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ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

俺はアパホテルに泊まる


俺はアパに泊まる




これからの日本人に求められるのは対立する度胸を持つこと


日本の「アパホテル」の客室に南京大虐殺を否定する本が置かれているとして、中国で騒ぎになったのだが、アパホテルはこのような見解を堂々と出している。

「異なる立場の方から批判されたことを以って、本書籍を客室から撤去することは考えておりません。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならないと考えます」

この書籍『本当の日本の歴史 理論近現代史』は元谷 外志雄(もとや・としお)というアパグループの代表が書いたものであり、「あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたもの」であるという。



しかし、歴史プロパガンダを仕掛けている中国はこうした書籍があることを絶対に認めない。

この一企業の動きに、中国では外務省が「日本国内の一部勢力は歴史を正視しようとしない。正しい歴史観を国民に教育し、実際の行動でアジアの隣国の信頼を得るよう促す」とわざわざ批判している。

今までの日本人であれば、すぐに腰砕けになって折れただろう。しかし、アパグループは折れるつもりはないようだ。やっと中国・韓国・北朝鮮の横暴に折れない日本人が立ち上がって来ていることを私たちは知る。


日本人よ、時代は変わって来ている。

まったく動じない日本人があちこちで生まれつつある


日本人は自分が批判され、叩かれ、誹謗中傷を浴び、集中攻撃されることに慣れていない。

今までの日本人は「友愛や、理解や、平和や、協調」を無意識に考え、誰とも争わず、ひたすら相手を立てることでやり過ごそうとしてきた。

裏工作も不得手で、相手に騙されても大騒ぎすることもないし、ただ忍の一文字で耐えてきた。

それで、どうなったのか。結局、「日本人は叩けば叩くほど折れる」「日本人は言いがかりを付ければ金を出す」と周辺国に思われるだけで終わった。



しかし、それは朝日新聞のような売国マスコミが日本人に押し付けてきた「日本人のあり方」であり、それによって日本を自滅させようとする意図があることが最近になって分かってきている。

自虐史観で日本人を押さえつけ、何をされても抵抗しない日本人を売国マスコミは作ろうとしていたのだ。

しかし、もう今さら朝日新聞のような自虐史観を押し付ける売国マスコミに踊らされるような日本人は減り、多くの日本人が覚醒し始めている。

歴史プロパガンダに対抗し、売国マスコミに反旗を翻し、叩かれても、誹謗中傷を浴びても、攻撃されても、陰湿に粘着されても、まったく動じない日本人があちこちで生まれつつあるのである。

アパグループ元谷外志雄氏もそんな日本人のひとりであることが分かった。

今後、アパグループは激しい誹謗中傷や攻撃に晒されることになるはずだが、アパグループは対立を受けて立つはずだ。

自分に批判・誹謗中傷・嫌がらせの集中攻撃が向いても、動じないで主張する。これが、「今の日本人」に求められている資質だ。アパグループは素晴らしい。他のホテルチェーンも、同じことをすべきだろう。


今まで日本人は、協調性を意識しすぎた

世界に目を転じると、宗教問題、歴史問題、領土問題、人種問題で、絶対に妥協できない対立が激しくぶつかり合っていて、血で血を洗うような事態が起きている。

これらのすべての問題は民族のアイデンティティに直結しているので、話し合いも成立しないし、譲り合いも成立しない。譲れば民族としての存続が不可能になるので、絶対に譲れないのである。

折しも情報化時代に入っているので、こうした衝突は言論の場にも持ち込まれるわけで、だからこそ歴史プロパガンダが猛威を振るうようになっている。

欧米とロシアのプロパガンダ合戦、欧米とイスラム国家のプロパガンダ合戦、グローバリストとナショナリストのプロパガンダ合戦、アメリカ国内でのリベラルと保守のプロパガンダ合戦は日々、深刻なものになっている。

東アジアでも、中国・韓国・北朝鮮が日本に対して執拗かつ粘着的な捏造歴史プロパガンダ戦争を仕掛けており、日本人に対する誹謗中傷、批判、攻撃が恒常的に行われるようになっているのだ。



もう現代社会は「きれいごと」を言っているだけでは渡っていけない世の中になった。これから日本人も凄まじい言論対立に巻き込まれていく。

だからこそ、私たちは日本人としての主張を「押し通す」必要が生まれてきている。今までの理解・平和・協調から脱して、いよいよ闘争本能に目覚めなければならないのである。

歴史問題は、何も言わないと相手の都合の良い主張が世界の歴史になる。領土問題は妥協していると次々と土地を奪われていくことになる。

重要なところで妥協してしまうと、日本人の尊厳も領土もすべて奪われる。だから、民族の存続をかけて、きれいごとから去らなければならなくなっている。

今まで日本人は、協調性を意識しすぎた。

批判することを恐れ、主張することを恐れ、復讐することを恐れ、バッシングされることを恐れ、修復不可能になることを恐れてきた。


今求められているのは、まさに「対立できること」


だから、逆に日本人が今後、立ち上がるためには、この恐れをすべて捨てて、脱皮しなければならないということになる。以下の5つを決意するということだ。

(1)相手を激しく批判することを恐れない。
(2)主張を押し通すことを恐れない。
(3)相手に報復・復讐するのを恐れない。
(4)批判やバッシングを恐れない。
(5)修復不可能な敵対・対立を恐れない。

日本人は何事も徹底する癖がある。戦後から今までの日本は、あまりにも優しくなること、諸外国に配慮すること、対立を避けることに徹底しすぎた。

普通の民族は何事にもほどほどで止まるのだが、日本人は「平和優先」と決めたら徹底的なまでに平和優先になっていき、あまりにそれが行き過ぎた。

そして、良かれと思って徹底した「平和至上主義」で、今や日本の主権そのものが脅かされるところにまで到達した。

そういった状況はいよいよ終わりにして、日本人全員が意識を変えなければならない日が来ている。

日本人は誰かに批判されたり、罵られたりする状況に慣れておらず、そういった対立を非常に恐れているが、今求められているのは、まさに「対立できること」なのである。

対立できるというのは、相手を激しく批判するのも辞さず、徹底的に主張を押し通すことを恐れないということだ。批判やバッシングをエスカレートさせて、修復不可能な敵対関係となることも受け入れるのだ。

きれい事を捨てて現実主義になるというのは、そのような状況になっても一歩も引かないということだ。

今後も、歴史をめぐる対立は、これまで以上に激化していく。闘争モードに入らなければ国がなくなるのだから、日本人もどこかで転換する。

こうしたことに気付き、敢えて言論の誹謗中傷や攻撃や批判の中に飛び込んでいき、そこで戦う日本人がいよいよ登場してきている。

もう、友好やら配慮やら自虐やらは時代遅れだ。あなたは対立する度胸を持ち合わせているだろうか?



それにしても、アパグループは素晴らしい。今後は積極的にアパホテルを使っていこうと思う。中国人が来ないのであれば、なおさら静かに落ち着けることになるだろう。


アパグループの代表、元谷外志雄(もとや・としお)氏。今までの日本人であれば、すぐに腰砕けになって折れただろう。しかし、アパグループは折れるつもりはないようだ。やっと中国・韓国・北朝鮮の横暴に折れない日本人が立ち上がって来ていることを私たちは知る。



DUAさんより
画像は追加しています。



私は大阪ミナミで
アパホテルの新築をした事があります
最上階はワンフロワーの
会長専用室があり
成○丸出しの豪華さです

こんなに愛国者だとは
俺はアパホテルに泊まる
西成のタコ部屋にも泊まる
アパホテルをご利用下さい

お仕事、出張、
嫁、旦那の顔を見たくない等
アルヨが来ないアパホテル
快適です

俺は諦める


俺は諦める




多くの人が知らない
「諦める」の本当の意味
悩み、苦しみを減らす「仏教の智恵」


名取 芳彦
元結不動 密蔵院住職、作家


諦めるとは、本来ネガティブなことではありません

数多くのベストセラーで知られ、老若男女問わず読者の多い名取芳彦和尚。名取氏は、東京都江戸川区にある元結不動 密蔵院の住職であり、写仏・読経の会や法話を主宰する傍ら、聲明ライブ、講演なども精力的にこなし、地域に密着したユニークな和尚さんとして知られる。

近著『あきらめる練習』もある芳彦和尚に、怒り、妬み、悲しみ、こだわり、後悔などの感情に苛まれる現代人が心の重荷を軽くするために、積極的に「諦める」ことの意義を語ってもらった。
諦めるという言葉は、本来悪い意味ではない


日本語で”諦める”は放棄、断念、ギブアップなど、マイナスイメージで使われることが多いと思いますが、漢和辞典で「諦」を調べると悪い意味はひとつもありません。

〔つまびらかにする。いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせる。まこと〕

さらに仏教語ではsatya(サティア)の訳語として、真実、真理、悟りを意味する素晴らしい言葉です。


諦の意味は日本語では「明らか・明らかにする」に近いのです。実際に日本語の「諦める」と「明らか」は言葉として同源。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められるというニュアンスを、もともと含んでいました。

ところが、日本語ではいつの間にか「明らかにする」という大切な土台がゴッソリ抜け落ちて、望んでいることを途中でやめるという意味ばかりで使われるようになってしまいました。もったいないと思います。





仏教では「諦」と「明」の合体した「あきらめ」こそ、いつでも、どんなことが起こっても、心が苦しまず、おだやかでいられる境地(悟り)に至るために大切だとします。

私たちが「苦しい」「つらい」「嫌だ」「つまらない」など、マイナスの感情を抱くのは、ことごとく自分の都合通りにならない時です。こうした状況を仏教で「苦」と言います 。

