンビニ弁当やらカップラーメンの残骸テーブルに置きっぱなしやめろ。リビングが朝から悪臭で気分悪いイライラする。 落ちたものも拾わない。出したものももちろんしまわない。ソファに座ったら1ミリも動かず、飲み物出せ、しまえ、メシ、リモコン、充電したスマホ持って来い等々まだまだ書ききれない。 どんだけめんどくさいんだ?息するのもしんどそうな脂肪だらけのその体。動かないからそうなるんだよ。息するのもめんどうだろうから、早く死んだら? そしたら、家族が楽になるから。






嘘つき野郎、くず野郎、私が貯めた子供の金を60万パチンコやら自分の娯楽に使うくそ旦那。はい、あの世行き。さようなら。


なんせおまえは嘘つき。ずっと治らないね。治るとかほざいても治らないね。つか嘘ついても一瞬でばれんだからもう嘘やめろよ。うざいしいらつくし喧嘩んなるし。子供の前で平気で嘘つくから子供もよく嘘をつく。おまえのせいだ。 しね。人が頼んだことは文句いってやらない。つかせめて頼んだらやれよ。頼まれたら快諾してやれよ。本当使えないな。あたしだけでこのうちは動いてんだからとりあえず消えろ。この世から。 しかもあたしがコツコツと子供ができるまえから子供貯金して貯めた金。毎日毎日3万ずつおろされ、、まさかの総額60万以上を使われてた。久しぶりに記帳したら異様にガシャガシャ印字されるからみたら青ざめた。 長男は100万近かったのにいっきに残高40とか。は?は?は?つかこんなんすんのおまえだけ。ばれるわ。ばかか。義母らにいってもあたしがなぜか罵倒され終わった。まじでおまえが生まれたらこんなんなったんだ。 子供に貯めた金をパチンコに使い、自分の金だよって子供に買い、服やら大量購入。ないわ。本当にないわ。しんでください。お願いします。しんで二度と人間にならないでください。本当に早くしんでください。



頭の中は風俗行く事でいっぱいやから道交法なんか知らんのかな


運転下手くそなくせに子供(3歳)をチャイルドシートに乗せない。 私が見てなかったらいつも助手席に乗せてる。 危ないから辞めてと何回も言っても意味なし。 子供は特にチャイルドシートを嫌がらないので私と出かける時は普通に乗ってくれる。 頭の中は風俗行く事でいっぱいやから道交法なんか知らんのかな。 運転下手くそなくせに事故して子供になんかあったらどう責任とるねんと思う。 どうか子供が危険な目に遭う前にクソ野郎を殺してください。 お願いします。






15年一緒にいる嫁の生年月日が言えません。14歳と8歳の子供の生年月日が言えません

15年住んでる家の住所が言えません *15年一緒にいる嫁の生年月日が言えません *14歳と8歳の子供の生年月日が言えません *私の言っている意味が理解出来ません *出したモノを片付けられません *いらないものを捨てられません *隠れて食べたお菓子のゴミは引き出しに入れて隠します(バレます) *協調、共感が出来ません *友達がいません *生きてる意味がありません 死ぬしかないっしょッ! 誰か轢いて下さい


結婚記念日に書いた手紙もゴミと一緒に捨てやがって、マジクソ


食事の時、スマホ扱って全く夫婦の会話なし。スマホばっかり扱って子供の面倒なんざ見ない。私には母親なんだからスマホ扱う暇あるなら子供に時間費せとか言ってくる始末。 産後太って中々痩せれない中、豚だのと罵ってるが自分も豚野郎だし、痩せろっていう前に自分で痩せてから言えよ、と思う。 あと、クソ豚は自営業だから毎日家に居るから、仕事もマイペースで山のように残すしグータラ寝るのに、私には家事育児は完璧に、ちゃんとした母親になれとか言ってますが父親としてクソ豚は機能してないからな(笑)どの口が言ってんだよ。 去年バレンタインも作りたく無かったから、作らなかったけど、チクチク文句言って手作りがいいとかほざいてたから、頑張って今年は手作りしたけどホワイトデーのお返し一切無し。結婚記念日に書いた手紙もゴミと一緒に捨てやがって、マジクソ。 育児も、何か支持してもらわないと分からないっていうが、お前、私には空気よめ、物事考えて行動・発言しろって偉そうに言って自分はなんなの?お前こそ空気読めよ。子供じゃあるまいし、父親なんだからそれぐらいわかれよ?なぁ? あと、私の両親を悪く言ったりでコイツ人間として最低だわって思った。私は1度も義母義父の悪口なんて言ってないのにこの時から本当に死ねばいいのにって思った(笑) テレビで好きな女優さんや可愛い人が出ると「ヤリて〜」とか言って、何故私がいる前で言えるの?頭おかしいわ、死ねよ。 事故って死ね、早く癌になって死ね。 とにかく私の前か死んで下さい。 神様、仏様あのクソ豚野郎に天罰と不幸を与えて下さい。






毎日のモラハラと暴力で鬱状態で、何も考えられず、即座に旦那に土下座。


新婚時代、『お前は疫病神だ。お前と結婚したから、僕の親父が病気になって苦しんでいる。僕と結婚したことを土下座して謝れ。 近所中に土下座して謝ってこい』 毎日のモラハラと暴力で鬱状態で 、何も考えられず、即座に旦那に土下座。『結婚して申し訳ありませんでした。離婚してください。』 そのあと、近所に土下座しに 玄関を出ると、『ふざけるな!』と引き戻されて、転んで頭をぶつけて流血。 それでも 何も心配しない。 年上の旦那が 寝たきりになるのが楽しみ。 どんな仕返しをしてやろうかな。


嘘つきで不潔な不可解生物、うちのクズを紹介します


嘘つきで、謝ることもできない、やっていいことと悪いことも理解できてない。 借金、ギャンブル、子供のお祝い金を使い込む、やっぱり謝らない。 仕事と嘘ついてでかけ、証拠つきつけられても謝れない。 自分は謝れないくせに子供には謝れと言うクズ。 不潔だし、虫歯だらけで口臭い、なのに子供にキスしまくるから子供も虫歯体質に、でも歯医者には付き添わない。 高い車には乗る、私が嫌だと泣いても女も平気で乗せる、酷いと2日に1回満タンにするような遠出デート、ガソリン代もばかにならない。 小遣いも足りないと言う。なんでうちってお金ないの?俺稼いできてるよねとキレるクズ。お前がほとんど使ってんだよ。 まともな話し合いもできず、あげく怒る私が怖いとかわいこちゃんぶるクズ。お決まりの体育座りのだんまり、引くわ。 スピード違反で捕まりギリギリで免停逃れたが罰金が大金、反省するどころか捕まった理由聞いたら笑えた。お前が育児大変で毎日早く帰ってこいとうるさいから、だと。普段からスピード狂の自覚ないのか。捕まる前もあともお前に助けてもらったことないわ。借金も女も子育てもぜーんぶ悪いのは私。 かれこれ7年我慢したがついに義母に聞いてみた、謝れないのは昔からですか?と案の定逆ギレ。クズも自覚ないマザコンだからお手上げってかキモい。 夜の生活、ほぼ強姦て夫婦間でも犯罪です。毎回、したいなら普段の生活を改めてとお願いしてみても、その時はうんと言うが出せばなかったことにするクズ。私がえろいからしかたないとか文句言うクズ、お前が性欲抑えられないのも私のせいにする?ばかなのか、きもちわるい。 子供たちはまだ小さく手もかかる、そりゃ大変だよ。でもね、将来良くも悪くも伸びしろがあるからいいの。 クズお前はないよな伸びしろ。 お金関係もだめ、父親としてもだめ、そもそも人間としてダメなクズ。子供のためにできることってさっさと死んで死亡保険金残すくらいじゃないの? 離婚も考えてる、でも最善案はクズが死ぬこと。もがき苦しんで虫けらのように息絶えろ。でも他人に迷惑はかけるなよ。 ねぇうちの順番はいつ?あぁ待ち遠しい…。 クズをあの世へと導く死神さま、朝も昼も夜も、いつでもお待ちしております。






お前の使ってるタオルだけ臭いんじゃ!ボケ!

今、手術中。マジ死んでくれないかな。死なないだろうな。。 お前とはまともに話ができんわ。 自分が何でも正しと思ってるのか!大間違いだ!人のことをなんだと思ってるんだ!お前の家来じゃないんだ!名詞で人を動かすな!お礼も知らんのか‼️ もー呆れて言い返す気をないわ。 お前のお小遣いはいくらなんだ!お前はいつまでも独身気分で呆れるんだよ。こっちは貧乏してんだよ!充分過ぎるくらい渡してから、エラそうにしろよ! いつまでもダラダラ寝やがって、こっちは朝から起きて土日もないんだよ。子供より睡眠時間長いんだよ! いつまでも家に居られると息が詰まる。早く仕事行けよ!邪魔なんだよ! 軽い潔癖、人に押し付けんな!お前が一番汚いんだよ!臭いんだよ! 洗濯の仕方が悪いから雑菌臭くなるだぁ!自分がすればこんな臭くならないだぁーあ〜⁉️お前の使ってるタオルだけ臭いんじゃ!ボケ! そのすすり喰い、鼻が悪くて苦しいからだと言い訳しやがったな。カレーのすすり喰いは許してやるわ。ご飯やサラダまですすってる自分の姿知ってますか⁉️スッスッて音がする度、神経逆撫でられるんですけど。 人のことを非常識、味覚音痴みたいに言うけど、お前はどーなんだ!痰を何処にでもペッペッ吐いて、靴のかかとすって歩いて、すすり喰い。ゲップお構い無しにしやがって、お茶で口すすいで飲むお前はどーなんだよ‼️ 鼻がつまって味覚音痴なのはお前だろーが‼️ドアホが‼️ 掃除なんかしなくていいだぁ⁉️お前に合わせて気を使いまくって毎日大掃除してやってんだろーが! 感受性がないだぁ⁉️はぁ⁉️ 人の気持ちも分からない、気も使えないお前に言われたくないわ‼️ 話が長すぎる。同じ内容3パターンも説明いらないから。簡潔に話せよ。興味無さげに聞いてるの感じ取れないだろーな。感受性ないからな。 言い負かせれない自分が悔しい。 口では勝てない。これ何の試練⁉️


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自称 人間国宝
嫁が死んでも
嫁のブログで金を追いかける○ズ


永眠

2016年4月28日
やっと旦那が死んでくれました。
お酒を飲み、そのまま倒れ、そのまま逝きました。


本文とは関係ありませんimage



嘘をついているのは誰だ?image




俺の嫁がかわいいさん
旦那デスノートさんより
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うちの旦那が素敵さんは
書込みゼロ