では、どうすれば自分の都合を“諦め”られるのか。


手段と目的を考えてみる


先述のとおり、仏教では、自分の都合について“明らか”にする必要があると考えます(諦めたいというのも都合のひとつですが、哲学的迷路に入るのを避けるためにここでは触れません。興味がある方は仏教唯識〈ゆいしき)をひもといてみてください)。

たとえば、会社勤めをしていて、日々暮らすだけのお金はあるけど「もっとお金が欲しい 」という都合(欲)があって、常日ごろからイライラしているとします。

お金がないのでお金が欲しい、もっとお金が欲しいと日々考えていれば、誰だってなかなか心が落ち着かないでしょう。もし心穏やかに生きたいと望むなら、とことん自分の都合を明らかにしないとお金への過度な欲は諦められません。

具体的には、まず、自分はお金があったら何をしようとしているのだろうと考えるのです。家を買う、車を買う、旅行に行く、美味しいものを食べる……。これらはすべて自分が幸せになりたいという夢であり、都合であり、欲です。つまり、自分が幸せになるための手段としてお金が欲しいのです。

ここで明らかになるのは、“お金は手段であって目的ではない”ということ。これがわかれば、手段でしかない目先のお金の周囲を右往左往している自分の姿がありありと浮かびあがります。


古歌に“わけのぼる 麓の道は 異なれど 同じ高嶺の 月を見るかな”というものがあります。高嶺の月を見るための登山道はたくさんあるということです。幸せになるにも、きっとさまざまな道があるでしょう。


もちろん、生活をするのに必要なお金というのはもちろんあるでしょう。お金を全否定するわけではありません。でも、それが自分の幸せとどう関係があるのかを考えてみれば、少しは心に平穏が訪れるのではないでしょうか。

手段が目的になっていないかチェックする

目先のことばかりに目が向いてしまい、手段が目的になってしまうことはよくあります。





小学校のPTAをやっていた時、学校の周年行事用の資金調達のためにバザーをやりました。模擬店を出店してもらう地元の町会や子供会とどう交渉するのか、雨で校庭が使えない時のオペレーションはどうするか、テント設営はどうするのかなど、ボランティアの素人集団が行う一大イベントですから、てんやわんやの大騒ぎです。その時、PTA会長が言いました。


「バザーをやることが目的なのではありません。バザーはあくまで手段です。目的は周年行事の資金調達、子どもの健全育成、地域との協力、PTAの親睦であることを忘れないでください」

バザーの真相を明らかにしてくれた言葉でした。本来の目的を踏まえて行えば、バザーはそのまま、目的に向かうまっすぐな道になります。


「明らか」にして「諦める」


小学校からやってきたテストも、目先の良い点数を取るのが目的ではありません。テストの目的は「わからない所をはっきりさせる」ことです。80点取ることが目的ではなく、間違った20点について勉強し直すことが目的なのです。ここをはき違えると、誰かさんのように良い点数を取った時だけ親に見せるずるい子どもができあがるという寸法です。


状況を明らかにする勇気


人間関係が面倒だと思う人も多いでしょう。そんな人は、自分がどんな人間関係を望んでいるのかをまず明らかにしてみましょう。

たとえばもっとさっぱりした人間関係を望んでいるが、それができないとします。その場合、なぜつらいのかを分析し、明らかにします。



本音と建前が違う人が周囲に多くいる、他人に依存したい人が多くべたべたした関係になってしまうなど、いくつか思いあたる原因があるでしょう。


そこから、ではなぜそうなるのかを考えてみるのです。「人は思っていることをそのまま言えば大変なことになるから、思っていることと言うことが違うのは仕方がない」「弱ければ他人に頼ろうとするのは当たり前だ」などと明らかになるでしょう。そうすれば、人間関係が面倒なのは仕方がない、人間関係がごちゃごちゃするのは当たり前だと、少しは諦められるのではないでしょうか。

そこにどーんと腰掛けて、人間関係を楽しめるようになります。これが「明らか」にして「諦める」ということです。

“損得”という言葉を日常の中で使ってしまう人も、苦が多くなるでしょう。なぜなら、損得で動く人は、得をするためには人も裏切ることがあります。そんな人を信用する人がいないのは当たり前です。損得は経済の用語であって、人生に当てはめても仕方がないのです。

このように、物事が明らかになった時のキーワードが「仕方がない」や「当たり前」という言葉だと思うのです。私は「あきらめる」ための魔法の言葉だと思っています。

中途半端な諦めではなく、物事の真相を明らかにした上で諦めたことは、堅固な屋台骨として人生を支え、心おだやかなに人生を歩く上で堅牢な杖になります。


同じ諦めるなら、ただ諦めるのではなく、状況を明らかにする勇気を持ちたいものです。



名取 芳彦氏講演より
画像は追加しています。


 





見えない悪魔


見えない悪魔




放射能に汚染される首都圏で暮らして、人々が騒がない理由


東京はまったく福島の原発事故の影響がないと言われているが、これは完全なるデマだ。

日本政府は全国の環境放射能水準調査を発表しているが、東京は全国で3番目に放射能が高い地域となっている。(環境放射能水準調査結果(月間降下物))



放射性セシウムは、これを見ると東京で6.6メガベクレルも検出されているのが見て取れる。

日本政府は往々にして調査結果を低めに測定するが、それでも東京が汚染されているのは隠せない。放射能は流行と違って、人が存在を忘れたからと言って無力になるわけではない。


知らないうちに首都圏の人間はどんどん内部被曝していくことになるのだ。そもそも、首都圏の人間は2011年3月の中旬から後半にかけて、3600ベクレルもの内部被曝をしたのだ。

よく分からないのであれば、このように言えば分かるだろうか。東京は、チェルノブイリの数百倍、数千倍もの放射能がそのときに舞っていた。このとき、東京を脱出していた人は正しいことをしていたのである。


放射能のせいであることは徹底して無視される


日本では、2011年3月に福島第一原発が爆発してからというもの、行政もメディアも、まったくアテにならないことが明るみになった。

政府も当てにならない。民主党は史上最悪の政権だったが、この政権が倒れて自民党政権に戻っても、原発の扱いについてはいまだ現状は変わっていない。

小泉元首相のように、脱原発に動き出す政治家も見られるようになったが、安倍首相はそうではない。



もう日本では原発が存在できないことは状況的に見れば明らかなのだが、それが普通の人に理解できるようになるのは、実際に内部被曝を起因とする夥しい病人や死者が顕在化してからだ。

それはまず、統計として現れる。

2011年以降から癌による死者が20万人30万人の単位で増え始めたのが隠せなくなってから、やっと日本政府は内部被曝が深刻であることを認めることになる。


それまでは、情報封鎖・隠蔽・矮小・安全デマを繰り広げて、あなたの体調不良や健康被害放射能のせいであることは徹底して無視されるのは言うまでもない。

つまり、私たちが楽観的になって暮らしていたら、内部被曝させられるがままになるということだ。



危機感を感じて、状況を注視しておかなければならない。

特に子供を持つ母親は、用心に用心を重ねて情報を収集していないと、子供が悲劇に遭う。母親に危機感がなければ、子供が不幸になる。


基本的に、日本の組織は誰も責任を取らない


2012年12月25日、茨城県取手市の小中学校の心臓検診で、「要精密検査」と診断された児童が急増しているケースが東京新聞によって報道された。

「QT延長症候群」の疑いがあるというものだったが、この「QT延長症候群」とは、突然死を招くものである。

子供の突然死を引き起こすような「危険な診断結果」が原発爆発後に増えているのだが、それがなぜかほとんど問題視されていない。

この記事はすでに消されているので、「73人が要精密検査、取手市内24校心臓検診」と検索してみてほしい。いくつかのサイトで記事が読めるはずだ。

日本の水面下で起きている危険な出来事を、日本人はまるで他人事のように「知らないふり」で乗り切ろうとしている。

放射性物質は体内に蓄積する。セシウムは筋肉に蓄積し、ストロンチウムは骨に蓄積するのだ。

だから、これから白血病も、甲状腺障害も、心臓障害も、ありとあらゆる病気が激増していくことになり、やがてはそれが統計となって私たちの目に触れることになる。

しかし、当事者として重要なのは統計ではない。私たち自身の健康であり、家族の健康であり、子供たちの健康である。

親はもう公的機関もマスコミも信用できないことは、肝に命じておくべきだ。

なにしろ、日本の組織は誰も責任を取らないのだ。福島第一原発が爆発してから、どうなったのか調べてみればいい。

プルトニウムは飲んでも大丈夫」の東大教授も、「ただちに影響がない」の政治家も、「飛び散った放射能東電の所有物ではない」の東京電力も、誰ひとりとして刑務所に行っていない。

数千万人に巨大な影響を与えた大惨事だというのに、当事者は誰ひとり罪にならない。あまりにも信じがたいが、これは事実である。

私たちは今、誰も責任を取らない国で暮らしている。


負債は企業にも個人にも致命傷になり得る


だから、私たちは、常に危機感を常に持っていなければ大変なことになる。首都圏は現在、日本で3番目に放射能汚染のひどい場所であることを自覚しなければならない。

このままでは、自分が犠牲になるか、自分の家族が犠牲になるか、子供たちが犠牲になる。何しろ、今でも放射能は静かに堆積しているのだ。



東日本や首都圏は、今後は放射性物質の累積で人間が住めない地域になる可能性もあると考えた方がいい。長期的に見ると「棄てられる地」なのだ。

それなのに、なぜ騒ぎにならないのか。



それは、誰もが東日本に「関わり」を持っているからだ。

人々はそこで暮らし、生活し、仕事をして、不動産を持っている。放射能汚染で騒げば、不動産の資産価値が下がるのは分かりきっている。

この世の中で、誰が進んで損することをするだろうか。



放射能は中国の大気汚染とは違い、目に見えず、臭いもしない。だから、騒がなければ資産価値は守られる。

必死の思いで不動産ローンを返し終わったら放射能汚染地帯になっていて人が暮らせなくなっていたとなると、何のための人生だったのかということになる。

放射能に汚染されていく土地で暮らして人々が騒がない理由は、まさにここにある。

巻き込まれている人は誰もが絶対に放射能の問題など認めない。資産価値を守るためには、「放射能は人体に良い」とさえ言い出すだろう。それが人間なのだ。

逆に言えば、自分の身を守り、家族の身を守るためには、何が隠されようとしているのかを把握し、自分がしっかりと防衛に努めるしかないのだ。

子供たちを内部被曝から守ろうとする母親は、孤独な戦いを強いられることになる。




何千万人がここで暮らし、不動産を持っている。騒げば資産価値が減る。
誰が騒いで資産価値を下げるというのだろう。
首都圏の人間は絶対に放射能汚染を表沙汰にしたくないと考える。