あなたに明日はあるのか













宇宙艦隊司令官 アシュター



宇宙艦隊司令官 アシュター


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よ○とパソコンは新しい方がいい


宇宙艦隊司令官 アシュター・シェラン
かく語りき

【アシュター・シェラン】



我々のスペースシップの装備について、

あなた方に詳しく説き明かすのは

我々の仕事ではない。


だが我々が起こす奇跡と

呼ばれるような現象について、

あなた方に何らかの知識を

得てもらうことはできる。


我々はさまざまなタイプの

スペースシップを所有しているが、

その一部についてはあなた方も

すでに目撃しているはずである。



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一般的に我々は小型船で飛行するが、

中型のスペースシップでも飛行する。


太古の昔に建造されたような

高性能な船は、

地上から遥か離れた

超高度飛行だけに用いられる。



まず我々の空母の性能について

簡単に説明するが、

私がエンジニア兼司令官を務める

巨大航空母艦A.S. 型は、

光速の5割増しのスピードで

航行可能である。



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また宇宙空間においてこの空母は、

原子変化を促す周波数と

同調することができる。


これほどの光速になると、

実質的に物理的宇宙は

超越されてしまうので、

我々の体も変化する。


つまり、

どんな物質にぶつかろうとも、

何の痕跡も残すことなく

すり抜けてしまえるようになるのだ。


またあなた方が想像も及ばないような

光速にまで達すると、

5次元への通路が開き、

たとえ高密度を持った物質であっても、

すべて通り抜けることが

できるようになるのである。



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さらに反重力は

極めて強力になるために、

磁力が岩の磁極をも反転させてしまう。



このような力は、

あなた方のレーダーでも

キャッチすることが可能なはずである。


また速度を落として、

巨大スペースシップを

見えなくすることもできる。


このようなスペースシップには、

生活必需品がすべて積み込まれており、

生存上欠かせない物質については、

船内で生産できるように

設備も整っている。



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たとえば、

自由電子から食料を作り出したり、

高密度物質から水を

量産したりすることもできるのである。


このほか豊かな食生活や

必須ビタミンを確保するためにも、

温室やさまざまな気候を

再現できる装置なども

船内に設けられている。



私も愛知に出張行きました
高単価の仕事で儲けて下さい



もし望むなら、

一生をスペースシップにおいて

過ごすことも実際に可能であり、

そうして際限なく宇宙を

駆け巡ることもできる。



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しかし、

あなた方地球人類は

あまり向こう見ずな幻想を

抱かないほうがよい。


なぜならあなた方のテクノロジーが

突き進んでいる現在の道筋には、

宇宙旅行はあり得ないからだ。



最近の新型端末はかなり高速です


宇宙には、

地球のテクノロジーでは

歯が立たないような多くの

危険があることを

あなた方は知らないのだ。


我々の巨大スペースシップA.S.を

地球に着陸させることは可能であるが、

この地球にはそのような

適当な場所がないのである、


もし山に着陸しなければ

ならないのであれば、

耐久性に優れた岩山が望ましい。



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スペースシップの

反重力線(電磁放射線)は

あらゆる方向に照射できるし、

方向転換も瞬時に可能で、

タイムラグなしに作動する。


このような我々のスペースシップは、

日中は黒い雲のように見え、

反重力が作動中の夜間には、

赤く燃える柱のように

目に映るであろう。



動かなければ始まらない


また船は、

大量の水を引きつけることも、

跳ね除けることもできる。


船が発する強力な磁力を帯びた大気は、

赤い光を放つ。


また大気中に

白い糸状のものが形成され、

ひらひら飛び回ったかと思うと、

すぐ消え失せる。


それは炎か煙のように見え、

降下するときだけ

雪のように白いのである。



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我々が宇宙を横断しながら

旅するのであれば、

自分たちも宇宙旅行ができると

あなた方は考えている。


しかしそれは思い違いである。



私の長男はバイトから店長になりました


飲食店長になり 給料手取り27万だそうです 
まだ22です おこずかい下さい



我々は神の使者であるが、

あなた方は神への信仰心を持たない

暴力的で好戦的な、

争いを好む地球人類なのである。


神の艦隊はミサイルなど

発射しないということを、

あなた方は十分に

わきまえねばならない。


我々が望むのは、

平和と調和である。


地球は宇宙銀河同盟に属しない

数少ない惑星の一つである。



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地球における紛争の原因が取り除かれ、

戦争に対する全面放棄が

実現することによって始めて、

地球はこの銀河同盟に

属することが許されるのだ。


モーセの時代の5000年前から、

我々の祖先は

宇宙旅行をしていたのであるから、

当然ながらテクノロジーの分野では、

あなた方より数千年分進んでいた。


しかしそれだけではなくあなた方は、

神に対する信仰においても

数千年分は後れをとっている。


かつてモーセはスペースシップ内で

40日間教育を受けた。



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なぜならシナイ山で待機していた民は

実に頑固な石頭で、

我々の祖先は彼らの教育に

手を焼いていたからであった。


地球人は神の教えを

必要としていたのである。



突然の宇宙人の訪問にも駆けつけます


また、

地球人の行ないがもとで、

アトランティス大陸

丸ごと破壊されてしまった。


邪悪な霊の発明家による実験により、

大陸の地下に空洞が生じた結果、

アトランティス

海底に沈んでしまったのである。


ノアの箱舟の話は、

このニュースを基にした

単なる伝説に過ぎない。


モーセは神が派遣された

輝くスペースシップの船内で、

神の計画について学んだ。



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彼はその教えをメモする必要はなく、

彼には当時の言葉で書かれた

石板が授けられた。


我々の祖先である

「小さな聖人」たちは、

この石板の特別な重要性について

モーセを教え諭(さと)した。


そして、

石板を保管するために

聖櫃(せいひつ)、

アークと呼ばれる箱が用意された。



迷わず行けよ 行けばわかるさ


しかし当時の司祭たちは、

石板に記された文書の

詳細な内容を知ったとき、憤慨し、

宇宙艦隊の空母が

視界から消えるやいなや、

すべての石板を破壊してしまったのだ。



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司祭と民衆の間で

神への崇拝が持続したのは、

赤く燃えるスペースシップが

彼らの目前にある間だけであった。


船が去るやいなや

すべての敬意は消えうせ、

地球人たちは以前と同じ

生活に戻ってしまった。



政治権力を握っていた司祭たちは、

民衆をやすやすと支配下におさめ、

彼らを意のままに牛耳るようになった。



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なぜなら司祭たちが

神の来訪を利用したからである。


その後さらに時代が下って、

彼らは暗記していた

いくつかの条項を書き換えた。


しかも書き加えられた部分のすべては、

モーセを通して

神が編纂されたものであると偽り、

自分たちの偽りを

モーセと神のせいにしてしまったのだ。


偽造された戒律と指針は、

すべて神からの

授かりものであると公言された。



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そして、

ありとあらゆる殺人やペテン、

奴隷制度が容認されたのである。


それは神の名を語った他国への侵攻や、

土着民族の虐殺であり、

あらゆる戦争が可能となったのである。


つまりあらゆる場面で、

「この人々を処罰すること、

奴隷にすること、殺すことは、

神の聖なるみ心である」

と付け加えたのである。



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そして、

我々の祖先の堪忍(かんにん)袋の緒は

切れてしまった。


祖先たちは、

彼らを運命の為すがままに任せて

見捨てたのであった。


その後、神は、

宇宙船シャー号による地球への

新たな計画は行なわれなかった。


むしろ与えた律法が適切に尊重され、

有効に機能するように

望まれたのであった。



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そこで神は、

シナイ山や紅海で

見られたものよりも遥かに壮大で、

印象的な奇跡を起こされたのであった。


それがキリストの派遣である。


神は、我々の祖先の

「小さな聖人たち」の一員であって、

宇宙船の司令官であるキリストが、

イスラエルの民として

生まれ変わるようにされたのである。



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宇宙艦隊司令官

アシュター・シェランかく語りき

『地球着陸を目前に控えて』

アシュター・シェラン



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がんよさらば


がんよさらば


image彼女に道はなかったのか



全身転移のがんが消えた…常識破り
「副作用のない抗がん剤」誕生秘話

なぜこれが保険薬にならないのか



抗がん剤で治る確率は5%


2人に1人ががんになる時代である。やがて誰でもがんになる時代がやって来るだろう。あなたががんになったとする。現在、そのがんが原発巣にとどまっているかぎり、治療法として考えられるのが外科手術だ。

ただし、これが転移したりするとやっかいである。外科手術ができないから、あとは抗がん剤となるが、これが問題なのだ。なぜなら、がん種にもよるが、ほとんど役に立たない。抗がん剤で治る可能性はわずか5%なのである。

さらにやっかいなのはその副作用だろう。痛み、発熱、吐き気、嘔吐、しびれ、呼吸困難……。それだけならまだしも、骨髄がやられると白血球や血小板が壊されて死に至ることもある。がんで死んだのか、抗がん剤の副作用で死んだのかわからないことがよくあるのはこういうことである。

薬といえば、ペニシリンのように「治す」というイメージがあるが、少なくとも抗がん剤は私たちの考える「薬」ではない。顧客満足度からいえばゼロに近いだろう。


がん治療にとって大事なことは、QOL(Quality of Life:生活の質)×生存期間である。


つまり、生活のレベルを落とさず、できるだけ長く生きること。ところが、現在の抗がん剤は副作用でQOLはガタ落ち。延命効果があってもわずか2~3ヵ月にすぎない。そんなとんでもない薬が、今や年間に1000万円を超えるのが当たり前になっているのだ。

せめて副作用のない抗がん剤があったら……。多くのがん患者の願いにこたえるように、そんな抗がん剤が誕生した。

「P-THP」といって、開発者は前田浩教授(熊本大学名誉教授・崇城大学DDS研究所特任教授)である。2011年には優れた研究者に与えられる「吉田富三賞」を受賞し、2015年のノーベル賞候補と目された人物だ。



旨い梅干しが健康の秘訣



「全身がん」が数ヵ月で…


実際にこのP-THPで治療を受けた患者を紹介する。

瀬山治彦さんは61歳の大学教授。ある日、突然研究室で倒れた。寝たら治ると思っていたが、妻に言われて同級生がやっている泌尿器科を訪ねところ、前立腺がんの腫瘍マーカー(PSA)が異常に高く、CTなどで調べるとすでに肺、肝臓、骨に転院していて末期だった。

セカンドオピニオンを聞こうと、別の同級生の医師を訪ねると、「もって3ヵ月」と宣告される。ところが、ここでP-THPの存在を知った。

早速2週間に1回のサイクルで投与を受け、並行して陽子線の照射も受けた。「全身がん」の状態だから治るはずがないと思われたのに、なんと数ヵ月でPSAが正常値になり、1年後には肺などの転移が消え、1年半後には骨転移も消失して「寛解」を告げられた。


寛解というのは不思議な言葉で、本来ならがんが消えたのだから「完治」というべきところを、がんは完全に治せないという考えから、症状が一時的に消えたという意味で「寛解」という言葉が使われる。ただし、治る可能性があるのは寛解だけである。

瀬山さんに新しい抗がん剤を受けた感想を訊くとこう言った。


「さあ、これといった副作用は記憶にないし、末期がんの治療を受けたという実感がないんです。大学の講義は1日も休まなかったし、フィールドワークもやりました。なんだか騙されたみたいです」

前立腺がんと診断されてから約3年半経ったが、瀬山さんは今も元気に大学へ通っている。


座して死すか 備えて闘うか


もう1人紹介する。野口美子さんという40代の女性だ。たまたま検診を受けたら胃がんが分かった。腫瘍マーカーは正常だったが、リンパ節だけでなく、右肺にも左肺にも転移していて、余命は1年未満と告げられた。

どういうわけか、このP-THPは前立腺がんや乳がん卵巣がんのようなホルモン依存性がんに著しい効果がある一方で、胃がんに対してはそれほどでもない。ただ縮小することが多い。

そこで、原発胃がんが縮小したときに外科手術で切除し、肺に転移した腫瘍は冷凍療法といって、腫瘍を凍らせて破壊した。こうした併用療法ができるのもP-THPの特色だろう。リンパ節に転移した腫瘍はP-THPでほぼ消え、2年経った現在、野口さんは寛解の状態を維持している。



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理論的に「抗がん剤」は効かない


抗がん剤はなぜ効かないか。なぜ副作用があるのだろうか。そのことがわかれば、逆にこのP-THPが、通常の抗がん剤よりも治癒効果が高く、副作用がない理由も理解できると思う。

まず副作用だ。血管は閉鎖系といって出口はなく、その中を血液がぐるぐる巡っている。いわばドーナツのようなチューブだ。そのチューブに小さな穴が開いていて、ここから酸素や栄養素が漏れて体の細胞を維持している。

ところが、低分子の抗がん剤もここから漏れてしまうのである。猛毒の抗がん剤は漏れたところの細胞を壊死させるので、これが副作用となってあらわれる。

また多くの抗がん剤は、がん細胞が休みなく分裂するのを利用して、分裂するときにDNAの合成を止める仕組みになっている。つまり、分裂できなくして殺すのである。

ところが、がん細胞と同じように激しく分裂している細胞は他にもたくさんあり、そこがやられると副作用があらわれる。たとえば毛根だ。毎日のように細胞が分裂しているから、抗がん剤にやられて髪の毛が抜けるのである。

腸管上皮や胃の粘膜もそうだ。骨髄もやられやすい。つまり、がん細胞と一緒に正常細胞もやられることが副作用なのである。

そんな副作用がありながら、なぜ抗がん剤でがん細胞を殺せないのだろうか。

抗がん剤を点滴しても、がん細胞に到達したときは、点滴した量の100分の1以下に薄まっていることがその理由の一つだ。

では、薄まってもいいように、最初から100倍投与すればどうか。


こんな実験がある。抗がん剤が、がん細胞を殺す量はわかっているので、その量が腫瘍に届くように投与したらマウスはすべて死んだという。人間も同じで、がん細胞が死ぬ量を投与して、人間が耐えられる抗がん剤は存在しない。

つまり、どんな理屈をこねようとも、理論的に抗がん剤は効かないということだ。




次に考えられるのは、がん細胞のしたたかさである。実はこの40年間で、分子生物学者ががんを研究してきてわかったのは、がんはあまりにも複雑すぎてカオスの世界だということである。

たとえば、がん細胞が毒物に触れると、最初のがん細胞がやられても、次の段階で排出ポンプのようなタンパク質を働かせて、内部に入ってきた毒物を外に放り出してしまう。それだけではない。毒物を分解する酵素を出して毒性を消したり、毒物の分子を変えて毒性をなくしてしまうこともある。

その他にも、免疫細胞からの攻撃をかわすバリヤーを張ったり、人間の想像力を超えた能力を次々と繰り出しては生き延びようとする。これが薬剤耐性と言われるものである。

いずれも、生命が数十億年の時間をかけて獲得した能力だろう。


抗がん剤とは、患者を生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い込んで、運良く腫瘍の方が先に死んでくれればラッキーという、まるでバクチのような「薬」なのである。


では今世紀に入って登場した分子標的薬はどうか。がん細胞上のある遺伝子をピンポイントで狙うから副作用が少ないといわれたが、皮膚障害のような副作用がけっこうあらわれる。そのうえ、思ったほど効かない。

なぜかというと、がん細胞が分裂するたびに、ターゲットである遺伝子が変異するからである。変身したら狙いが定まらない。つまり効かないということである。

さらに、がん細胞にしかないと思っていたそのターゲットが、他の細胞にもあったために、そこも一緒に狙われて副作用があらわれるというわけだ。

がんと闘うためには、これらの欠点をクリアしたものでなければならない。正常な細胞を殺さず、がん細胞にとって致死量にあたる毒物を一気に降り注ぐ抗がん剤だ。それが前田教授の開発したP-THPだった。



image彼は声を捨てる必要があったのか



新しい抗がん剤の誕生


実は、P-THPに使われているピラルビシンは、特許が切れた古い抗がん剤である。P-THPのPはポリマーで、THPはピラルビシン。つまり、ピラルビシンに、高分子のポリマーをくっつけたという意味だ。