蒸発


蒸発




日本で「蒸発する人々」の背後にある数々のぞっとする話


1980年代、武道の指導者でもあったイチローという名前の日本人男性は、当時、輝かしい未来だけを想って日々を生きていた。

彼は新婚であり、妻のトモコと共に、東京の隣にある埼玉県の桜が咲き乱れる街に住んでいた。





ふたりは最初の子どもを授かった。ティムという名の男の子だった。

彼らは、マイホームを持つことにし、また、レストランを開くためにローンを組んだ。

ところが、その後、株式市場の暴落から始まる大きな経済ダメージが日本を襲い、イチローとトモコは、大きな借金を負うことになってしまった。

 
このふたりの話と同じような状況を、数十万人以上もの日本人たちが体験している。

彼らの多くが家を売り、家族とわかれ、そして、姿を消した。

それが最も良い選択だと判断して。

 


イチローはこの取材の中でこのように述べる。


「人間は臆病なものだよ。そんな状況になった時の誰もが逃げ出したいと考えて、蒸発してしまいたいと思うんだ。そして、自分のことを誰も知らな場所で暮らしたいと考える。俺は、自分自身は、逃走の果てに死に向かうなど想像したこともない……でも、失踪は死へ最も近い道だよ」


日本には、文化的に特有の数々の異様に思えるものが存在する。

例えば、日本には猫のカフェがあり、あるいは、墓地の撤去通知から、樹海と呼ばれる「自殺のための森」もあるのだ。樹海では、毎年 100人ほどが自殺により命を絶っている。



しかし、日本特有の異様な文化の中で、おそらく、最も誰にも知られておらず、それでいて大きな好奇心に駆られることが「蒸発する人々」についてだ。

1990年代半ば以降、毎年、少なくとも 10万人の日本人の男女が蒸発していると推定されている。

彼らは、離婚、借金、雇用の喪失、試験の不合格など、大なり小なりののさまざまな失意や恥辱を理由に自ら消滅する。



フランスのジャーナリストにより書かれた書籍『消滅 : 日本で蒸発した人々についてのストーリーと写真(The Vanished: The Evaporated People of Japan in Stories and Photographs)』は、この現象について最初に書かれた興味深いレポートだ。

フランス人ジャーナリストのレナ・モーガー(Léna Mauger)氏は 2008年に、この日本における蒸発の存在を知り、そして、その後の5年間、共同研究者のステファン・リメルと共に信じられないような話を報告し続けた。

レナ・モーガー氏は、ニューヨークポストに、以下のように語る。


「このことは本当のタブーなのです。その実際を語ることはできない何かなのです」


日本社会には、一般的な社会の下に別の社会が存在するため、人々はそこに消えていく選択をすることができる。消滅することにより、生き残る方法を見つけだそうとするのだ。



日本にサンヤ(山谷)という街がある。これは、モーガー氏が書いているように、どの日本の地図にも明記されていない。日本の法律の上では、このサンヤは「存在しない」のだ。

この東京のスラム街の名称は、日本の当局によって消去されている。

ここで見つけることができる仕事は、日本のマフィアであるヤクザや、あるいは安価で帳簿外の労働者を探している雇用者たちによって運営される。

蒸発した人々は、しばしば、インターネットや個人用のトイレのない小さくて不便な簡易宿泊所に寝泊まりしている。ほとんどの宿泊所では午後6時以降の会話は禁止されている。


 
モーガー氏は、ここで、ノリヒロという男性と会った。彼は現在 50歳で、今から 10年前に姿を消した。その頃、彼は、エンジニアとしての職を失ったのだが、そのことを妻に言うことができなかった。

仕事を失った時に、彼は最初のうちは、朝にはいつものように起き、スーツとネクタイを着用し、ブリーフケースを持ち「出勤するフリ」をした。玄関を出る時には、妻と別れのキスもしていた。

そして、在籍していた会社のオフィスビルに行った後は、勤務時間のあいだ、自分の車の中で過ごした。ノリヒロはこれを1週間おこなった。仕事がなくなったことが家族にばれる恐怖はすさまじかった。

夜は、仕事が終わった後にいつも上司や同僚とお酒を飲んでから家に帰るのが普通で、早い時間に帰宅すると怪しまれるため、周囲をブラブラ歩いて時間を費やしたりした。

しかし、給料日になれば、すべてはわかってしまう

会社に在籍していれば給料日だった日、彼は身だしなみを整え列車に乗った。その電車はサンヤに向かう電車だった。


「もうそれ以上は(通勤しているフリ)は無理だった」


彼は言葉も手紙も家族に残していない。家族は、おそらく彼が樹海かどこかで自殺したと考えているはずだと彼は言う。



現在、ノリヒロは仮名で暮らしている。住んでいる部屋には窓も鍵もなく、南京錠でドアを固定している。彼は毎日、大量の酒を飲む。彼は、この被虐的な苦行を繰り返しながら残りの人生を活きていくことを決意したと言う。


ノリヒロは言う。


「ここに来た後の時間の中で、俺は昔の自分を取り戻せたのかもしれない。けれども、今のこの俺の状態を家族に見られたくはないよ。俺を見てみなよ。何者にも見えないだろ。俺は存在しないも同然なんだよ。もし、俺が明日死ぬとしても誰も俺のことを知らないままで死んでいきたいんだよ」

 


ユウイチという男性は、1990年代に蒸発した元建設労働者だ。

彼は病気の母親の世話をし、健康管理と食べ物の用意、家賃などの生活費をまかなっていたが、ある日、資産が尽き破産した。そして、母親の世話をすることができなくなった。

彼は母親を安いホテルに連れて行き、部屋を借りてそこに母親を残した。そして、本人はそのまま姿を消した。彼はサンヤに消えた。



ユウイチは、サンヤでこのように言った。


「あんたがたには、たとえば、そこ(山谷の通り)に歩いている人たちの姿が見えるだろう。でも、あれらはすでにこの世に存在していないんだよ。社会から逃げた時、俺たちは消えたんだ。そしてこの場所で、俺たちはゆっくと殺されていく」



日本で急増している「蒸発」


日本では、第二次世界大戦の余波の中と、そして、1989年と 2008年の金融危機の影響の後に「蒸発」数が上昇した。

そして、失踪して発見されたくない人たちにサービスを提供する「影の経済活動」が登場する。たとえば、疾走を拉致のように見せたい人たちに、あるいは、家が奪われたというように見えるようにしたい人たちなどにサービスを提供する。

夜逃げ屋(Nighttime Movers)と呼ばれる仕事が日本にある。ショウ・ハトリ(羽鳥翔)という男性が最初に始めたものだ。

ハトリは運送業をおこなっていたが、ある夜、カラオケバーで、ある女性がハトリに「家具と一緒に消滅するように姿を消すような手配ってできますか?」と聞いた。彼女は、自分の人生を台無しにした夫の負債に耐えられないと述べていた。


 


ハトリは、真夜中の仕事であるとして、 3400ドル(約 40万円)なら引き受けられると言った。

その後、彼の顧客は広がり、様々な人々が彼に「夜逃げ」の手配を依頼した。

ハトリは、この現象(夜逃げが増加していること)について、日本のテレビ番組でコンサルタントを務めたこともある。

夜逃げ屋本舗』は、1990年に、真の逸話に基づく架空の物語として、映画とテレビドラマとして日本でヒットした。


 


年間平均300件の依頼があり、作業は難しい

日本では、家族が行方不明になっても、それが本人の恥のような理由が原因であるならば、残る家族が警察に通報しない場合も多い。家族は捜索を警察に依頼するのではなく、情報を非公開にした上で行方不明者の家族の支援をしてくれるプライベートの調査グループに依頼することが多い。

そういうグループのあるひとつの本部は、小さな部屋ひとつと、ひとつの机があるだけのものだった。このグループには、一年に平均 300件の以来があり、捜索の作業はとても難しいという。

米国と異なり、日本には、行方不明者に関しての国家のデータベースがないことも、発見の難しさと関係する。

社会保障番号などの書類や識別方法もない。これらがあれば、国内で移動した人々を追跡することができる。

また、日本では、ATMの取引や財務記録には、警察もアクセスすることが法律で禁じられている。

このグループの代表であり、探偵であるサカエ・フルウチ氏は、「ほとんどの調査は途中で終了する」と述べる。

その理由として、私立探偵を雇うための非常に高い費用を挙げる。それは、一日 500ドル(58000円)もかかり、一ヶ月なら 1万5000ドル( 175万円)などの費用がかかり、普通の人には支払うことが不可能だ。

しかも、借金などのために失踪して残された家族に、そんな金銭があるはずもないのだ。


フルウチ氏は、以下のように言う。


「借金や暴力から逃げた人々は、名前を変え、時には姿も変えます。あるいは、家族などが自分を探そうとしているとは考えない人たちもいます」

フルウチ氏は、20歳で失踪した若い男性の学生を発見できたことがある。その学生は試験を受けた後に家に戻ってこなかったが、偶然、彼の友人の一人が東京都の南部で彼と会ったという。その学生は、試験に失敗し、家族を失望させたと考えていて、これからどう生きていいのかとわからないと、自殺願望に苛まれていたという。