簡単にいえば、P-THPとはこれだけである。たったこれだけで、在来型の抗がん剤とすっかり変わってしまったのだ。

このP-THPが、「魔法の弾丸」のように腫瘍に届くまでには、図のようなステップ(主に三段階)がある。


第1のステップは、腫瘍にだけ集まることだ。

腫瘍にも血管があって、やはり正常な血管のように隙間があるのだが、正常血管の隙間をバレーボール大とすれば、腫瘍の血管は25メートルプールほどもある。それなら、ピラルビシンを自動車ぐらいの大きさにすれば、正常な血管からは漏れなくなるはずだ。

この自動車ぐらいの大きさにするのが、ポリマー(図の赤い〇)なのである。こうすると、体の中をぐるぐる回っているうちに、巨大な穴が開いている腫瘍の血管から漏れていくので、結果的に腫瘍だけに集まる。同時に、他の組織には漏れないから副作用がない。

第2のステップは、腫瘍血管から漏れたら、薬剤がポリマー(図の小さな〇)から離れなければならない。

ピラルビシンとポリマーをつないでいる紐は、酸性になると切れるようになっていて、腫瘍の周辺は、腫瘍の廃棄物で酸性の海になっているので簡単に切れるのだ。

第3のステップが難題で、ポリマーから離れたピラルビシンが、腫瘍の内部に取り込まれないといけない。

がん細胞は常に分裂しているから、大量のエネルギーを必要とする。そのために、トランスポーターという細胞を使って、ポンプで汲み上げるように外部のブドウ糖を取り込んでいる。

実はピラルビシンには、ブドウ糖に似た分子がくっついていて、がん細胞はピラルビシンをブドウ糖と勘違いして内部に取り込んでしまうのである。他の抗がん剤でうまくいかないのは、このブドウ糖様分子がないからだ。


実験では、通常の抗がん剤と比較すると、腫瘍の内部にその数百倍もの薬剤が取り込まれている。まるでトロイの木馬のように入り込んでがん組織を攻撃するのがP-THPなのだ。


分子生物学の権威であるアメリカのロバート・ワインバーグ博士によれば、転移していないがんで死亡するのは約10%、残りの90%は転移したがんで死んでいるという。つまり、抗がん剤は転移したがんに効かなければ治せないということだ。

従来の抗がん剤は転移したがんには効かなかったが、P-THPは先に述べた3つのステップで転移したがん細胞にも薬剤が届くのである。

発見というのは、あとで振り返ってみたら、あまりにも単純すぎて驚くことがよくある。ピラルビシンという古い抗がん剤にポリマーをくっつけただけなのに、従来の抗がん剤とは違う、まったく新しい抗がん剤が誕生したのである。



image忘れもしない 
日本で公開された時には 彼はいなかった



前田教授とは何者か


前田教授が「魔法の弾丸」のような抗がん剤の開発に気づいたのは1980年代だった。

低分子の薬剤を、分子量4万以上の高分子にすると、正常な血管から漏れずに腫瘍の血管だけに集まるのみならず、いったん腫瘍の内部に取り込まれると外に漏れなくなることを発見し、これを「EPR効果」として発表した。

もともと前田教授は東北大学で食糧化学を専攻していた。卒業後、フルブライト奨学生としてカリフォルニア大学大学院に留学したが、なんと受け入れ先がたんぱく質の研究室だった。

これがきっかけでたんぱく質が研究テーマになるのだが、帰国後、恩師である石田名香雄教授(のちの東北大総長)が、放線菌からネオカルチノスタチンという、世界で初めてたんぱく質の制癌物質を発見すると、この研究に携わるようになった。

このネオカルチノスタチンに世界最強の毒性があることがわかり、ハーバード大学から招聘を受けて、ファーバー癌研究所の研究員としてアメリカに渡る。

シドニー・ファーバー博士は化学療法の父とも言われ、がん治療の世界ではカリスマ的な存在だった。前田教授はこのファーバー博士に師事することになる。

帰国後、様々な事情があって熊本大学に移るのだが、ここでもネオカルチノスタチンを研究していた。これを高分子につないだら腎臓から漏れなくなるのではないかと考え、カーワックスに使われるポリマーにつないだ。

これを油性の造影剤に溶かして、動脈から肝臓のそばで放出すると、見事に肝臓の腫瘍に集まったのである。これが後に肝臓がんの治療薬として承認される世界初の高分子型抗がん剤「スマンクス」である。

前田教授が、スマンクスに続いて研究していたのがP-THPだった。

80年代、副作用が強くて効かない化学療法の限界をブレイクスルーするために、DDS(ドラッグ・デリバリー・システム)という概念が生まれた。抗がん剤をピンポイントで腫瘍に届けるシステムである。

前田教授もこのDDSを研究していて、メルシャン株式会社(ワインメーカーだが、豊富な発酵技術やバイオテクノロジーを利用して医薬品などを開発していた)に研究用の薬剤の提供を申し出たら、たまたまピラルビシンだったという。腫瘍内部に取り込まれやすいことが分かったのは後のことである。



imageミスターラグビーも この世にいない



末期がんなのに元気


昔、「エイリアン」というSFホラー映画があったが、これはがん細胞からヒントを得たと言われている。

実際、宿主の人間を動けなくしておいて、身体を食べ尽くすところがエイリアンにそっくりだが、決定的に違う点がある。それは、エイリアンはみんな同じ顔をしているが、がん細胞は、場所や人によって顔つきがまったく違うことである。

原因は、正常細胞の遺伝子がランダムに損傷を受けてがん細胞になり、長い年月の間にさらに変異を繰り返してきたからだ。分子標的薬が効かないのも、がん細胞はカオスのように変異だらけだからである。

P-THPは、理論的にどんながんもやっつけられそうだが、そうならないのは、がんはカオス的世界だからである。

たとえば、山藤ひろ子さんである。彼女は64歳のときに直腸がんが見つかった。

外科手術で取れたが、4年後に肺に転移したため抗がん剤治療を始めた。それ以来、1年半にわたって抗がん剤治療を続け、そのたびに猛烈な苦しみに耐えた。そしてもう限界と思ったときにP-THPに出会う。

2週間に1回のサイクルで投与を受けたが、結論から言うと、腫瘍マーカーが上がり続け、腫瘍も小さくなっていない。つまり、P-THPは効いていないのである。なぜ効かないのかわからない。

ところが、副作用はなく、食欲も落ちないから、体重は減っていないし、家事も自分でこなしている。つまり、末期がんなのに、QOLは非常に高いのだ。

また、山本健二さんは68歳のときに肺癌とわかった。この時点でステージⅣ、つまり末期で、余命は2ヵ月と宣告された。そのうえ、チェーンスモーカーだからひどい肺気腫で、横になると息ができなくて眠ることも出来なかった。

ところが、P-THPの投与を始めてから横になって眠れるようになり、「日常生活に不自由はありません」と言えるまでになった。

しかし10ヵ月後、自ら洗面所で髭を剃って身ぎれいにしてベッドに入ると、そのまま眠るように亡くなった。生前に山本さんが願っていた最期だった。



image



ラーメンを食べに行く患者


これまでに200人近い方がP-THPの安全性試験に参加している。そのほとんどがステージⅣの末期患者だから一概に言えないが、大半は山藤さんや山本さんのようなケースだ。副作用がないことがQOLを高めているのだろう。

副作用がないことによるメリットはたくさんある。

たとえば、一般的に抗がん剤治療を行うと食欲がなくなり、やせ細って苦しむというイメージがあるが、どういうわけかP-THPは、治療を受けたその日にラーメンや焼き鳥を食べに行く患者が多い。

理由はわからないが、食欲が増進するらしい。食欲があるのとないのでは予後がまったく違う。口から食べられるうちは元気なのである。

がんは認知症と同じで、退職前にがんになると多くの人が勤め先を辞めさせられている。抗がん剤の副作用で仕事ができないと思われているからだろう。

ところがP-THPは副作用がないから、治療を受けながら仕事を続けられる。瀬山さんがそのいい例だ。その他にも、設計事務所を経営しながら、あるいは畑仕事をしながらP-THPの治療を受けている人もいる。今のところ、P-THPのために仕事を辞めたという人はゼロである。

通常、重粒子線治療放射線治療を行うと、数ヵ月間は抗がん剤治療ができない。免疫が落ちているところへ、抗がん剤でさらに免疫を落とすと命に関わるからだ。

ところが、せっかく放射線治療でがんが小さくなっても、体の回復を待つうちに腫瘍が大きくなる危険性がある。ところが、P-THPだと、同時に併用できるのである。こんな抗がん剤は他にないだろう。

現在の安全性試験では、治癒力がどこまであるかは未定だが、寛解に至るケースがたくさんあることから、分子標的薬を含めた従来の抗がん剤と比較しても、P-THPの有効性をはるかに高いことは言える。


ただ、確実に言えることは、延命効果があることと、副作用は限りなくゼロに近いことだ。不幸にして亡くなっても、死の直前まで普通の生活ができるということである。



imageガチンコ竹原 彼は気付いたのかもしれない



製薬会社の弊害


こんなすごい抗がん剤なら、なぜ保険薬にならないのだろうか。


保険薬にするには製薬会社が関わる必要がある。ところが、P-THPに使われた抗がん剤は、古い抗がん剤で薬価も決まっているから、何千万という高額な値段をつけられない。つまり、企業にとって大きな利益をもたらさないということである。

2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智さんは、前田教授の研究を《癌との闘いに光明を示した一科学者の独創的な戦略と優れた戦術》と絶賛したが、製薬会社はそういうふうには見ないのである。

現在の創薬は、オブジーボのように免疫反応を抑制する分子に働きかけたり、分子標的薬のように細胞の表面にある遺伝子やタンパク質を攻撃するといった、分子レベルで働くメカニズムが中心だ。

日本の製薬会社は、世界がその方向なら、乗り遅れるなとばかりにどこもかしこも一斉に同じ方を向く。あるいは、アメリカでコンピュータによる創薬が流行すると、それに負けじと追いかける。P-THPのように、あまりにもアナログ的なメカニズムには関心がないのである。

かつて「2位じゃ駄目なんでしょうか?」と言って批判を浴びた政治家がいたが、世界の流行から遅れまいと、一斉に2位を目指して後追いする日本の企業に危うさを感じる。



image愛国の急先鋒
彼は本当にがんで死んだのか



全身転移のがんが消えた…常識破り
「副作用のない抗がん剤」誕生秘話より
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もう7、8年前位ですかね
よく覚えていませんが

私が
病院の新築工事を請けてた時に
応援に来てくれた職人さんがいました

私の親父より少し若く
当時50代位かなと思います

体格がよく愛想の良い方で
よく現場で
色んな事を教えてくれました

その方があっと言う間に
がんで亡くなりました
入院してすぐです

お葬式でお顔を拝見した時は
あまりの変わり様で
言葉もありません

がん治療とは
こんなに過酷なものなのかと

病院で行われてる治療は
本当に効果があるのか

治られた方も実際います

でも違う治療
違う生き方はないものなのか

ステージ4から
生還された方もたくさんおられます

本当にがんに効く薬はないのか

医者は知っているのではないか

抗ガン剤に効果がない事を

抗ガン剤で
死んてゆくのではないか

実はあるのではないか

がんを消す方法が

とっくのむかしに



病院が治してくれる 本当にそうなのか







野際陽子


野際陽子



結婚、離婚、そして去り際も突然だった野際陽子さん


 テレビ朝日系連続ドラマ「やすらぎの郷」にレギュラー出演していた女優の野際陽子さんが13日死去していたことが15日、明らかにされた。81歳だった。

 通夜、葬儀は終了していると言う。2年前に肺がんが再発し、摘出手術を受けるなど治療中だったそうだ。レギュラー出演していた「やすらぎの郷」も、今年3月16日に行われた制作発表もメインキャストでありながら欠席していた。



 野際さんは富山県富山市に生まれた。3歳から東京・杉並で育ち、立教大卒業後の58年にNHKにアナウンサーとして入局。60年から同局「おはようみなさん」の司会などで活躍したが62年にNHKを退職した。

 野際さんは大学時代に劇団に所属していたこともあって、女優として活動していくことが夢だったようだ。そういったこともあって63年にTBS系「悲(ひ)の器」で女優デビュー。その後、仏ソルボンヌ大学に留学し仏文学を学んだりしたが、帰国して女優復帰して出演したTBSの人気アクション・ドラマ「キイハンター」で一気に開花した。同ドラマは5年間放送され、最高視聴率30%を獲得。野際さんにとっての代表作となった。



 しかし、野際さんで一番印象に残っているのは…「女優・野際陽子」の前に何と言ってもアクション俳優・千葉真一との結婚・離婚かもしれない。もちろん女優としての評価は語り尽くせないが、やはり「キイハンター」と「千葉真一」は今でも、野際さんを語る上でのワードとしてはトップ項目になっているはずだ。

 もっとも、筆者にとっては〝結婚〟よりも、世代的なものなのか「電撃離婚」の方が、印象に残っているのだが…。

 2人の離婚は1994年2月7日に発表された。何だかんだと23年も前の話である。

 思い返してみれば、ハリウッドでの映画製作を夢見る千葉と、売れっ子女優となった野際は、芸能界では〝理想の夫婦〟とも言われてきたものだ。誰もが〝おしどり夫婦〟だと思っていた。