解決されなかったケースもある。

障害のある8歳の男の子を持つ若い母親の例だ。学校で子どもの演奏会があった日、その母親は姿を消した。少年には、席の最前列に座っていると約束したのにも関わらず、最前列の母親の席は空のままだった。彼女は姿を消し、再び見られることはなかった。

彼女の夫と、そして子どもは、このことにより精神的に非常に苦しんだ。彼女は、それまで、家族に1度も悩んでいる様子や苦しむ姿を見せたことはなかったのだ。



多くの点で、日本は「喪失」の文化だ。

世界保健機関(WHO)の 2014年の報告によると、日本の自殺率は世界平均よりも 60%高い。日本では1日に 60件から 90件の自殺がある。

 
日本の文化は、個人に対するグループの重要性を統一する性質がある。



日本には、「出る杭は打たれる」という格言があるが、社会に適合できない人たちや、日本の厳格な文化的規範に従うことができない人たち、あるいは宗教的に近い勤勉な献身を守ることができない人たちにとって、消滅することは、ある種の自由を見つける行動の一種なのかもしれない。

若い日本人たちで、人と異なって生きたいが、家族や友人との関係を完全に切り離したくないと思っている人たちは妥協点を見つけるしかない。



俺は真面目にやって来たよ
少しつまずいただけなんだ
自殺なんかしないよ
多分ね… 


IN DEEPさんより
画像は追加しています















日本文化センター

俺は堕ちてゆく


俺は堕ちてゆく




社会的に不利な人間ほど、どんどん不利の深みに落ちていく


社会的に不利な状況というのは、同じ境遇の人でない限り、よく理解されないことが多い。

たとえば、健康な人には病気を抱えて生きている人の苦しみは分からない。若者は老人の動作の鈍さに苛立つ。

充分な給料をもらっている人は低所得の人たちを蔑む。仕事のある人は失業者を憐れみ、高学歴者は低学歴者を自業自得と嘲笑う。そして正社員は非正規雇用者を負け組と考える。

社会的に不利な立場にある人は、基本的に理解されない状況に陥る。そして、その苦境を「自己責任」のせいにされやすい。

実は社会的に底辺に堕ちている人たちの中には、明らかに自己責任としか思えないような言動をして、自ら立場を悪くする破滅的な人や、最初から個人や社会に寄生して働かないで生きようとする自堕落な人も存在する。

そのため、自己責任という考え方は100%間違っているというわけではない。しかし、世の中は明瞭に白と黒で区分けできるようになっていない。

社会の底辺に堕ちた人の中に、完全なる自己責任の人がいても不思議ではないのだが、「自己責任がすべてではない」というのもまた事実である。


「弱り目に祟り目」というのは本当のことだ


生まれながらに貧しい家庭であったり、病弱であったり、虐待を受けていたり、IQ(知能指数)が低かったり、不運な環境であったり、事故や病気で障害を抱えたりして、うまく社会に適合できない人もいる。

ひとつ不利なことがあれば、それが別の不利を呼び、不利が複合的になっていく。

「弱り目に祟り目」というのは本当のことだ。1つ悪いことが起きると、次から次へと悪いことが起きていく。悪いことが悪いことを呼び寄せるのだ。

たとえば、家庭が極度に貧しかったとする。それは子供自身は気付かないかも知れないが、社会的に見れば不利を背負っているとも言える。



貧しかったので親に学費を負担させるのを遠慮して、進学よりも就職を選ぶ若者もいる。高卒どころか、中卒で就職する若者も存在する。

そうするとどうなるのか。高スキルの仕事を任せてもらえないので、低賃金の仕事しか就けないことになる。そうした仕事は条件も環境も悪いので、少しでも状況の良いところに移ろうと考えて仕事を渡り歩くことになる。

ところが仕事を渡り歩くと、より就職に不利になっていき、条件の良い仕事はますます遠ざかっていく。失業する期間も出てくる。そして最後には、非正規雇用かパートのような仕事しか見つからなくなる。

そうした環境の中で無理して働いているうちに健康を害することになる。しかし、金銭的にも時間的にも病院に行く余裕がなく、病気を悪化させる。

自分の環境に嘆き、自暴自棄に陥れば、アルコールや喫煙などの悪癖にも染まっていき、寿命を縮める。

低所得の人たちの寿命は高所得層の人たちよりも短命であることが知られている。

この人の最初の不利は「家庭が貧しかった」という、たったひとつの社会的不利だった。しかし、その1つの不利は、低学歴、低所得、失業、非正規雇用、病気、悪癖、短命……とありとあらゆる社会的な不利を呼び、複合的になっていく。



複合的な不利も、最初はたった1つの不利だった


考えなければならないのは、「家庭が貧しかった」というのは自己責任でも何でもないということだ。

それは運命だったのだ。

「貧しい人は全員、貧困が決定付けられているわけではない」というのは事実だ。しかし、極度な貧しさを克服するというのは私たちが思っている以上に難しい。

貧困層の家庭で生まれた子供たちは、貧困の中で生まれ育ち、そこで死んでいく姿の方が多いのだ。

たとえば、国が貧しいと大半の国民は貧しいというのは誰でも知っている。それは、本人の努力ではいかんともし難い環境があると、それを乗り越えるにも限度があるということを意味している。

私たちがもしアフガニスタンイラクソマリアやコンゴで生まれていたら、今の生活が成り立っていたのかを考えても分かる。

内戦や極貧という厳しい環境の中で、私たちは豊かな生活を自分の力だけで手に入れることができただろうか……。豊かに生きるどころか、もうこの世にいなかったかもしれない。

「生きているだけでも奇跡だ」という社会環境を乗り越えるというのは大変なことである。貧しい人の中には、確かにそれを克服して豊かになっていく人も存在するが、大半はそうではないということを認識しなければならない。

そのため、成人しても貧困の中で暮らしている人を指して、一概に「自己責任である」と決めつけるのは、非常に乱暴な指摘でもあるし、残酷なことでもある。

低学歴、低所得、失業、非正規雇用、病気、悪癖のすべては、自己責任のものもあると同様に、仔細に見れば自己責任ではないものも含まれている、ということだ。

その複合的な「不利」も、最初はたった1つの不利から派生することもあるのだ。

これは何を意味しているのかというと、今は何とかうまく生きていても、私たちはいつでも「たった1つの不利」を抱えることで、社会のどん底にまで堕ちる危険にあるということなのである。



誰でも、いつでも、悪夢のような世界に転がり堕ちる


たった1つのきっかけがどんどん苦難を呼び、その深みに落ちていく。それを避けられればいいが、誰もが幸運に恵まれているわけではない。

自分の人生を不利にする「きっかけ」は、誰でも経験する珍しくないものだったりする。

勤めている会社が倒産した。リストラに遭った。初めての職場で失敗した。ブラック企業だった。事故に遭った。家族が病気で介護が必要になった……。

鬱病になった。職場で人間関係のトラブルに巻き込まれた。若くして妊娠してしまった。結婚に失敗した。家庭が崩壊した。シングルマザーになった……。

親と断絶した。住居を失った。借金を抱えた。過大な住宅ローンに押しつぶされた。アルコール依存症になった。パチンコ依存症になった……。

枚挙に暇がないほど転落のきっかけがあるのだが、そのどれもが明日にでも自分の身に降りかかってもおかしくないものなのである。

その時、ひとつのきっかけが社会的な不利を生み出し、それが複合的に広がっていくことも多い。そして、その「弱り目に祟り目」を制御できなくなった時点で、人は社会のどん底に転がり堕ちる。

いったん不利に堕ちると加速度的に状況が悪化して、気付けば社会的に不利な状況から抜け出せない人生になるかもしれないのだ。





誰でも、いつでも、悪夢のような世界に転がり堕ちるきっかけがある。人生にまったく何もない人はいない。必ず自分の身に何かが降りかかってくる。

そんな時、社会のあらゆる方向に助けを求めようとしても、「どん底に堕ちたのは自己責任だ」と言われたら、もはや立ち直れない可能性もある。

弱肉強食の資本主義が蔓延していく中で、「社会的に不利な人間ほど、どんどん不利の深みに落ちていく」という現象はますます鮮明になっていく。

その中に自分の姿がないとは決まっていない。

社会はいつでも厳しいが、今もそういう非情な社会で生きているのだと自覚しながら、毎日を生きていく必要がある。不利を抱えると、それが元で叩きのめされる。しかし、何らかの不利を抱えない人はいない。それが社会の姿である。



いつかアイツの足元に
BIGMONEY叩き付けてやる

ひとつのきっかけが社会的な不利を生み出し、それが複合的に広がっていくことも多い。そして、その「弱り目に祟り目」を制御できなくなった時点で、人は社会のどん底に転がり堕ちる。



DUAさんより
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占守島の戦い(2)


占守島の戦い(2)




「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」

池田末男さんという方がいます。
陸軍少将です。愛知県豊橋市出身の方です。

池田さんは、戦前「戦車隊の神様」と呼ばれました。
戦車学校教官当時には「キ戦車隊教練規定」という教程を編纂し、陸軍戦車学校校長に就任されています。

その陸軍戦車学校に、福田定一という生徒が入学してきました。
後の小説家、司馬遼太郎です。

司馬遼太郎は、昭和の軍人に対して概して批判的な小説家として知られ、自身の戦車部隊員であった過去を回想し、戦車隊のことを必ずしもよくは書いていませんが、その司馬遼太郎が、戦車学校校長だった池田末男さんに対してだけは、たいへんに尊敬する人物として著作の中で紹介しています。

池田末男陸軍少将(士魂戦車隊隊長)



池田末男さんは、戦車学校校長職を辞した後、戦車第十一連隊長に就任しました。
「十一」は、縦書きすると「士」の字に見えます。
なので十一連隊は、自分たちのことを「士魂戦車隊」と呼んでいました。

士魂部隊は精鋭部隊でした。
そして士魂部隊は、戦争末期、北海道の沖合に浮かぶ千島列島の最北端の島、占守島(しゅむしゅとう)に転進を命じられたのです。

池田隊長は豪放磊落かつ温和な性格の方だったといいます。
部下たちの誰もが、池田隊長のことを心から信頼していました。

こんなエピソードがあります。

占守島は、夏場でも気温が15度を上回ることがありません。
日中は濃霧に覆われ、冬場は気温が零下30度にも達します。
雪は電信柱が埋まるほど積もり、そして年間を通じて風速30Mの暴風が吹き荒れる島です。

そういう身を切るような寒さの占守島で、池田隊長は、絶対に自分の下着を部下に洗わせなかったのだそうです。
全部、自分で、冷たい水に手を入れて洗濯していたのです。

申し訳なさそうにしている当番兵に、池田隊長はこう言ったそうです。


「お前はオレに仕えているのか? 国に仕えてるんだろう?」




学校では、「昭和20(1945)年8月9日、ソ連が日本との日ソ中立条約を破棄して、満州に攻め込み、その後、日本はポツダム宣言を受け入れて、8月15日に終戦となった」と教えます。

しかし、そのあとに激戦が行われた地がありました。
そのひとつが占守島でした。

8月17日、重要書類を全部焼いて、翌日には戦車を全部海に沈めることが決まった士魂部隊は、第十一連隊本部で、その夜残念会を開きました。
池田連隊長を囲んで、主な将校が10人ほど集まって酒を酌み交わしました。

池田連隊長は、連隊長は酒を飲むときは無礼講が好きで、いつもなら豪放磊落な酒盛りになる人です。
けれどこの日は、しんみりとした雰囲気につつまれました。

彼は若い木下弥一郎少尉に、
「木下、15日以降、俺は廃人になった。お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話していたそうです。

酒の席も解散になり、みんなが就寝し、深夜の日付が変わって18日となった午前1時のことです。
突然対岸のカムチャッカ半島側から長距離砲弾が島に撃ち込まれました。
そして占守島北端の国端岬一帯に、多数の上陸用舟艇が接近し、数千の兵力が強襲上陸してきたとの報が飛び込んできます。

武装解除を求める使節団なら、このような深夜の上陸はありません。
ということは、あきらかに侵略行為としての強襲です。

東浜海岸の竹田浜に展開していた部隊は、第三中隊の2個小隊(約80名)だけです。
彼らは突然包囲され、攻撃を受け、激戦となります。

この時点で、まだ敵の国籍は不明です。
いまでいったら、これまでまったく戦闘実績がなく、終戦がきてなお平安だった土地に、いきなり正体不明の謎の軍団が砲撃を加え、土地を占領して攻撃を加えてきたという状況となったのです。

しかも夏場の濃霧の時期です。
10M先も見えない。
その見えない先から、砲弾や銃弾が飛んでくるのです。

謎の軍団が上陸した国端岬にいた速応少尉は、岬の洞窟にあった野戦砲二門で、謎の軍団が上陸した竹田浜を側面から射撃します。

霧で見えない。
しかし、このとき来襲した謎の軍団は、駆逐艦2隻、6千トン級の輸送船4隻、兵力13,000千人という、まさに海を覆わんばかりの大部隊でした。

こういうとき、ものをいうのが、日頃の訓練です。
速応少尉は、霧で見えない敵に向かって、人馬殺傷用の榴弾をこめてメクラ撃ちしました。
そして敵の船13隻を撃沈し、さらに戦死者2千人、海を漂流した者3千人という大損害を与えました。

上陸を阻止された謎の軍団は、対岸のカムチャッカ半島の突端にあるロバトカ岬から砲撃をしてきました。
これで、敵が誰なのかがはっきりとしました。
ソ連です。

しかし、長距離砲は、巨弾です。
このままでは速応隊が全滅してしまう。

長距離砲撃を知った四嶺山の坂口第二砲兵隊長は、直ちに15センチ加農砲2門で、これに応射しましました。
これまた日頃の訓練の賜物です。
坂口第二砲兵隊は、濃霧の中を見えない敵に向かって長距離砲撃し、わずか20分で敵の長距離砲を完全に沈黙させてしまったのです。



一方、上陸してきた部隊を迎え撃った歩兵大隊は、敵の艦艇を14隻以上撃沈、擱座させ、戦車揚陸艇ほか多数の上陸用舟艇を破壊。
さらに敵指揮官が乗る舟艇まで撃沈し、敵軍団を無統制状態に陥らせます。

それでも敵は13,000名を擁する大軍です。
これら応戦をしていた日本側の正面の歩兵大隊は、わずか600名です。

敵は多数の死傷者を出しながらも、陸続と後続部隊を上陸させてくる。
そして、内陸部に侵攻を開始してきます。

当初、報告を聞いた師団参謀は、国籍不明といっても米軍だと思ったそうです。
後に相手がソ連とわかった時はびっくりしたそうです。
参謀は、軍使が来たのが手違いで戦闘に発展したのかとも考えたのだそうです。
しかし時間が時間です。
加えて何千人という兵力です。
さらに、ロパトカ岬からの砲撃もある。
これは明らかに軍使ではない。

午前2時10分、第91師団長は決断します。


「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」

全軍直ちに戦闘配置につきます。
戦車1個連隊と歩兵1個大隊、工兵一個中隊は、先遣隊として竹田浜に急行しました。
占守島南端の第73旅団は、北の要点・大観台に司令部を進出させ、戦闘に参加しました。
隣りの幌筵島の第74旅団も占守島に渡って敵を攻撃することになりました。
幌筵島の師団司令部も占守島に移動開始です。
第5方面軍司令官樋口季一郎中将は、同時に濃霧の隙間をついて陸海軍混成の航空部隊8機をソ連艦艇への攻撃のため飛び立たせました。


「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」

士魂部隊にも、司令が下りました。


「戦車隊前進せよ」


池田隊長は直ちに各中隊長、小隊長を集めました。
そして自身は、真っ先に準備の出来た戦車に飛び乗って走り出します。


「天与の好機逸すべからず。各隊長は部下の結集を待つことなく、準備のできたものから予に続くべし!」


このとき戦車連隊は、武装を分解中でした。
すぐには出撃できない状態にあったのです。
それでも総員必死で武装を取り付け、直ちに出撃しました。

濃霧の中、途中の位置で部隊は集結します。
そこで池田隊長は、全戦車部隊隊員に訓示しました。


〜〜〜〜〜〜〜〜
諸士、ついに起つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、
決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し、
後日に再起を期するか。
白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。
〜〜〜〜〜〜〜〜

このとき不思議なことが起こりました。
濃霧が突然、さっと薄れたのです。
そして、その場にいた全員が見たのです。

それは、霧でおぼろにしか見えなかった隊員たちが、全員が挙手している姿でした。
士魂部隊は、全員、白虎隊となることを選択したのです。

若い木下弥一郎少尉も、池田連隊長のそばにいました。
しかし、定員オーバーで戦車の中に入れない。
池田連隊長は、戦車を止めて、木下弥一郎少尉に下車を命じました。
「木下、お前は旅団司令部の杉野さんのところへ連絡将校として行っておれ」

戦車学校校長であったときから、ずっと接してきた木下少尉は、連隊長とにわかに離れがたく、そのときぐずぐずしていたそうです。
池田隊長は、「早く行け!」と怒鳴りました。

そして走り出した戦車から上半身を露呈した池田連隊長は、振り返って弥一郎に言いました。
「木下、お前は助かれよ。命を捨てるなよ」
これが、木下少尉が見た池田隊長の最後の姿でした。

午前5時、国端崎から14キロ手前の天神山で士魂部隊は小休止しします。
ここで遅れていた一部も合流しました。

池田連隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がりました。
そして「上陸軍を一人残さず、海に叩き落とすまで奮闘せよ!」と大声で訓示しました。

午前5時30分、連隊は前進を再開し、島の北端に近い大観台を過ぎました。
午前6時20分、連隊は歩兵大隊の指揮所が置かれた四嶺山南麓台地に進出します。
そこは、既にソ連軍約200人の1個中隊が山を越えきていました。

池田隊長は、これを突破して四嶺山頂に進出する決心をします。
そして午前6時50分、攻撃を開始する。
士魂戦車隊は、速射砲で敵を撃破しつつ南斜面を駆け上がりました。
7時30分、山頂に到達。

山頂から見下ろすと、敵歩兵の大軍がそこにいました。
池田連隊長は、師団、旅団の両司令部に打電します。


「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。
 祖国の弥栄と平和を祈る」


7時50分、池田連隊長は、戦車からハダカの上体を晒したまま、身を乗り出して日章旗を打ち振り、攻撃前進を命じました。

士魂連隊の攻撃隊形は、左から第4中隊、第3中隊、第1中隊、連隊本部、第6中隊、第2中隊の順の展開です。
約40両の戦車です。
その戦車隊が、池田隊長の指揮のもと、一斉に敵の群がるど真ん中に突入していきました。

その姿は、さながら運用教範の実演の如く、見事な隊形だったそうです。
さすがは戦車隊の神様。
さすがは士魂部隊。

士魂部隊は、南斜面より上ってくるソ連兵の群れにと接触します。
視界約20Mの濃霧です。
戦車は、死角が多いのです。
ですから濃霧は戦車にとって不利です。

本来なら、戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮できるのです。
しかし急な出動です。
協力できる歩兵はいません。