しかし、現実は違った。私生活というのは傍から見ているほど甘くはなかったようで、実際には〝すれ違い〟が「深刻だった」ようだ。

 今だから言えることではあるが、当時は〝熟年離婚〟というのが、ちょっとしたブームになろうとしていた、2人は、そういった世の中の流れに乗るかのように別れた。結婚生活22年。千葉55歳、野際さん58歳だった。典型的な〝熟年離婚〟である。



 それにしても22年間苦楽をともにし、連れ添った夫婦にも関わらず、2人の離婚決意は

 「夫婦でいる意味が希薄になった」。

 この言葉は、世の中的に「夫婦とは何か」を考えるキッカケになったとは思うが、それは逆にワイドショーにとっては格好のネタになったことは確か。ついでに言うなら、2人の離婚が引き金になって〝熟年離婚〟が増え、社会現象にもなったものである。言い方は悪いが〝熟年離婚〟の元祖だったかもしれない。



 話は前後するが、2人は「キイハンター」で共演したのがキッカケで73年、イタリアのローマで結婚した。「5年間もの熱烈恋愛だった」そうだ。

 「2人が理想の夫婦になった最大の要因は、千葉が日本体育大学出身のアクション・スターで、野際は立教大学からNHKのアナウンサーに進み、その後、女優となるという華麗な転身を図ったことでした。まさに知性派スター同士の理想的なカップルだったのです」(芸能関係者)。



 ところが、千葉が手を出していた事業がバブルで崩壊、経済的にも苦しくなったことで2人の溝が決定的に深まっていたようだ。しかも当時、千葉はアメリカで俳優活動を続け、一方の野際さんは「ずっとあなたが好きだった」や「ダブル・キッチン」(共にTBS)などのドラマに出演、その特異な母親役で人気が急上昇中だった。

 「千葉は、ハリウッドで映画製作をするために、日本よりロサンゼルスに滞在する方が多かった。日本にいる時も、映画のために京都に生活の拠点を構えた。

もはや〝別居状態〟でした。何かあっても、お互い、すれ違いで話し合いにもならない。そういったことから夫婦生活は完全に冷め切ってしまったのかもしれません」(プロダクション関係者)。

 その一方で、離婚の原因については千葉の不倫、女性問題なども囁かれた。



 千葉をよく知る映画関係者は言う。
 「どんなに記者会見でキレイなことを並べても、離婚の原因は千葉の〝金と女〟にあった。結局、野際さんが愛想を尽かしたことは間違いない」
と指摘していた。

 野際さんは1人娘・真瀬樹里(まなせ・じゅり)の将来を案じて、離婚には悩んでいたらしいが「娘の女優デビューが決まったことで離婚に踏み切った」のだと言う。

 ただ、さすがに千葉にとっては寝耳に水だったらしい。会見では、
 「彼女から、『キーハンター』の時のような友達関係に戻ってみたいと言われた」
 「映画バカと言われるぐらい夢を追いすぎ、家庭を顧みず、辛い思いをさせた」
と未練タラタラだった。どうやら苦渋の選択で了解したようだ。



 そんな千葉を野際さんは、かばうかのように、

 「同じ職業だから、彼が夢を追うのも理解できる。ただ、彼のいない、娘と2人だけの生活に慣れてしまっていたことも確か。最近、夫婦であるという感覚が薄らいでしまって…。だったら、友達に戻った方が励まし合っていけるんじゃないかと思った」。


 慰謝料に関しては、野際さんは一切、請求しないと強調し、最後まで“円満離婚”だったことをアピールしていた。

 離婚後の野際さんは、安定感のある女優として多くのドラマに出演した。

 NHKのアナウンサー時代から交流のある黒柳徹子(83)とは公私ともに交流が深く、テレビ朝日系「徹子の部屋」には女性ゲスト最多の21回出演していた。

 それにしても結婚、離婚…。そして去り際までも突然だった。






NHKでアナウンサー

大学卒業後の1958年には、
NHKにアナウンサーとして入社され、

名古屋放送局や東京放送局に、
赴任されていたのだとか。

そして、1962年にNHKを退職され、
企画を説明する係りとして、
広告代理店へ転職されています。


女優へ

広告代理店では、15分の生放送番組、
「女性専科」の司会を担当されることになり、

これが転機となり、それ以降、
女優として活動されるようになったのだそうです。

当時のプロデューサー、大山勝美さんは、
テレビドラマ「悲の器」での主人公として、
理知的で美人な教え子を探しておられましたが、
なかなか見つからず、

当時NHKの花形アナウンサーだった野際さんに、
目を留められたのだそうです。

そして、野際さんが、近々フリーになる、
といううわさを聞いて、

「芝居やってみませんか」

と誘うと、

「とてもやりたいと思っている」

と、野際さんは答えられたのだそうです。

普段、人を褒めることがなかった、
主演の佐分利信さんが、
野際さんのことは褒めておられたそうなので、

いかに、野際さんが、
魅力的だったかが分かりますね!



後に、大山さんは、

NHKのアナウンサーだった野際を女優に誘ったのは僕」

と語っておられたとのこと。

野際さんの女優としての才能を、
いち早く見抜かれたのが、誇らしかったようです♪





そして、1968年、
野際さんは、テレビドラマ「キイハンター」に出演され、
視聴率30%以上を記録するという大ヒットとなりました。


野際さんは、主題歌の「非情のライセンス
も歌われているのですが、

なんと、自ら直談判して、
主題歌を歌われることになったのだそうです!



冬彦さんのお母さん

そして、1992年、
社会現象まで巻き起こした
テレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」で、

野際さんは、マザコンの冬彦さん(佐野史郎さん)
の母親役を演じられ、新たに注目を浴びます。

このドラマを見られた方なら、
野際さんといえば、息子を溺愛する、
強烈な姑のイメージが、強いかもしれませんね





このドラマ、実は、もともとは、
切ないラブストーリーになるはずだったそうですが、

冬彦さんの血が出た指を吸うという、
野際さんのアドリブから、

ザコンの息子と、
過剰に息子の世話を焼く母親、
というキャラが生まれたのだそうです!

ということは、
野際さんのアドリブがなかったら、
このドラマは、普通のラブストーリーで、
終わっていたのかもしれませんね。


元旦那は?

さて、そんな野際さんの、
気になるプライベートですが、

1973年に、俳優で、アクション監督の、
千葉真一(ちば しんいち)さんと結婚されています。

お二人の出会いは、前述のテレビドラマ、
キイハンター」での共演がきっかけだったそうです。


しかし、1994年に、
お二人は離婚されています。


野際さんは、2013年、
バラエティ番組「メレンゲの気持ち」に出演された時に、

「当初から、結婚生活自体に違和感を覚えていた。
結婚前から大変な結婚になりそうだ、
という予感はあった。

離婚に向け、全てが整うまで21年かかった。
結婚してからも、夫婦というより、
仲間の延長のような感じだった。」





意地悪な役でストレス解消?!

花型アナウンサーを経て、
美人女優として活躍されていた野際さんですが、

年齢を重ねてからは、
強烈な母親役や姑役など、意地悪な役が多い印象。

野際さんは、インタビューで、


「私は若いころから、
悲劇のヒロインとか絵に描いたようないい人というのは、
あまり演じたことがなくて。

たいていの役は少し意地悪だったり、
うんと意地悪だったり(笑い)。

普段の自分なら、絶対に言わないようなことを、
平気で言ってしまう役が多いものですから、
ストレス解消になるんです。」

と、おっしゃっていました。

なるほど!
そういう風な考え方も出来るんですね~

普通なら、意地悪な人に思われたくない、
とか思いそうですが、さすがは、野際さん。

そして、演技について、


それに、どんな役でも一生懸命演じていれば、
誰かが見ていてくださるもの。

あるドラマで母親役を演じた時、
家でイチャイチャしている娘と彼氏に、
「ご飯ですよ」と声をかけるシーンがあったので、
自分なりに表情や口調を工夫して、
ちょっと笑えるように演じてみたんです。

そのたった1シーンを、
ある演出家の方がご覧になって、
「面白い女優がいるな」と思ってくださったらしく、
別のドラマに起用してくださったこともありました。

私たち女優は、オファーをいただかなくてはできない仕事ですから、
ここまで続けてこられたのは、
とても幸運なことだと思っています。




“息子”と“嫁”が、最愛の“母”を亡くした喪失感をにじませた。



 佐野はこの日、ブログで追悼コメントを発表。「野際さん…ていうか、野際ママ。第二のお母さん。四半世紀前…いや、もうちょっと前にドラマで共演させていただいてから、何本もの思い出いっぱいの作品でご一緒させていただいた」と共演した日々を振り返った。



 「ずっと-」はヒロイン(賀来)が、マザコン男(佐野)と結婚し、夫と、夫を溺愛する姑(野際)に振り回される物語。佐野と野際さんが異常な親子愛を怪演してマザコン息子「冬彦さん」ブームを巻き起こし、1992年の流行語大賞にノミネート。翌93年、3人はTBS系「誰にも言えない」で再共演した。

 共演者で食事するなど交流していた佐野は「こないだ会ったばかりな気がするのに。インテリジェンスあふれる会話から、下ネタまで、楽しかったなあ」と述懐。「つらいそぶりなんかカケラも見せず…。なんだか実感がない」とつづった。



 野際さんは今年2月放送のテレビ朝日系「徹子の部屋」で、「誰にも-」で当時57歳で撮影した佐野とのキスシーン以来、異性とキスをしていないと告白。佐野は「ドラマの中とはいえ、人生で最後にキスをしたのが僕でゴメンなさい。野際陽子さん、本当にありがとうございました」としみじみ感謝した。



 賀来も所属事務所を通じてコメント。「おきれいで聡明で、いつもハツラツとされている野際さんのお姿がいつまでも心に残ります。本当にありがとうございました」と別れを惜しんだ。死しても、黄金トリオで作り上げた名作は永遠に残る。



千葉はスポニチ本紙の取材に「3年前に肺がんになったことを聞いて心配していたんです。今はそっとしてあげたい」と声を落とした。野際さんが亡くなった13日に、一人娘の真瀬樹里(42)から連絡を受けた時も「(野際さんを)見るまで信じない」と伝えたという。ずっと思い続けた憧れの人だった。しかし、この日の密葬も「もう別れているので」と参列せず、地方での仕事先でひっそりと悼んだ。

 TBSドラマ「キイハンター」での共演をきっかけに1973年に結婚。一度もケンカしたことはなく、3歳年上の野際さんを、千葉が「やんちゃ坊主を支えてくれる母のような存在だった」とエッセーで明かしたように、自他共に認めるおしどり夫婦だった。



 しかし、94年に離婚。それぞれ仕事が充実し、すれ違いの生活が続いたのが原因だった。言い出したのは野際さんで「友達関係に戻ってみたい」と千葉に伝えた。

 千葉はまさか野際さんが別れることを考えていたとは思いも寄らず、離婚会見では「私が映画バカで夢を追いすぎて家庭を顧みなかった」と言葉を絞り出すのがやっとだった。ただ“友達関係”に戻ることはなく、関係者によると「その後はほとんど会うことはなかった」という。

 それでも千葉は娘を通じて野際さんの様子を気にかけていた。特にがんが分かってからは「(がんにいいと言われる)酸素水を贈ったりしていました」と振り返った。

 21年の結婚生活には数え切れないほどの思い出があるが、言葉にしたのは酒の強さ。「とにかく大酒飲みでした。横綱と呼ばれていたから」。

 娘からは「落ち着いたら一緒に墓参りに行こう」と言われている。今後のことを考え「できれば樹里と一緒に生活しようと思っている」とも語った。



家族でいるときは、役者では無く、
普通の優しい母親の顔をされていますね



野際陽子さん
関連ニュースより
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野際陽子さんwikiリンク



誰にも言えない 第10話



最近
全くテレビを見ないので
本当に驚きました
誠に残念です

「ずっとあなたが好きだった」
「誰にも言えない」

あの頃は
毎週楽しみで
テレビに釘付けでした
本当に面白いドラマでした

再放送を視ると
本当にずっと視てしましい
寝れ無くなります

忘れられない黄金トリオ
今晩はたぶん寝れません

素晴らしいドラマを
ありがとうございました

さようなら
野際陽子さん












魔法の薬


魔法の薬




覚せい剤とは?