戦車隊と、ソ連歩兵の肉弾戦は、およそ40分にわたり繰り広げられました。

これは、その戦いが、実にすさまじい戦いであったことを示しています。
なぜなら、近代戦においては、銃撃戦というのは、普通1〜2分のものだからです。
5分も続けば「今日の戦いは長かったな」となる。
実弾の飛び交う戦闘というのは、それほどまでに、人間に強度の緊張をもたらすものなのです。

8時30分。いったんは混乱し、潰走しかけたソ連兵は、前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で、約100挺の13㎜対戦車ライフルと、4門の45㎜対戦車砲を士魂部隊正面に結集させ、激しい反撃をはじめました。
装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、次々沈黙していきます。

濃霧の中で出会い頭に敵弾を受け、友軍の戦車が炎上する。
それでも士魂部隊は前進します。
キャタピラで、備砲で、敵兵を叩き続けました。

やがて日本軍の四嶺山南東の高射砲が応撃を開始しました。
さらに南麓から駆け付けてきた日本の歩兵大隊も参戦してくれました。
士魂部隊の獅子奮迅の戦いで、ソ連軍は遺棄死体100以上を残して、ついに竹田浜方面に撤退したのです。

この戦いで、士魂部隊の損傷は、戦車27両が大破。
そして池田隊長以下、96名が戦死されました。

士魂部隊の突撃のとき、敵は稜線いっぱい展開していたそうです。
隊長の指揮する戦車隊を見て、彼らは自動小銃をめちゃくちゃに撃ってきました。
砲塔に雨あられと弾がはねて、顔を出していれないくらいだったといいます。

そんな中を池田隊長は突撃されました。
戦車から裸の上半身を露出し、鉄カブトもかぶらず、日の丸の手ぬぐいで鉢巻をしただけの姿で、1M×80cmぐらいの大きな日章旗を振って戦車の上から「前進!前進!」と突撃の合図をしながら戦い続けたのです。

そんな隊長の姿は、いやでも敵の目につきます。
やがて銃弾が、隊長車に集中する。

搭乗していた指揮班長の丹生少佐が、まず先に撃たれたそうです。
そのとき、池田隊長は丹生少佐の遺体を落としてはならぬと、にわかに縄を出して丹生少佐の死体を自分の戦車の砲塔に自分で縛りつけたそうです。
そして今度はその砲塔の上に全身を露出させてまたがり、例の日章旗を振り振り、なおも全軍に前進を命じられていました。

戦車のウイーク・ポイントは横腹です。
ここは鋼板が薄く、そこを狙って撃たれ、だいぶやられたました。
池田隊長車も、突撃を命じて30分ぐらい、敵をさんざん踏みにじったあと、対戦車銃を横腹に受け、それで中に積んであった弾薬が誘爆し、擱坐炎上しました。

池田隊長の乗車した戦車は、炎上したのちも、しばらく前進したそうです。
その姿は、まるで、死しても前進を止めない隊長の魂が、戦車に乗り移ったかのようだったそうです。

8月21日、現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立しました。
同日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会同して降伏文書の正式調印が行われました。
そして、ソ連軍の監視の下で武装解除が行われました。

守備隊の将兵は、納得できなかったそうです。
「なぜ勝った方が、負けた連中に武装解除されるのか」
みんな、そう言った。
みんな、そう思ったそうです。

占守島守備隊の活躍は、昨日の記事にも書きました。
占守島守備隊の一週間の活躍が、結果として北海道を守りました。

当時のソ連政府機関紙「イズベスチャ」は、占守島の戦いについて、次のように書いています。
〜〜〜〜〜〜〜〜
占守島の戦いは、大陸におけるどの戦闘よりはるかに損害が甚大であった。
8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である。
〜〜〜〜〜〜〜〜

ソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録を残しました。

もし占守島守備隊が、何の抵抗もせずソ連の蹂躙にまかせるままでいたら、昨日も書いたように、日魯漁業の女子工員400名は、ソ連兵に蹂躙されるままになっていたであろうし、ソ連側が述べているように、占守島が一日で陥落していれば、ソ連はそのまま北海道に攻め入り、戦後日本は、半島と同様、北日本と、南日本に分断されていたであろうことは明白です。

逆に、もし、占守島守備隊が第5方面軍の停戦命令を受けなければ、上陸ソ連軍は殲滅されていたろうし、その後のソ連軍による千島列島(北方領土)の接収すらなかったかもしれません。

大功ある、第91師団、そして勇敢な士魂部隊の将兵は、この戦いの後、ソ連に日本本土に帰還させると騙されて、シベリアに強制連行されました。
そして連行の途中で、5分の1が理由なく殺害され、またシベリアで多くの人々が非業の死を遂げました。



不思議なことがあります。

この占守島守備隊の活躍について、戦後左翼は教科書に一切載せていません。
まるであたかも「なかったこと」にしているかのようです。
まれに占守島の戦いについて書いているものでも、この戦いを「無駄な戦い」、「戦死者は犬死に」と一蹴しています。

実に不思議です。
それが同じ日本人の言う言葉なのか。
私には、そういう人たちの感性がまったく理解できません。

占守島には、いまも当時の日本兵の戦車や遺骨、遺品が眠ったままになっています。

戦後67年が経過したいま、日本は、あらためて勇敢に散って行かれた英霊たちへの感謝を捧げるとともに、散って行かれた彼らに恥じない、ほんとうの日本の建設をしていかなければならないときにきているといえるのではないでしょうか。



〜〜〜〜〜〜〜〜
諸士、ついに起つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、
決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し、
後日に再起を期するか。
白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。
〜〜〜〜〜〜〜

私には、池田隊長のこの言葉は、士魂戦車隊の隊員たちへの言葉というだけでなく、平成の世に生きる現代日本人への言葉に聞こえてなりません。
私達は起つべきときがきた、そのように思えるのです。


ねずさんより
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北方領土はロシアのものか?
あの世で英霊に何と答える



今日を生きるのが
精一杯だ
国の事など
どうでもいい

私は仕事も順調
体も健康で
何も言う事はないわ

親父の介護に疲れ
昔みたいに
働けない
俺は一体何を
している

不倫を止めない
嫁に愛想を尽かし
子供を連れて
家を出た
お母さんと
会いたいと泣く娘
泣きたいのは俺だ

私は
上場企業の彼と
来月結婚するの
まだ26だし
人生勝ちかもね

俺は仕事が無い
会社をクビになり
アルバイトさえ
決まらない
腹が減った
もう金が無い
生きる気力がもう無い

俺たちの国は
平和で豊かなんだ

だって学校で
そう習ったんだ
日本は素晴らしい国だって

俺はそう思わない
俺の人生が
苦しいのは
俺のせいだよね

若い頃は
楽しい時も
あったんだ

好きな人もいて
幸せだったよ
別れてしまったんだ
あの人の重荷に
なりたくないから

今は辛いけど
あの人に会えて
本当に良かった

いい思い出なんて
それしかないよ

それでいいんだ

寒いけど
知らない街まで
歩いて行くよ

いい人に会えるといいな


過去があり
現在がある
未来を創るのは
俺たちだ




占守島の戦い


占守島の戦い(1)



北海道のイルミネーション



助けられた400人の乙女たち


日魯漁業といえば、いまは名前が変わって株式会社ニチロです。
さばの缶詰や冷凍食品などで、みなさんおなじみの会社です。

その日魯漁業の従業員2,500人が、昭和20年8月の終戦のとき、アリューシャン列島(千島列島)の先端、カムチャッカ半島のすぐ手前にあるシュムシュ島(占守島)にいました。
なぜかというと、占守島に、ニチロの缶詰工場があったからです。

戦時中、莫大な量の糧食を、日本は外地に補給していました。
なかでも、この占守島で生産される魚類の缶詰は、貴重なタンパク源として、外地で戦う日本の軍人さんたちにとってなくてはならないものであったのです。

そしてその工場の従業員の中には、約400人の若い女子工員も混じっていました。

終戦を迎えた昭和20年の8月15日から3日目、8月18日の午前1時のことです。
突然ソ連軍がこの島に、対岸のカムチャッカ半島から猛烈な砲撃をしかけ、奇襲部隊を上陸させてきました。
宣戦布告もなしに攻め込んできたのです。



この島を守るのは、日本軍の第91師団でした。
師団では、15日の終戦を受け、武装解除の準備をすすめていたのです。
戦車からは車載銃砲や無線機を取り外し、様々な機材は爆砕し、またもう使わなくなった車両などは、海に没げ捨てる準備まで進めていました。
そして17日の夜には、みんなで酒を酌み交わして、別れの挨拶をし、各自布団にはいって、就寝についたのです。

ところが、寝床にはいって、そろそろ眠りについたかな、という午前1時、突然対岸のロパトカ岬からソ連軍が猛烈な長射程重砲砲撃をしかけてきたのです。

さらに追い打ちをかけるように、占守島国端崎の監視所から「海上にエンジン音聞ゆ」と急電がはいる。

降伏に関する軍使なら、夜中に来ることはありえません。
「これは危ない」と判断した日本軍は、島一面が濃霧に包まれた中で、急いで戦闘配備を整えます。

その間にも、
「敵輸送船団らしきもの発見!」
「敵上陸用舟艇発見!」
「敵上陸、兵力数千人!」
等と、相次いで急報が入ります。

戦争は終わったはずなのです。
当初、応戦を逡巡していた日本側も、ここまでくれば、放置したら皆殺しとなってしまう。
とりわけ占守島には、2500人の民間人のニチロの社員たちがいるのです。
しかもそのうち400人は、女子工員たちです。