覚せい剤はもともと白い結晶状の薬物で、使用者はこれを微粉末にして鼻から吸引したり、喫煙したり、注射器で注入したりします。現在は錠剤型覚せい剤を経口摂取(口から服用)する人さえいます。しかしどんな方法で取ったとしても、この薬物を取ると、続けて取りたいという強い欲求が引き起こされます。なぜなら覚せい剤は、見せかけの幸福感や充実感、根拠のない強い自信、異常な活発さ、エネルギーをつくり出すからです。また、食欲もなくなります。このタイプの薬物の作用は、通常6~8時間続きます。しかし、24時間続くこともあります。

最初は何らかの快感を得られるかもしれませんが、いったん取り始めると、覚せい剤はその人の人生を破壊し始めます。



覚せい剤は危険かつ強力な化学物質です。それはあらゆる薬物と同様に毒です。最初は名前の通り覚醒作用があり、それから身体を組織的に破壊し始めます。そのため、覚せい剤は記憶力の低下や攻撃性、異常な行動、そして心臓障害や脳障害に発展しかねないような深刻な症状さえ引き起こします。

覚せい剤は非常に中毒性が高く、身体に蓄えられたエネルギーを消耗させ、薬物をさらに取ることによってしか軽減できない、破壊的な依存症を引き起こします。

結晶状覚せい剤は非常に効き目が強く、多くの使用者が、この薬物を初めて使用した時から「はまって」しまったと報告しています。

ある中毒者は次のように言っています。「1回試したらあっという間にはまって、もう抜けられなくなった。」彼は家族、友人、ミュージシャンの仕事を失い、最後にはホームレスとなりました。



このように覚せい剤は、最も治療が困難な薬物であり、とりこになった多くの人が命を落としています。

覚せい剤をやるようになったのは高校3年の時だった。大学に入って最初の学期に、覚せい剤の問題が大きくなりすぎて、退学するしかない状況になった。何時間も鏡に映った自分を見ながら、ずっと顔の皮膚をつまみ続けていたせいで、はしかみたいに顔全体に赤い斑点ができた。覚せい剤をやってるか、覚せい剤を手に入れるか、やることといえばそのどちらかしかなかった。」
アン・マリー

覚せい剤は通常、白い結晶状の粉末です。無臭で苦い味がし、水またはアルコールに簡単に溶けます。

他に見られる色には、うす茶色、灰色がかった黄色があり、また錠剤型覚せい剤には、オレンジ、さらにピンクなどさまざまな色や形状のものがあります。

先にも触れたように、それは吸引や喫煙、あるいは注射によって摂取されます。

結晶状覚せい剤は、氷に似た透明な結晶の塊として売られており、日本ではロックやがんころと呼ばれています。もっとも一般的な取り方はあぶって煙を吸う方法です。




覚せい剤の成分は?


日本で乱用されている覚せい剤のほとんどがメタンフェタミンです。メタンフェタミンは、コカインのように植物から作られたものとは異なり、合成された「人工」の化学物質です。

メタンフェタミンは通常、密造工場でさまざまなタイプのアンフェタミンやそれに類する化合物を用いて製造されますが、効果を増すために他の化学物質が混ぜられています。この薬物の製造には、多くの場合ごくありふれた風邪薬の錠剤が基礎原料として使用されます。メタンフェタミンの「料理人(製造者)」は、その種の錠剤から活性成分を抽出し、さらに薬物の強度を高めるためにバッテリー液、浄水管の洗浄剤、ランタンの燃料や不凍剤といった成分を混ぜ合わせます。


覚せい剤の致命的な影響


覚せい剤や結晶状覚せい剤を摂取すると、擬似的な充実感や活力が生じるため、使用者は自分の身体にその限界を超えた過剰な動きを強いる傾向があります。そのため、薬物の効き目がなくなると、ひどい脱力感を経験し、身体的、精神的に衰弱することもあります。

この薬物を使用し続けると、自然に生じる空腹感が感じられなくなるため、体重が極端に減少する場合があります。この薬物の使用による悪影響には、睡眠パターンが崩れる、多動(ハイパーアクティブ)、吐き気、誇大妄想、神経過敏などがあります。

他の深刻な影響として、不眠、混乱、幻覚、不安、被害妄想1、そして攻撃性が増すなどがあります。時にはひきつけを起こし、死に至る場合もあります。




長期的な害


覚せい剤を長期的に使用すると、回復不能な損傷がもたらされます。心拍数や血圧が高くなり、脳の血管が傷つくために脳卒中、あるいは不整脈を起こし、心臓血管系の破壊から死に至る場合もあります。また肝臓や腎臓、肺などの損傷を引き起こすことがあります。

覚せい剤乱用者は脳にダメージを受け、記憶力の低下や抽象的な考えを把握できないなどの傾向が高まり、実際に兆候として現れます。回復した場合でも、記憶に空白ができたり、極端に躁うつになったりするのが通例です。


短期的な影響


食欲の減退心拍数、血圧、体温の上昇瞳孔の拡大睡眠障害吐き気奇怪でとっぴな、時に暴力的な行動幻覚症状、過度の興奮、過敏性パニック、精神異常過剰摂取によるけいれん、脳卒中、突然死


長期的な影響


心臓および脳血管の永久的な損傷、心臓発作、卒中、死につながる高血圧肝臓、腎臓、肺の損傷鼻から吸引した場合、鼻の中の細胞破壊による鼻血喫煙した場合、呼吸器の障害注射の場合、感染病やはれもの栄養失調、体重の減少重度の虫歯周囲を正しく認識できなくなる、無気力、混乱から来る極度の疲労強い心理的依存精神異常抑うつアルツハイマー病2に類似した脳の損傷、脳卒中てんかん



覚せい剤はどのように人々の人生を変えてしまう?


覚せい剤を取る人たちは、程度の差こそあっても、この薬物に人生を支配されるようになります。覚せい剤の乱用は次の3つのカテゴリーに分けられます。

軽度の覚せい剤乱用者:
軽度の乱用者は、覚せい剤を飲み込むか、または鼻から吸引します。こうした人たちは、仕事を終わらせるまで目を覚ましていられるように、覚せい剤の強い覚醒作用に頼るのです。また体重を減らすために食欲を抑える作用をほしがる人たちもいます。このような人たちは常習者の一歩手前にいます。

覚せい剤の常習者:
常習者になると、喫煙か注射で覚せい剤を取るようになります。こうすると薬物をより効き目の強い形で摂取することになるので、さらに強い「快感」(ラッシュ)を得ることができ、それが心理的な依存につながるのです。このような常習者は、より重度の乱用へと移行していきます。

重度の覚せい剤乱用者:
重度の覚せい剤乱用者は完全な中毒者で、しばしば「スピード・フリーク」と呼ばれます。こうした人たちの生活は、薬物で「ハイ」になった後に襲ってくる強烈な落ち込みを防ぐことだけに向けられています。そのため、乱用者は薬物から「快感」(ラッシュ)を得るために、さらに多くの量を摂取しなければならなくなっていきます。しかし、他の薬物と同様、覚せい剤から得られる快感は1回ごとに弱くなっていくため、覚せい剤の中毒者は、救いようのない命取りの悪循環へと陥っていくのです。


覚せい剤の使用により経験する7つの段階

1) ラッシュ ― ラッシュは、覚せい剤を注射した時に、乱用者が最初に感じる反応(快感)です。ラッシュの間、中毒者の心拍数は速くなり、代謝1 が活発になり、血圧や脈拍が上昇します。約2~5分間しか持続しないクラック・コカインによる快感とは異なり、覚せい剤がもたらすラッシュは30分間も持続することがあります。

2) ハイ ― 快感の後に続くのが「ハイ」の状態です。ハイになっている間、乱用者はしばしば自分が攻撃的で鋭敏になったように感じ、論争を仕掛けたり、他人の話に割り込み、その人たちの話に勝手に結論を出したりします。また薬物の作用で妄想しがちになり、何時間も同じ窓の掃除を繰り返すなど、取るに足らないことに過度に集中するようになります。ハイの状態は4時間から16時間持続することがあります。

3) 酩酊状態 ― 酩酊状態とは、薬物やアルコールの使用をコントロールできなくなった状態のことで、乱用者がハイの状態を保つために、さらに覚せい剤を喫煙、注射しようとする衝動を抑えられなくなることをいいます。酩酊状態は3日から15日間も続くことがあります。酩酊状態の間、乱用者は精神、身体の両面で多動(ハイパーアクティブ)になります。乱用者がさらにこの薬物を喫煙し、注射するたびに、その人が感じる快感は弱まっていき、最終的には快感もハイの状態も感じられなくなってしまいます。

4) 禁断症状 ―「禁断症状」と呼ばれる段階に達した覚せい剤の乱用者は最も危険な状態にあります。これは、酩酊状態が終わり、もう覚せい剤から快感やハイの状態が得られなくなってしまった時に起こる現象です。乱用者は猛烈な空虚感と薬物への渇望を軽減することができず、自己の感覚を失ってしまいます。この状態に共通しているのは強烈なかゆみで、使用者は皮膚の下を虫が這いまわっていると思い込むことがあります。何日も眠ることができず、しばしば完全に精神に異常をきたした状態になり、自分だけの世界に入り込み、誰にも知覚することができないものを見たり聞いたりするようになります。その幻覚は非常に鮮明で、本物であるように見えるため、使用者は現実世界から遮断され、自分自身および他人に対して危険な存在になりえます。また自傷の危険性も高くなります。

5) 破綻 ― 酩酊状態の乱用者は、体が薬物の作用にそれ以上対処できず機能を停止すると、「破綻」と呼ばれる状態になります。破綻の状態になった人は長時間眠り続けます。最も凶暴な乱用者でさえ、破綻の状態にある間は生気がなくなります。破綻の状態は1日から3日間続きます。

6) 覚せい剤の「脱力感」― 破綻の後、乱用者は衰弱や飢え、脱水、また身体的、精神的、感情的に完全に消耗した状態に戻ります。通常この状態は2日から14日間ほど続きます。このような状態はさらに覚せい剤を摂取すれば「解決」されるため、使用者は中毒者になることを余儀なくされます。

7) 離脱反応 ― 最後に薬物を使用して大体30日から90日後、乱用者は離脱反応を経験します。まず、その人は憂うつになり、快楽を経験するエネルギーや能力がなくなります。次に覚せい剤への渇望がますます起こり、乱用者はしばしば自殺を試みるようになります。覚せい剤の離脱は極度の苦痛を伴うものであるため、ほとんどの乱用者がまた薬物に戻ってしまいます。そのため、従来の治療では患者の93パーセントが覚せい剤の乱用に戻っています。


真実を知ってください:薬物


本当の解決策は、事実を認識し、最初から薬物など使用しないことです。 


薬物は本質的に毒です。その作用は、どのくらいの量を摂取するかで決まります。


少し摂取すると、活動をより活発にする中枢神経刺激剤として作用します。多めに摂取すると、活動を抑制する鎮静剤として作用します。さらに多量に摂取すると毒となり命を奪います。

これはどの薬物についても同じです。こうした作用を引き起こすために必要な量に違いがあるだけです。

それだけではなく、多くの薬物には人の心にも影響を及ぼす弊害があります。薬物を取っている人が自分の周囲で 起こっていることを知覚しても、それは歪んだものになってしまう可能性があります。その結果、その人の行動は奇妙だったり、不合理であったりするかもしれません。暴力的になることもあるでしょう。

薬物はすべての感覚を遮断します。望ましい感覚も望ましくない感覚もです。そのため、短期的には痛みを和らげるために役に立ちますが、同時に人の能力や機敏さを消し去り、思考を不明瞭にします。

医薬品は、身体の働きを良くしようとして、何かを速めたり、遅くしたり、身体の働きを変えることを意図した薬物です。時には必要ですが、薬物であることに変わりはありません。中枢神経刺激剤や鎮静剤といった薬物を取り過ぎれば命を落とすこともあります。したがって、医薬品は規定通りに使用されない場合、違法薬物と同様に危険なものになり得ます。

本当の解決策は、事実を認識し、最初から薬物など使用しないことです。

なぜ人は薬物を取るのでしょう?

人が薬物を取る理由は、自分の人生を変えたいと思うからです。

若い世代の人たちが薬物を取る理由には、次のようなものがあります。



周りとうまくやっていきたい。問題から逃避するため。リラックスするため。退屈を紛らわすため。大人になったような気がするから。反抗するため。どんなものか試してみたい。

こういった若者は、薬物が問題を解決してくれると思っているのです。しかし、結局のところ薬物は問題にしかなりません。

自分の問題に直面することが困難なこともあるでしょう。しかし、薬物によって解決しようとしている問題よりも、薬物を使用した方が常に悪い結果を招きます。本当の解決策は、事実を認識し、最初から薬物など使用しないことです。




覚醒剤とは?より
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私は諸般の事情により
某大手運送会社で
夜間バイトを始めました
夜23時から朝7時迄です
これが想像以上にハードで
もう身体ガタガタになります
少し寝てから行くのですが
3時以降の眠気との戦いが
凄まじいです
本当立ったまま
一瞬寝てます
リーダー格で
私達に指示する人がいるのですが
その人はずっと大きな声を張り上げて
凄いハイテンション
それもいつもです
みんな眠たそうな顔で
必死に仕分けしてます
でもその人はイケイケの全開モード
彼は30代半ば位の普通の男です
なんであんなに元気なのか?
毎日来る前にたっぷり寝てから来るのか?

もしかしたら?
私達、庶民の中にも…

私の気のせいで
あればいいのですが
確かに、眠気が来なければ
かなり楽に仕事は出来ます
でも無理ですね
人間ですから
夜は眠たいです

働いてる人
30、40代の人ばかりです
それも女性が多いです
頭が下がります

そこの御主人!
ビール飲んで寝てる位
あなたの収入はありますか?

なんの為に薬物?
仕事の為?
快楽?

私はタバコも嫌いですから
やりません

お酒は少しは飲みます
焼肉にはビールです

収入も安定してある
別にお金に困っていない
身体がしんどい
少しくらいなら…
試してみようかな

なんて甘い考えが
地獄の扉を開く

あのハイテンションの彼は
明日は来るのか?