やむなく第91師団では、国端崎の砲兵、竹田岬と小泊崎の速射砲・大隊砲が協力して反撃を開始しました。
さらに陸海軍航空機による決死の反撃を行い、重砲によって敵部隊への砲撃も行いました。

激戦の中、第91師団の参謀長と世話役の大尉は、ニチロの女子工員のことを気遣います。

「このままでは、女子行員たちは必ずソ連軍に陵辱され被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返さなければならない。」

二人はそう申し合わせると、すぐに部隊に命じ、島にあった20数隻の漁船に女子工員約400名を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させます。

ソ連航空機による爆撃が続く中です。

第91師団は、必死で高射砲の一斉射撃をして、爆撃機を追い払います。
敵上陸部隊にも集中砲撃を行った。
海上の艦船を、漁船の出港が見えない位置に釘付けます。

戦いは4日間続きました。
戦闘は激烈を極めました。

日本軍の死傷者約 600名。
ソ連軍の死傷者約3,000名。

第91師団は、敵ソ連軍を圧迫し、海岸付近に釘付けしました。
ソ連兵を一歩も内陸に前進させなかったのです。
それどころか、あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅(せんめつ)するところまで追い詰めました。

ところが、8月21日、島に第五方面軍司令部から停戦命令が届いたのです。
第91師団は、ソ連軍の攻撃はまだ続いている中で軍使を派遣しました。
そして自ら進んで停戦交渉を進め、戦闘を終結させたのです。

第91師団のもとに、女子工員たちが「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、戦闘終結の翌日のことでした。
第91師団のみなさんの、この報を受けたときの喜びはいかばかりだったでしょう。

しかし、占守島にいた日本人約25,000人は、武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって民間人を含めて全員逮捕されました。
その2万5千人は、シベリアに到着した時点で人数が5000人に減っていたという話もあります。
途中で、理由なく殺されたのです。

生き残り、シベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約1割がお亡くなりになりました。



なぜ、ソ連は、終戦3日後に強襲上陸進攻を強行したのでしょうか。
それまで、千島列島に配備された日本軍に対する攻撃は、米海軍によって行われていました。

終戦3日前の8月12日には、温禰古丹島から占守島に漁船で移動中の日本軍の独立臼砲部隊が、米艦隊の砲撃により全滅させられ、88名に上る戦死者を出しています。
つまりこの地域には、米軍による戦闘実績があったのです。

一方ソ連は、ヤルタ会談の秘密協定で、米英から千島列島をソ連に引き渡すという言質は得ていたといいます。
けれど、日本固有領土の千島列島を、米英がそうそう簡単にソ連に引き渡すかは、はなはだ疑問です。
ソ連は、自らの戦闘実績をつくり、自力で千島を占領しようとしたのです。

そのため彼らは、日本がポツダム宣言を受諾した後の8月15日からあわただしく戦争の準備し、奇襲上陸してきたのです。

ソ連はその後、米国に対して北海道の分割統治の要求を行いました。
このことは、ソ連が、もし千島侵攻がうまく行っていれば、一気に北海道まで侵攻し、領有しようとする意図があったということを示しています。

さらにソ連は、占守島のは占領を1日、と計画していました。
たった1日で、占守島は占領できると、彼らは踏んでいたのです。

ところが占守島の第91師団は、そうした彼らの目論見を、見事に粉砕しました。
敵をせん滅しかけただけでなく、彼らを「一週間にわたり」、島に釘づけにしたのです。

実は、この「一週間」が、北海道の命運を決定付けました。
ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に、米軍が、北海道進駐を完了させたのです。

米軍の北海道進駐によって、北海道は、ソ連軍の侵攻を免れました。
そのために、ドイツや朝鮮半島のように、北海道が米ソによる分割統治になるという事態が避けられたのです。

逆にいえば占守島第91師団の勇敢な戦いがなかったら、北海道は千島や樺太の南半分と同様、日本国は「帳面上」の領有権を持つだけで、いまごろはまだロシアによって実効支配されていたかもしれません。

占守島に上陸してきたソ連兵は、日本兵武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうです。が、あとの祭りでした。
もし彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったら・・・

占守島の第91師団。

彼らは、終戦を迎えた後にも、身を持って卑劣なソ連の進行を妨げてくれました。
彼らは、ソ連軍占領予定地点の北海道中部まで本土上陸を阻止ししてくれました。
彼らは、多くの婦女子を占守島より脱出させてソ連兵による陵辱から守り通してくれました。
彼らは、上陸しようとするソ連軍を水際から一歩も踏み入れさせず、勇敢に戦ってくれました。
彼らは、占守島の第91師団は、私たちに北海道を残してくれました。

彼らのおかげで、北海道は、いまも全域が日本です。

私達は、北海道産のおいしい食品を食べることができます。
私達は、占守島の第91師団の戦いを、勇気を、恩を、決して忘れてはならないと思います。



ねずさんより
画像は追加しています。



この戦いがなければ
北海道も分断されていただろう

この綺麗なイルミネーションも
見る事も無い

俺たち日本人は
あまりに歴史に無関心

俺たちと同じ日本人が
極寒の地で戦い
護り抜いた国土
未だ眠る
英霊の遺骨

平和ボケした俺たちに
何を語るのか?

過去があり
現在がある
未来を創るのは
俺たちだ







肉は害なのか?



肉は害なのか?




肉を食べると人間は攻撃的な性格になるのか?


ベジタリアンが肉食をdisるときによく使う言葉の一つとして、「肉を食べている人間は攻撃的」というものがある。


本当にそうだろうか?


言っちゃ悪いが、俺はこれは印象論にしか思えない。菜食主義者がドヤ顔で語る「肉を食べたら性格が凶暴になるんです!!」という意見は、結局のところ肉食動物は獰猛だからそれをイメージしているだけにしか思えないのだ。


なぜそう感じるのか?


科学的なデータがないからだ。肉食を続けることによって性格が凶暴になるという科学的データは全くない。特に肉食を批判しているサイトを見ればよく分かるが、大半が偏見と印象だけで物事を語っているダメサイトばかりなことがよく理解できる。



そんな俺も「肉を食べると攻撃的な性格になることはない」という証明はできないので五十歩百歩なところはあるが、肉を食べようが野菜しか食べなかろうが性格に影響はないと思える理論はある。


それはベジタリアンの偉人を見れば分かる。


菜食主義者の言い分は「肉を食べる人間は攻撃的。だから菜食主義になれば精神が安定して、平和に過ごすことができる」というものだ。


本当にそうだろうか?



これは俺の偏見だが、ベジタリアンの人ほど心が病んでいる人が多い気がする。やけにベジタリアン以外の人を見下すし、「私達は高い魂を持っている」とかいって自分達の存在は上だと主張するし、こういうことを言う人間は本当に心に余裕があるのだろうか?




馬刺は旨い!女性の貴方も漲るパワーを。
 
まあ、印象論だけを語っても俺も同じ穴のムジナになってしまうので、「菜食主義が別に平和的思考になるわけじゃないよ」という例を挙げていきたいと思う。

 

 

この人物、誰かご存知だろうか?

 
知らない人はいないと言っても過言ではないだろう。かつてドイツを率いたアドルフ・ヒトラーだ。

 
ヒトラーポーランド侵略戦争をしかけ、フランスを占領した独裁者である。その後ソ連に対しても侵攻したのだが、こんな簡単なエピソードを見ても「攻撃性が強い」と判断することができる。

 
そんなヒトラーは肉を食べていたのだろうか?

 
むしろ逆だ。ヒトラーベジタリアンであり、肉は食べなかったのだ。一般的なベジタリアンの意見だと、「肉を食べると凶暴になり、攻撃的になる」というものだが、ベジタリアンヒトラーがこれだけ攻撃的だというのも実に面白い。

 
これは菜食主義と温厚な性格というのはあまり関係ないことを表すケースではないだろうか。

 
ウインナービールがススミます。


実際に肉好きでも攻撃的な人もいれば、優しい温厚な人もいる。結局一部分だけをピックアップして印象論を語るのは害でしかないと俺は思っている。ベジタリアンだって攻撃的な人もいれば、温厚な人もいて当然なのだ。

 
「菜食主義を貫けば温厚になれる」というのは嘘である。

 
温厚か攻撃的かどうかというのは、その人の性格によるものが大きい。

 
もう一つ例を挙げよう。

 

出典 taisy0.com

 
この人、Appleの創設者のスティーブ・ジョブズだ。


ジョブズは偉人であり、俺も大好きな人物の一人だ。実はジョブズも菜食主義者であり、野菜しか食べないしっかりしたベジタリアンだった。

 
ジョブズの性格をご存知だろうか?

 
ジョブズは天才で頭の良い人物だったが、性格的には温厚だとは言えない。実際にジョブズのクズエピソードは山のように見かけることができる。

 
ジョブズに対する他の人々の意見はこちら。

 
「スティーブはまさに刺激的な存在だ。放漫で、暴虐で、激しく、無い物ねだりの完全主義者だ。彼はまた、未成熟で、かよわく、感じやすく、傷つきやすくもある。そして精力的で、構想力があり、カリスマ的で、さらにおおむねは強情で、譲らず、まったく我慢のならない男だ」ジョン・スカリー

 
「民主主義に沿ってたんじゃ、素晴らしい商品なんて創れっこない。闘争本能の固まりのような独裁者が必要なんだよ」ジャン・ルイ・ガセー(Be社創業者、元アップル社員)

 
「他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ。我々はジョブズのことを現実歪曲空間と呼んでいたのさ」ジェフ・ラスキン

 
いかがだろうか?


ジョブズに対する評価は上記の意見が証明している。少なくともジョブズは温厚で平和主義的な性格ではなかったし、むしろ社員に対して怒り狂うことが多い狂人だったのだ。

 
そんなジョブズはれっきとしたベジタリアンベジタリアン信者の言い分を信じるのならば、肉を食べなかったヒトラージョブズは平和で温厚な性格だったと思うのだが、いかがだろうか?