俺はやっぱり眠たいです



















誇りとはなんだ


誇りとはなんだ



明らかに屈辱的と、誰もがわかる仕打ちが、長い歳月の間に常識化し、屈辱を受けている側にとって、それが「正しい作法」になってしまうということがあります。
これはある意味、おそろしいと感じます。

たとえば朝鮮に「三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)」と呼ばれる礼法があります。
これは、李氏朝鮮時代から続く半島における伝統的礼法で、地上における最高の礼とされるものです。

少し前に「謝罪の王様」という映画が作られ、なんでもかんでも土下座すれば許してもらえる、その土下座も、額から血が出るほど頭を地面に打ち付けるとなんでも許してもらえるから、謝罪は代理の人が行っても構わないという、明らかに誤った常識をまるで日本人に刷り込もうとでもするようなおかしな映画がありました。
この映画、映画そのものは楽しかったし、俳優さんたちも上手に演技していたけれど、考え方は、明らかに半島マインドであって、日本人の発想ではありません。



皇居に一礼する小野田寛郎
最近、こんな綺麗な一礼を街で見ますか?


「三跪九叩頭」というのは、その「謝罪の王様」の土下座と額打ち付け行為を、まさに本物の王様である歴代李氏朝鮮王が行っていたものです。
李氏朝鮮は、高麗の将軍が自分のところの王を裏切って、支那の明国側に寝返って築いた王朝なのですが、このため李氏朝鮮は、李氏が王であることは認められましたが、その代わり明国からの毎年の定例使者がやってきたときには、まさにこの「三跪九叩頭」を強制されたのです。

どういう作法かというと、まず、
 「跪(き)!」という号令で、ひざまずき、
 「一叩(いっこう)、二叩(にこう)、三叩(さんこう)」という号令に従って、
 両手を地面について頭を地面に三度打ち付け、
 その動作を三度繰り返します。
つまり、都合9回、朝鮮王が、支那からの使者の前で、膝をついて頭を地面に9回打ち付けます。

客観的にみれば、誰がどう見てもたいへんに侮辱的な作法です。
支那は、これを朝鮮王に強制したし、朝鮮王は、そこまで屈辱的な礼を恒例化してまで、支那に媚を売り続けたわけです。この礼法は、支那の王朝が明から清に代わっても引き継がれ、なんと、李氏朝鮮では500年に渡って、毎年、この屈辱的な「三跪九叩頭」が支那からの使いの前で繰り返されたのです。





なぜ支那の王朝が、半島の王に対してここまでの仕打ちをしたのかといえば、半島に「上下でしか関係を理解することができない」という伝統的思考があるからです。
対等とか思われたら、その瞬間に増長して、自分の方が上だと態度が急変する。
ですからそのような人たちを相手にするには、常に、「どっちが上なのか」を、誰の眼にも明らかなように見せつける必要があったのです。
言い換えれば、支那は半島と陸続きであるだけに、半島人のあしらい方をよく知っていた、ということです。

北朝鮮情勢が緊迫する中、韓国では明らかに親北の政権が誕生しましたが、対等なパートナーシップを前提とする日米と、共同して北を抑え込まなければならないという次期に、なぜ韓国では、真逆の選択が行われたのかといえば、まさに、彼らには、目先の脅威を「上の人」と考え、土下座外交をすれば命を長らえることができるという、これまた伝統的思考に基づく、いかにも半島流の結果です。



しまじろうは、人形を貰ったらすぐ辞めよう
資金源は何処だ?


このことは、戦前の日本の朝鮮統治と、戦後の米国による大韓政策に共通する根本的な統治姿勢の間違いです。
彼らについて、「同じ人間であり、対等な隣人」という姿勢を持った瞬間、彼らは混乱し当惑し、そして自分たちが上位だと増長を始めるのです。
上下でしかものごとを把握することができないというのは、そういうことです。

個人レベルでは、そうでない人もたくさんいますが、国家という集合体になると、最小公倍数的なできうる最良の答えが生まれることはまずありません。
それができるのは、天皇というシラス存在が民衆を大御宝としているという、特殊なケースが有る場合だけで、それ以外の国においては、最大公約数的な、集団の意思としてはもっとも低次元でレベルの低い行動しかできなくなるのです。

このような屈辱を与える支那の使者に対し、李氏朝鮮王は、これを「三跪九叩頭」で迎えるだけでなく、夜には半島内で調達された美女を接待役に寝所に献上し、また帰りには「大皇帝様へ」と称して半島美女を性奴隷として献上していました。
「大皇帝様」という言い方は、いまでも「大先生様」という韓流独自の言い方として残っています。

もっともその韓国系美女を受け入れた側の明、清の側の記録には、こうして献上された朝鮮美女が、明国や清国皇帝の皇太子を産んだという記録がみあたりません。

日本では、天皇の地位に就ける人は、男性天皇の直系の血筋にある皇族に限られました。
これは天皇が、天照大御神以降の直系のお血筋というところに、天皇としての権威が備わると考えられていたためで、ですから出来る限り天照大御神の実子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、その子であり天孫降臨された迩々芸命(ににぎのみこと)から続く直系の血筋をできるだけ濃く保とうとする意図があったからです。

ところがそうした神話の時代から続く血統が途絶えてしまっている支那においては、皇帝の子でありさえすれば、どんな出自の女性から生まれた子であっても、皇位を継ぐことができました。
ですから、毎年支那の王朝の後宮に、お付きを含めて3000人もの半島最高の美女が献上されていれば、歴代続く支那皇帝の中には、前皇帝と朝鮮系の母との間に生まれた子が皇位を継ぐことがあってもよさそうに思えるのですが、残念ながら、その事実は確認できません。

要するに、献上された半島美女たちは、そんな支那においてさえ、皇帝の子を宿す機会があまりなかったわけで、しかも献上された美女達のその後の運命についての記録がみられないところをみると、その献上された韓国美女たちが、支那でどういう扱いを受け、容姿が衰えてきた後にどういう処遇となったかは、悲しい現実として想像するにあまりあります。



三島由紀夫はこんな国になる事を
憂いていたのか?


李氏朝鮮の時代というのは、半島に主だった産業がありません。
普通なら、国家から国家への贈り物というのは、学問や産業によって生産された、めずらしい物品や、文化的創造物です。
ところがただ貧しいだけの朝鮮半島では、女性くらいしか支那皇帝への献上物がなかったし、その朝鮮にやってくる支那皇帝の使いに対しては、朝鮮王みずからが「三跪九叩頭」という卑屈な礼を取るしかなかったというのが、現実の姿です。

このような作法を求める方も求める方だと思いますが、伝統的に支那の王朝は、朝鮮族に対しては、常にどちらがはるかに「上」の存在なのかを、こうして毎年の行事にまでしてわらせないことには、少しでも油断すれば、すぐに彼らが増長することを、何度も痛いほど経験していたのであろうということが、わかります。

ところが、そのような統治が500年も続くと、このような屈辱的な仕打ちが、作法として常識化して定着します。
長い歳月のうちに、誰が見ても卑屈な「三跪九叩頭の礼」が、なんの抵抗もない、むしろその国の伝統的礼法になってしまうのです。
ある意味、これはたいへん恐ろしいことです。



朝鮮全権大使一行の米国アーサー大統領公式訪問

(News Paper 1883/9/29)



ところが現実に李氏朝鮮は、米国大統領の前でも、まさにこの「三跪九叩頭の礼」を、なんのためらいもなく行っています。
それが冒頭の絵です。

これは明治16(1883)年9月のことで、この年、李氏朝鮮王は米国に全権大使を派遣しました。
そしてその全権大使が、まさに米国アーサー大統領公式訪問の際に、この「三跪九叩頭の礼」をとったのです。
これは、当時の米国人にとっても、驚くべき惨めな姿であったようで、その様子が新聞でも報道されています。

要するに、確固たる正しい価値観が教育によって育成されていなければ、人間は、いかなる劣った習慣であっても、それを作法として受け入れてしまうことがある、ということです。

しかも半島の場合、こうして熟成されたおかしな「作法」が、彼らにとっては「文化」となります。
そして「屈辱」が、いつの間にか「作法」になり、誇らしい「礼法」になるのです。
屈辱を強制されてきたという彼らにとって、屈辱を「そうではなかった(屈辱的ではなかった)」とするためには、そのようにするかなかったのです。

彼らが歴史認識において、明らかに間違った歴史認識を、他国へも強要しようとする理由のひとつがここにあります。
対等な国家となったと思った瞬間、自分たちが上と考える彼らは、屈辱的な過去さえも、誇るべき過去にしなければならず、そうなると歴史認識は、常に現代の目で観た「都合」が、「事実」に優先します。



伝説の英霊、舩坂弘氏


おかしな文化があったものですが、けれど、それが隣国なのです。
そしてその隣国に、親北政権が出来たのです。
その北にとっては、親は支那です。
ということは、支那からみれば、韓国に親北政権が出来たということは、彼らは、半島と、その周辺海域まで、自国の影響下に置いたということになります。
すると彼ら(中共)は、その影響を、固定化させるために、そのエリアへの軍事的支配と政治的介入に本腰を入れ始めます。

このままでいけば、中共艦船は、尖閣を通り越して、おそらく竹島海域にまで進出してくることになるであろうと思われます。
日本は、まったくろくでもない国を、ご近所にもったものです。


お読みいただき、ありがとうございました。



小さな子どもは、これが当たり前と思うだろう
誰が躾けるのか?



ねずさんより
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街を歩けば
行く店、行く店
ほとんどコンス
若者から
オバハン
ええ年した親父まで

「ご注文、以上で宜しかったでしょうか。」

これは一体何語だ?

思い出して欲しい
あなたの親は
こんな礼節、言葉を
使っていたのか?

みんな気が付いてるはず

そう分かっているのに
やめない、直さない

恥、誇りを忘れたのか?

俺たちは何人だ?
















サリバン先生


サリバン先生


あまりにも有名だが、初めて教えた言葉は
「doll」であると言われている



「サリバン先生」アン・サリバンが、3重苦を持ったヘレン・ケラーの家庭教師である事は皆様ご存知だと思います。しかし、アン・サリバン自身が苦境の人生を克服し、ヘレン・ケラーと出会い、世界中の人々を励ます人物を生み出した方である事は、あまり知られていません。今日は、サリバン先生の生涯を紹介させて頂きます。


アンは1866年4月14日 マサチューセッツ州フィーディング・ヒルで、アイルランド移民の両親の元に生まれました。3歳の時、目の病気トラコーマになり弱視となりました。家族とともに九歳まで生まれ故郷でで暮らしましたが、アンの父トーマスは、農民で自分の土地を持っていない農業労働者だった為、仕事もあまりなく、家族を養うことを放棄していました。アンが9歳の時に母が亡くなり、、父トーマスは娘アンと弟ジミーを、チュークスバリーのマサチューセッツ州立救貧院[孤児院]に預けて姿を消します。こうして、サリバンの家族は離散してしまいます。



救貧院に入った時、弟はすでに結核により身体が不自由になっていました。救貧院に入って2年後の春、弟ジミーが亡くなりました。父トーマスは、弟が亡くなった後、救貧院を一度だけたずましたが、その後の父トーマスの行方は分かっていません。アンも父を探すことをしなかったようです。


母と弟の死、そして父の失踪と、幼いアンに耐え難い悲しみが次々と襲いました。またアンの目の病気も救貧院に入った後に悪化し、盲目となっていました。弟の死後、アンは生きる力を失い、うつ病になり、食事を全くとらずに、暗闇の中にとどまるようになりました。外界との接触を避け、死を待つような生活を続けていましたが、救貧院の一人の看護婦が毎日、アンを訪ねていたのです。看護婦はアンに聖書の話を聞かせました。最初は全く心を閉ざしていたアンでしたが、看護婦の献身的な愛を受け、次第に心が開かれていくようになり、アンにも信仰が与えられたのです。



アンが十四歳の時でした。州慈善委員会が救貧院を視察したとき、アンは「勉強をしたい!」と、視察団にお願いをしました。その願いが聞かれ、 パーキンス盲学校へ進学する道が開かれました。パーキンス盲学校は、歴史もあり、近代的な設備を持つ盲学校で、当時最も優れていたといってもよい学校でした。しかし、出自に負い目のあるアンは、家庭や救貧院での暗い過去を、周囲の人に隠し通しました。アンは、生涯、自分の子供時代、少女時代のことについて、多くを語ってはいないのです。


入学後、アンは、不自由だった目を手術してもらって、なんとか文字が読めるほどに視力が回復しました。政治記事を読んだり、裁判を傍聴したりと、アンの生活はどんどんと広がっていったのです。また、在学中に視覚、聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと出会い、友達になりました。ローラとの親交と自身の盲目の経験が、後のヘレン・ケラーの教育に生かされたと言われています。アンとローラは指文字で交流していました。入学当時のアンは、その生い立ちにある心の傷から、人を信頼し、心を開く事が難しかったのですが、ローラとの親交や、アンを受け入れ愛を注いでくれた先生達の愛を通して、積極的な態度で勉強に打ち込み、体面を取り繕うのではなく、誠実な付き合いを望むように変えられていきました。



入学から6年後の1886年、アンは卒業生総代としてスピーチを行いました。また、卒業と同時に、聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グレアム・ベル(電話の発明者として知られる)の仲介でアンの卒業した盲学校のアナグノス校長が、総代で卒業したアンに、アラバマ州タスカンビアに住んでいたケラー家で「ガバネス」として住み込みで働かないかと誘います。ガバネスとは、家事を担ったり、子供の教育をしたりする 家政婦のことで、教員資格がないばかりか高校も卒業していないアンでしたが、家政婦であれば彼女でもできる仕事だと考えたのでしょう。しかし、ケラー家は、大農園を持ち、黒人の使用人も抱えていましたから、家政婦がほしかったわけではなく、必要だったのは、ヘレンの教育係りでした。


アンはこの話を受けました。3月3日、アンがアラバマ州タスカンビアのケラー家に着任した時、彼女は22歳でした。アンは、それまで主に、孤児院と救貧院で過ごしていたために、就職した経験はなく、教師になるための資格も持ってはいませんでした。しかしアンは着任当初から「この仕事に心をこめて献身しよう」と、彼女は自分が心を開いた経験から、信仰と愛をもってヘレンを育てようと心に決めていたのです。



アンがヘレンに会ってから十七日後、知人に宛てた手紙で「ヘレンに奇跡が起こりました。小さな生徒の心に、知性の光が差し込みました」と書きましたが、これは、「怪物」(ファントム)と呼ばれていた野生児ヘレン・ケラーが、アンにキスすることを許してくれた日でした。


こうして、信頼して心を開いて、従うようになったヘレン・ケラーは、アンと出会って約1ヶ月後に井戸の水の流れからインスピレーションを得て、ものには名前があることを理解します。その時の事をアンはこう綴っています。


「ある新しい明るい表情が顔に浮かびました。彼女は何度も「water」と綴りました。それから、地面にしゃがみこみその名前をたずね、ポンプやぶどう棚を指さし、そして突然ふり返って私の名前をたずねたのです。私は「Teacher」と綴りました。」


アンは自分のことを「アン」でもなく、「サリバン」でもなく、「先生」と答えました。後にヘレンは「私の誕生日は1880年6月27日ではなくて、私の生活の中にアン・サリバンが入ってきた1887年3月3日です。」
と語っているほどです。ヘレン・ケラーが先生と呼んだのは、生涯でアン・サリバン一人だけでした。


サリバン先生はこの後、約50年ヘレン・ケラーと共に歩みました。三重苦を克服し、ラドクリフ大学(ハーバード大学の女子学部)へ入学をし、その後、世界に名を残す人物となったヘレン・ケラーの生涯は、「サリバン先生」の愛、忍耐、希望によって導かれ、開かれていったと言っても過言ではありません。


最後にサリバン先生が残した言葉をご紹介します。


「失敗したら初めからやり直せばいいの。そのたびはあなたは強くなれるのだから」




「私の魂の誕生日」
ヘレン・ケラーとアニー・サリバン




3月3日はひな祭りですが、この日は障害児の教育に関する記念すべき日でもあります。盲ろうの少女ヘレン・ケラーのもとに、家庭教師のアニー・サリバンが初めて訪れたのです。1887年のこと。ヘレンは後にこの日を「私の魂の誕生日」と呼んでいます。
サリバンはこのときはまだ20歳。視覚に障害があったために通っていた、マサチューセッツ州ボストン郊外のパーキンス盲学校を首席で卒業した優秀な学生でしたが、教師経験はありませんでした。一方、アラバマ州タスカンビアで生まれたヘレンは6歳9か月。1歳7か月のときに視覚と聴覚を失い、周囲の人に意思を伝えるのには、身振りや仕草に頼るしかない子どもでした。

ヘレンが、手のひらを流れる物質としての“水”と、言葉としての“ウォーター”との関係を確実に把握し、この世の中のすべてのものに名前があることに気がつく、いわゆる「井戸端の奇跡」はこの出会いからわずか1か月後のことです。


この1か月という短期間で困難をきわめる盲ろうの少女の教育を可能にした陰に、あまり知られていないもうひとりの人物がいます。ヘレン・ケラーの半世紀前に“奇跡の人”と呼ばれていた、「ローラ・ブリッジマン」という女性です。ローラは2歳の時に視覚と聴覚を失いました。そして、ヘレンと同じように教育を受けずに成長し、7歳10か月のときにパーキンス盲学校に入学します。ローラはそこで、盲学校の創設者のサミュエル・ハウという医師から最初は点字、後にはアルファベットを表す指文字を習い、言葉を身につけることに成功していたのです。



サリバンがパーキンス盲学校で教育を受けていた同じ時期に、たまたまローラは盲学校で暮らしていました。年齢は50代の後半で、盲学校の生徒に裁縫などを教えていました。サリバンはヘレンの家庭教師の話が舞い込む以前から、ローラと交流があり、指文字で会話を行っていました。サリバンは生きた技能として指文字を使っていたのです。と同時に、幼児期に視覚と聴覚を失った人間でも、指文字の習得によって、書物を読みこなすほどの知性を身につけることができるという事実も目の当たりにしていました。


サリバンがローラに出会っていなかったら、果たして視覚も聴覚も失っていたヘレンに対して何の偏見ももたずに接することができたでしょうか。さらに教育によって確実に成果を上げることができるという確信をもてたでしょうか。その意味で、ローラ・ブリッジマンは、「井戸端の奇跡」の陰の立役者と言えると思います。
サリバンはヘレンと初めて出会った3月3日、お土産の人形を手にするヘレンの手をいきなり取って、自分の手を握らせ“DOLL”と指文字を綴ります。すると、ヘレンは手遊びだと勘違いして、そのまま指の形を真似て“DOLL”と応じます。ふたりの49年間におよぶ魂の交流はその瞬間に始まりました。そして、このふたりの出会いによって、人類は障害のある子どもに教育を施すことの重要性を末永く記憶にとどめることになるのです。


アン・サリバンは70歳で生涯を終えるまで、ヘレン・ケラーと離れる事は無かった。サリバン存命中に、大阪盲人協会長の岩橋武夫氏に来日要請を受けるも、固辞し、サリバンが亡くなった後、3度来日している。

アン・サリバン資料
「私の魂の誕生日」記事より
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アン・サリバンwikiリンク


ヘレン・ケラーwikiリンク


岩橋武夫wikiリンク



人生は出会いによって
大きく流れが変わると思います。
足を踏み外した俺にも
まだチャンスはあるのか?













小野田寛郎


小野田寛郎



小野田寛郎(おのだひろお)さんは、30年間、大東亜戦争を戦い続けました。
小野田さんは、大正11(1922)年、和歌山県海南市で生まれました。
兄弟みな軍人という家柄です。
中学時代の小野田さんは、県下有数の剣道選手だったそうです。
卒業して、貿易会社に就職する。
そして支那に渡って、中国語を習得しています。

軍人としての招集は、大東亜戦争開戦後の昭和17(1942)年のことでした。
上海で現地招集されました。
配属は、和歌山歩兵第61連隊でした。

入隊後、小野田さんは猛勉強して、陸軍甲種幹部候補生を受験しました。
そして見事、陸軍予備士官学校に入学しました。
卒業後、推薦を受けて陸軍中野学校に入学しました。
中国語や英語に堪能だったためでした。



陸軍中野学校といえば、陸軍のスパイ養成学校として知られています。
そのように聞くと、なにやら特殊な殺人訓練やおそろしい諜報活動をする怖いところというイメージを戦後生まれの私達は持たされています。それは戦後の洗脳(妄想)です。

陸軍中野学校は、実は、そこが軍とは思えないほどリベラルな学校でした。
そもそも学生たちは軍服を着ません。平服です。
髪も、軍人らしい坊主ではなく、長髪でした。
ですから、立派な軍人にしようと息子を中野学校に入ったら、その息子が「平服で髪も長い。たるんでるんじゃないか」と親が怒ったという話も残っています。

学生たちのカリキュラムは、午前中は諜報関連の講義、午後は自習でした。
八紘一宇大東亜共栄圏といった理念に関する教育は一切なく、日米の戦力比較や、陛下の地位等に関しても、驚くほど自由な議論が交わされたそうです。
同校の出身者の弁を借りれば、「戦時中、最も自由な校風であった」そうです。

その中野学校が、学生たちに徹底して叩きこんだことはただ一つでした。
それは、
「相手のために誠意を尽くすこと」
です。

相手というのは、潜入した相手国の人々です。
中野学校の生徒は、名誉も求めず、地位も求めない。
もちろん諜報のプロとして、潜入した相手国の状況をつぶさに観察し、報告しますが、そのためにも、相手国の人々に誠意の限りを尽くす。
中野学校が、厳しく教えたのは、諜報や防諜任務について、自国の勝利のためには何をやっても良いなどという考え方と行動そのものの全否定でした。



見習士官(陸軍曹長)当時の小野田氏(右)弟の滋郎氏(陸軍少尉)
昭和19年(1944年)12月頃撮影(22歳)


諜報活動は、あくまで相手国のために、相手国の実情を正確に把握するための手段でしかない。
それ以上に、中野学校の出身者は、「相手国の人々のために」全身全霊を込めて誠意を尽くせと教えられたそうです。
このあたり、自国を勝利に導くためなら、何をやってもよいと教えるどこかの国の工作員養成機関などと、まるで違うところといえます。

それだけに、アジア諸国に派遣された中野学校の出身者たちは、当時、本気でアジア諸国の独立を願ったため、あくまで「勝利」にこだわる軍首脳と、真正面から対立することもしばしばで、そうした記録は、戦前戦時中に枚挙にいとまがないほどです。



小野田さんが卒業したのは、東京中野にある中野学校本校ではなく、二俣分校の方でした。
いまは静岡県浜松市保健所天竜支所となっています。
二俣分校も教えるところはまったく同じです。

ただ、本校との違いは、諜報論だけでなく、やや特殊なゲリラ戦やジャングルでのサバイバル法などの訓練が施された点でした。
このことが後年、小野田さんのサイバル生活生存のファクターになっています。

小野田さんのサバイバル生活を振り返ってたいせつなことは、彼は部下とともにジャングルに30年潜み、その間、数百回に及ぶ戦闘を行っているけれど、食料調達のために現地の村を襲ったり、女子供に怪我を負わせるようなことが「一切なかった」ことです。

小野田さんは、最初三人の仲間とともに、ジャングルに潜みました。
フィリピン警察や米軍との撃ち合いになったこともありました。
この銃撃によって、小野田さんの部下はお亡くなりになっています。
それだけ激しい銃撃戦があっても、小野田さんは武器を持たない地元民や婦女子に一度も怪我をさせていないのです。
このことは、小野田さんたち一行を語るときに、絶対に外せない一点です。



中野学校を卒業して、フィリピン戦線に情報将校として赴任した小野田さんは、昭和19(1944)年12月、遊撃戦指揮の任を与えられ、ルバング島に向かいました。
ルバング島というのは、フィリピンの首都マニラの湾の出入口にある島です。
島からは、マニラ湾が一望でき、湾内の軍事艦船や、航空機配備の状況が一目で分かります。

赴任に際して小野田さんは、上官である横山静雄中将から、「玉砕は一切まかりならん」と厳命されたそうです。
このときの横山中将の言葉です。

「3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。
 それまで兵隊がひとりでも残っている間は
 ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。
 重ねて言うが
 玉砕は絶対に許さん。
 わかったな。」

そして言葉どおりに小野田さんが忠実に使命をまっとうしたのは、みなさまご存知のとおりです。
さらに、出発に先立って、小野田さんが参謀部受けた説明です。

「盟邦ドイツの降伏は時間の問題である。
 戦況はわが軍にますます不利な情勢にある。
 すでにサイパンが陥落し、
 海軍はレイテ沖海戦で壊滅的打撃を被った。
 米軍は今後まず沖縄に上陸を敢行するであろう。
 その後は、九州、大隅半島に上陸し、浜松を拠点化。
 九十九里浜上陸を目指すであろう。
 従って本土決戦は必至である。
 最悪の場合、米軍による日本本土占領もありうる。
 その場合、日本政府は満州に転進し、
 関東軍を中心に徹底抗戦を図る。
 大陸には陸軍80万人の兵力が温存されている。
 反撃攻勢の時期は3年ないし5年後と推定される。
 それまで、敵情をよく視察し、我が軍の再来に備えよ。」

何日か前にも書きましたが、軍人というのは、どこまでも必勝を期するものです。
それが軍人の役割です。
しかし参謀の5年は10年になり、ついに30年になりました。
その間小野田さんは、日本には米軍の傀儡政権があり、旧日本は、満洲の地で捲土重来を期して戦い続けていると、ずっと信じ続けていたそうです。

ルバング島に着任した小野田さんは、守備隊に、島のジャングルに籠っての長期持久作戦を提唱しました。
小野田さんにしてみれば、長期持久が任務ですから、当然です。
そのために地元民と懇意にする方向を選択すべきと建言したわけです。

しかし守備隊は、島を守る、すなわち敵の上陸を許さないことが任務です。
だから水際で米軍を食い止める作戦を選択しました。
結果は、不幸な結果となりました。
圧倒的火力にものをいわせた米軍は、隙間ない砲弾の嵐で日本側守備隊が築いた水際防衛ラインをあっという間に粉砕してしまったのです。

やむなく守備隊はジャングルに逃げ込みました。
けれど、もともとの作戦が、水際作戦です。
ジャングルでのゲリラ戦を想定していない。
守備隊は、激しい抵抗戦を挑むけれど、全員玉砕してしまわれました。

その激しい戦闘を、小野田さんと、その直属の部下3名は、しぶとく生き残りました。
任務は、マニラ湾に展開する敵情の視察と監視です。
日本軍がふたたびもどってきたときのため、「残地諜者」としてジャングルに潜んだのです。



昭和20年8月15日、日本は終戦を迎えました。
現地の日本軍は玉砕しています。
もはや任務解除の命令を届ける者は誰もいません。

小野田さんたち4名に補給はありません。
ですから島内の野生の牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生する椰子の実を拾って食料にし、生き延びました。
野生の牛は良質な動物性タンパク質を、椰子の実は、彼らにこれまた良質なビタミンとミネラルを効率良く供給されたそうです。

小野田さんたち一行の携帯した武器は、九九式短小銃、三八式歩兵銃と、軍刀です。
弾薬は、島内から拾い集め、火薬には島内に遺棄された戦闘機用の機関銃弾の実包の火薬を、銃の薬きょうに移し替えて使用したそうです。

彼らは、たった4人で、幾度も米軍基地に挑みました。
日本軍が還ってくるのに、もっとも障害になる米軍のレーダー基地を粉砕もしくは機能不全にしておく必要があったからです。

彼らは戦い続けたのです。
レーダー基地を破壊し、放火し、米軍に対するかく乱攻撃をし続け、ついには米軍レーダー基地の司令官をも狙撃して重傷を負わせています。

終戦から5年経った昭和25(1950)年、部下の赤津勇一一等兵が、戦闘中にはぐれて行方不明になってしまいます。
小野田さんたちは、必死に赤津一等兵を探すけれど、負傷し、衰弱していた赤津一等兵は、もはや声を上げることすらできなかったのだそうです。

6月になって、赤津一等兵は、ジャングルの中で倒れて意識不明になっているところを、米軍に発見され、逮捕され、投降しました。
彼の投降によって、小野田さんを含む3名が、まだ現地残留日本兵としてジャングルに潜んでいることが確認されました。

しかし、当時の日本は、いまだ占領下にあります。
捜索隊を編纂できるだけの体力もありません。
そしてこれに時を合わせたかのように、同月、朝鮮戦争がぼっ発したのです。

米軍は、山狩りの捜索隊を組みました。
朝鮮戦争の勃発のために、マニラ湾にいる米軍の艦艇や、空軍基地の動きも、にわかに慌ただしくなりました。
この様子に、小野田さんたちは、これを事前に受けていた説明、すなわち「3年ないし5年後の反撃攻勢」があったものと思ったそうです。

そんなある日、海岸に機帆船の残骸が漂着しました。
そこには、日本船籍を示す「○○丸」の文字が書かれていました。
小野田さんたちは、その文字と、米軍の動きから、日本軍が還ってきたと確信します。
そして、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意を新たにされたそうです。

小野田さんたちは、米軍レーダー基地に対する執拗な攻撃を繰り返しながら、同時に敵情の視察を日々、正確にし続けます。
しかし日本軍はなかなかやってきません。



 

そうこうするうちに、昭和29(1954)年5月7日、地元警察隊との撃ち合いが起きます。
このとき、戦友の島田庄一伍長が亡くなりました。
眉間を撃ち抜かれて即死してしまったのです。

あとに残された小野田寛郎少尉と、小塚金七上等兵の二人は、それでもなお密林の奥に潜み、来たるべき日を待ち続けます。
ある日、彼ら二人は、偶然、壊れたトランジスタラジオを手に入れました。
機械に強い小野田さんは、このラジオをなおし、改造して、短波受信機につくりかえました。
そして米軍倉庫から奪い取った金属製ワイヤーで、これにアンテナを付けました。

ラジオからは、懐かしい日本語の放送が聞こえてきました。
ひさしぶりに聞く、祖国の声です。
涙が出たそうです。

二人は、毎日、短波放送に聞き入りました。
ある日、短波放送から日本の競馬中継が聞こえてきたそうです。
小野田さんと小塚さんは、競馬中継を聞きながら、二人だけで賭けをして愉しみました。
なにもないジャングルでの生活の中で、これがお二人にとっての唯一の娯楽になりました。

入手したラジオからは、毎日のニュースが聞こえてきました。
東京オリンピックの実況中継も聞こえてきました。
ときどきやってくる日本の残留兵捜索隊が残していく日本の新聞や雑誌からは、大阪万博や皇太子成婚の様子を伝えるグラビアページなどの情報ももたらされました。

それらの情報の断片から、小野田さんたちは、日本が繁栄していると確信します。
そしてこれだけ日本が繁栄しているのだから、日本は戦争に勝ったに違いないと、判断したそうです。

しかし、そんなお二人に、運命は悲しい別れをもたらします。
昭和47(1972)年、地元警察隊との銃撃戦となったとき、小塚金七上等兵が戦死してしまうのです。

このときの小野田さんの手記があります。

「敵は激しく撃ってきた。
 応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。
 いままで何度もあったことだ。
 だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
 「肩だ!」
 小塚が叫んだ。
 振り向くと右肩から血が流れていた。
 「銃はオレが持って行く。先に走れ!」
 「胸だ!ダメだ」
 私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。
 小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
 敵の銃声が途絶えた。
 いまだ!私は二丁の銃を持って後ずさった。
 退いたものと思っていた小塚がいた。
 「小塚! 小塚!」
 私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。
 反応がない。
 顔をみた。
 見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
 私は両手に二丁の銃を持って、一気に灌木の斜面を駆け下りた。
 激しい銃声が後を追った。
 私は最後の戦友を失った。
 小塚、51歳であった。」



この元日本兵射殺事件は、地元で大々的に報道されました。
その報は日本にももたらされました。
厚生省援護局は、職員を現地に派遣し、大規模な捜索隊を編成しました。
この捜索隊には、小野田さんのお兄さんも同行しました。
戦友たちも同行してくれました。

遺体は、間違いなく小塚金七一等兵であると確認されました。
残る日本兵は小野田元少尉一名であることも、確認されました。

捜索隊は、山狩りをしました。
この様子を、小野田さんは見ていました。
密林の中で、兄の姿も確認しました。

しかし、これはアメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動であるかもしれないのです。
小野田さんはジャングルに隠れました。
こうして当時のお金で1億円もの巨費を投じた大捜索隊は、失敗に終わりました。

ここで登場するのが、元ヒッピーで冒険家の鈴木紀夫(すずきのりお)さんです。
彼は、昭和49(1974)年、単身でルバング島に向かいました。
このとき鈴木さん、25歳です。
「パンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢」だという方です。

鈴木さんは思います。
「鐘や太鼓をたたいた大騒ぎで捜索するから小野田さんは、まずまず懐疑的になっているのだ。オレだったら、小野田さんの占領地に一人で入って行って、野営する。そうすれば、縄張りを荒らすやつは誰だ、と小野田さんの方から姿を現すのではないか」

彼の読みはピタリと当たりました。
鈴木さんが野営しているテントに、銃を持った小野田さんが現われたのです。
ほんとうは小野田さんは、身長は160cmと小柄なのですが、鈴木さんはこのとき「大男が現れた」と震えあがったそうです。
恐怖に怯えた鈴木さんの目には、小柄な小野田さんが、大巨人のように見えたのです。

一方、ジャングルに精通している小野田さんは冷静です。
鈴木さんの様子を、頭のてっぺんからつま先までよく検分しました。

後に小野田さんは語っています。
「もし、奴(鈴木さん)があの時、靴下にサンダルという妙な格好していなかったら、撃ち殺していただろう。なぜなら、フィリピンでは、靴下をはく階級はサンダルを履かない。必ず靴を履く。」

小塚さんを失って二年が経っていました。
人恋しさもあったかもしれません。
小野田さんは、その奇妙な格好をした青年に声をかけ、夜を徹して語り合いました。
気がつくと朝になっていたそうです。
鈴木さんは、
「小野田さんを見つけたという証拠に一緒に写真を撮りたい」とカメラを持ち出しました。

ところが機械に弱い鈴木さんは、セルフタイマーの扱いがわからない。
戦前、カメラが趣味だった小野田さんが、
「だらしがないぞ、貸してみろ」と、
カメラのセルフタイマーを作動させて写真を撮ったそうです。
それが下の写真です。

自分のカメラの使い方がわからず、ちょっと照れ笑いした鈴木青年と、30年の月日を超えて、堂々とした帝国軍人の小野田さんが一緒に写っています。



鈴木紀夫青年の説得に応じた小野田さんは、昭和49(1974)年3月9日、村におりました。
そこで、かつての上官である谷口義美元少佐から任務解除および帰国命令を受けました。
こうして小野田さんの戦争は終わりました。



このとき小野田さんは、命令受領に先立ち、先に、谷口元少佐に直立不動の姿勢で、在フィリピン米軍基地の最新レーダー基地に関する詳細な状況報告を行っています。
その内容は、極めて正確かつ詳細なものでした。
そして、小野田さんは、谷口元少佐らとともに、フィリピン軍の軍事基地に向かいました。

そこで小野田さんは、フィリピン軍基地司令官に軍刀を渡しました。
軍刀を渡すというのは、軍人にとって、降伏の意思表示です。
小野田さんは、処刑されることを覚悟したそうです。

フィリピン軍司令官は、一旦受け取った軍刀を、そのままそっと小野田さんに返しました。
そして、こう言いました。
「この軍刀は受取れません。
 なぜならあなたは軍隊における忠誠の見本だからです。」

数日後、小野田さんの投降式が行われました。
この投稿式にはフィリピン大統領であるマルコス氏も出席しています。
大統領は挨拶のなかで、小野田さんに
「あなたは立派な軍人です」と、最大級の賛辞を贈りました。

実はこのマルコス大統領の挨拶は、たいへん大きな意味を持ちます。
というのは、小野田さんたちは、30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在フィリピン米軍の兵士30人以上を倒しています。
大東亜戦争を戦い続けた小野田さんたちにとっては、これはもちろん「戦争行為」です。
しかし戦後に生まれたフィリピン政府からみれば、平時における殺人です。

マルコス大統領はこの問題について、超法規的措置をもって、小野田さんを讃(たた)え、小野田さんを一切の罪に問わないという意思決定を行っています。
これこそ、男の貫禄であり、国家の貫禄というものだと思います。



この席上、州知事夫人が改まった顔で、突然、次のように切り出しました。
「ミスター・オノダ。島の女性と子供たちからメッセージがあります」
場が一瞬、氷つきました。
(罪に問うのか?!)

州知事夫人は続けました。
「島の男たちは三十年間、大変怖い思いをしました。
 不幸な事件も起きました。
 しかし、オノダは決して女性と子供には危害を加えませんでした。
 彼女たちが子供たちと共に安心して暮らすことができたのは
 大変幸せなことでした。」

このことについて、後年、小野田さんは、次のように述懐しています。
「私は別にジュネーブ国際条約に定められた事項を守り通そうという意識があったわけではない。人として当たり前のことをしたまでです。」

そうなのです。
ハーグ陸戦条約は、非戦闘員に対する殺戮行為を禁じています。
もちろん小野田さんたちは、この条約のことは知悉しています。
そうではなく、それでもなお、「条約があるから婦女子を殺害しなかったのではない」と小野田さんは明言されているのです。
それは、「人としてあたりまえのことなのだ」と言っているのです。
これが帝国軍人です。
これが日本の男です。

武器を持って襲ってくる相手に対しては、たとえどんなに敵が強大で圧倒的な火力、圧倒的な戦力、圧倒的な兵力を持っていたとしても、敢然と立ち向かう。
しかし、武器を持たない者、抵抗しない者、婦女子等に対しては、たとえそのために自分が死ぬことになっても、一切攻撃をしない。

以前、拉孟(ラモウ)の戦いのことをご紹介しました。

このときの戦いで、両眼を失った戸山伍長は、妻の昭子とともに、苦しい戦いを闘っていました。
昭子さんが、全盲の戸山伍長の眼になって、手榴弾投擲の方向と距離を目測し、伝えていたのです。
そこに敵の第三波が来た。
甲高い喚声を聞いた戸山伍長は「少年兵?」と昭子に聞きました。
榴弾の信管を抜こうとした手を停めました。
「十五、六の少年兵ばかり!」と昭子さんが叫びました。
敵兵とはいえ、年端もいかぬ子供を攻撃する?
戸山伍長は一瞬躊躇しました。
そのとき、敵の少年兵が投げた手榴弾が夫婦の足元に転がってきました。
次の瞬間、手榴弾は轟音とともに炸裂し、戸山伍長、昭子夫妻はともに壮烈な戦死を遂げました。

若き日の私達の父祖は、そういう戦いをしたのです。
いかなる状況下にあっても、非道な真似はしない。
なぜならそれが日本の武士道だからです。

昔は、これが普通だったのです。
これが普通の日本人だったし、ご近所にいる青年やおじさんたちの姿でした。
とっても厳しい。
けれど、一本筋がピンと通っている。
それが日本の男でした。国家の品格でした。

戦後の日本人は、経済的には大きな繁栄を手に入れたけれど、品格を失いました。
しかし取り戻すことはできます。
いや、取り戻さなければならないのです。



ねずさんより
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この男は何処を見ている?







小野田寛郎氏wikiリンク



凜として愛








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