 
矛盾していないだろうか?

 
「いや、それは個人の性格によるもので、例外だってあるだろう」という反論もあると思う。

 
全く同じことを私も言わせて頂きたい。

 
肉食だから性格が凶暴になるというのも嘘だ。あんなのは一個人をピックアップして「肉食の害」を語っているに過ぎない。何度も言うとおり、肉食の人間にも性格が温厚な人もいれば攻撃的な人もいる。それはベジタリアンも同じだ。



 国民の血税で食べる焼肉は格別に旨い!


「肉を食べると攻撃的な性格になる。菜食主義は穏やかである」という意見は嘘だから騙されないで欲しい。もしその意見が正しければヒトラージョブズだって穏やかで心優しい性格だったはずだからだ。


 
お怒りもご最もです。



「肉を食べると攻撃的な性格になる」というのは科学的根拠もない印象論である。菜食主義のジョブズヒトラーの性格を見ても、いかにこの意見が滅茶苦茶か理解できるだろう。



焼肉なんか、俺も食べたいわ!
松屋の牛丼並が、俺の肉食。


肉食は最高だ!さんより
画像は追加しています。




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少し期待してます。








猛暑と地震の因果律


猛暑と地震因果律



ひと昔前になるが、物理学の教書、その冒頭か末尾には必ず宇宙の誕生に関する記述があり、この宇宙は極小となった暗闇に一条の光が差すところから爆発、膨張を始めたと記されていたものだ。
だがこの一条の光はどこから来たのか、何で発せられたのかと言うと、それは分からない、「神の力としか表現しようが無い」、物理学の教書はまたそこに、このような科学の限界も記していた。


そしてこうした科学の限界は今も何ら変わってはいない。
近代科学は因果律、つまり運命論を否定することをしていったが、その先に見えてくるのもはあらゆる物質の存在に対する疑問であり、科学はすべての物質に対して、それが存在する理由や意味を証明できない。
それゆえ現在の地球の科学は現象から引き起こされる事実をして科学と呼び、ここに創造性や意義などと言ったものを問うことはできない。
つまりは科学は事実と、観測によって確かめられた予測、の羅列に過ぎないのである。



だが現実の世界はどうか、そこにはこうして認知された現象、つまり「科学」に当てはまらない現象も起こってくる。
そこでこうした科学の枠を超えた現象を絶対とする考え方が生まれてくるが、これを神秘主義と言い、科学と神秘主義は互いを認め合わない為に、そこには相互否定が発生してくる。
つまりここでは事実よりも「思想」が優先された、対立して閉ざされた世界が広がってくるのだが、このことが実は科学の進歩を遅らせている最大の理由である。


現象や事実に対して謙虚であること、このことを知る者ならば、いつの日か科学と神秘主義はその垣根を越えて、ともにその先に真実を探ろうとするに違いない。
実に科学の本質とは「想像と疑問」にすべてが帰するものと言えるのではないか・・・。



10月9日兵庫県姫路市にて撮影

1923年8月、この年の日本、特に東京の気候は異常な高温と、連日発生する雷や正体不明の発光現象で尋常ならざるものとなっていたが、人間の感覚とはおかしなものだ、それが1度のものなら3日もすればほとんどの人がすべて忘れ、異常なことでも毎日続けばそれに対する異常性が失われる。
1923年に起こった関東大震災では、地震発生前に多くの異常がありながら、苦しい生活に追われる大人たちは、その異常を異常として捉えることができなかった。
それゆえ関東大震災前にもっとも「何かとんでもないことが起こるのではないか」と感じていたのは、実は多くの子供たちだったのである。


「柏木みやの」さん(旧姓)は当時9歳だったが、両親の都合で1年間ほど品川の叔父夫婦の家へあずけられ、彼女はそこで1922年7月から、1923年8月28日までを過ごす事になるが、このとき1923年8月に起こったことは一生忘れないと話している。





8月半ば過ぎごろから、裸でいても蒸し暑くていられないほどの天気が毎日続き、その上いつも夕方6時ごろになると、大して天気が悪くも無いのに、空から太鼓を打ち鳴らすようなドーン、ドーンと言う音がやはり毎日聞こえ、湿度なのか汗なのか分からないが、いつも夕方には着ている服がずぶ濡れになった。
それで叔父夫婦にもこのことを話したのだが、彼らの返事はいつも「ああ、そう」でしかなく、そうこうしている間に両親が迎えに来て彼女は福島へ帰るのだが、彼女たちが福島へ帰ってから3日も経たない間に関東大震災が東京を襲ったのである。


また当時横浜鶴見に住んでいた「新澤喜三郎」さんは当時10歳だったが、とにかく暑い日が続き、それが夜になると今度は蒸し暑さになってきて、さらに夕方7時か8時ごろになると、いつも必ず雷のような音がして、でもおかしなことにはこの雷、外へ出てみると、空の一点からまるで水面に石を投げたように光が広がっていくことで、真っ青な光だった。
それが8月20日過ぎごろから毎晩続き、喜三郎さんの両親もそれを見て不思議がっていたが、やがて両親はこうしたことが毎晩続くことから、しまいには見に出る事も無くなった、しかし喜三郎さんは子供ながらに実に異常な光景だった・・・、と話している。


そしてこれは1995年に発生した「阪神淡路地震」(阪神大震災)だが、この地震は1月17日に発生しているが、この前年の1994年、日本は大変な猛暑に見舞われ、その猛暑による経済効果が1兆円とも言われた、記録的な暑さだった。
また1995年1月の神戸の気温は、最高で17度と言う気温の日があり、明らかに1月とは思えない気温の高さが地震発生の前には観測され、人々もどこかで「何かおかしい」と思いながら暮らしていたのである。


さらに2007年の能登半島地震、ここでも前年の2006年は北陸が大変な猛暑に見舞われ、能登半島地震は3月25日に発生しているが、神戸と同じようにやはり例年だと積雪があるはずの能登半島は、1月、2月と温暖な天気が続き、住民は「もしかしたら大きな地震でも来るのではないか」などと話していたのである。





1923年、関東大震災をその年の1月から予言していた易学者「小玉呑象」(こだま・どんしょう)は、その著「地震予知」でこう語っている。
地震が起こるときは、温暖な気候のものなり」
1703年「元禄地震」、1707年「宝永地震」、1828年「越後三条地震」、1847年「善光寺地震」、1854年「安政東海地震」、同じく1854年「安政南海地震」、1855年「安政江戸地震」、1923年「関東大震災」、いずれの場合でも地震が発生する前には「暑さ」が関係している。


そしてこのことをして間違いなく地震が来るとは言えないが、統計上暑い気候の年や、その半年後には大きな地震が起こっていることもまた事実であり、多くの地震でその現象が確認されている雷のようなドーン、ドーンと言う音だが、これも気象庁は因果関係が確認できないとして、地震の前兆現象とは認めないが、多数の日本人が確認している事実であり、少なくともこの雷に似た「音」ぐらいは、地震の前兆現象と認めるべきものだと私は考える。





9月1日は「防災の日」だが、これは関東大震災が1923年9月1日、正午近くに発生し、東京が火の海となって10万人以上の人が、焼け死んでしまったことを教訓とするものだ。
防災で大切なのは科学的であるか否かではない、すなわち「生き残るためなら科学でも、例え迷信や言い伝えを使ってでも良いから、何としても生き残る」、このことに尽きる。


最後に、1923年、関東大震災が発生し東京が劫火に焼かれた直後、当時の文壇の著名人、芥川龍之介田山花袋生田長江竹久夢二などは一様に同じ感想を述べているが、それは基本的に「そら見たことか・・・」と言う言葉である。
国家は堕落し、政治も腐敗の極みを向かえ、人々の心は拝金主義によってモラルを失った大正末期の日本、彼らの目には極限を超えた堕落は、もはや人間自らによっての自浄能力ではいかんともし難く、救いは巨大災害しかなかった、そのような壮絶な見識が感じられる。


2010年、この暑さと、そしてこの日本の在り様である。
何も無いことを祈ろうか・・・。



この者に天のご加護を
さんより




第二次世界大戦のさなかである昭和18年(1943年)9月10日17時36分、M7.2の鳥取地震が発生する。
最大震度は6で死者は1083人を数える大きな被害となったが、戦時統制中であったことから詳しい状況は伝わらかなった。
この鳥取地震を皮切りに戦後にかけての4年間、日本は毎年巨大地震に見舞われて(東南海地震三河地震、南海地震)、その都度1000人以上の犠牲者を出した。


壊滅した市中心部と荒金鉱山の悲劇


地震鳥取平野の直下で発生、震源が浅いこともあり、鳥取市で震度6を記録するなど激しい揺れを伴った。
揺れは新潟県から九州北部の広範囲におよび、震源から比較的離れた瀬戸内側の岡山市でも震度5を記録しており、被害は地盤が軟弱である鳥取平野に集中した。
鳥取市の中心部などは壊滅状態となったが、これは積雪地帯ゆえの梁を太くして屋根が重たい木造家屋や、老朽化した建物が多かったことが災いした例といえる。



鳥取市内の被害の様子(鳥取市HPより)>


鳥取県震災小誌』によれば、「道を歩いていた者は、瞬時に地上に投げ出されている自分を見出した。立ち上がろうにも立てないのである。
そこかしこの家々からおこる悲痛な叫び声に続いて、バラバラと身一つで逃げ出る人びと。
かくてこの瞬間に、家々の建物は、目の前で凄まじい土煙を立てて崩れて行ったのである」とあり、地震の激しさが見てとれる。





また、夕食の準備時間と重なったことから市内12箇所から火災が発生して燃え広がり、沈下したのは翌朝の5時頃だった。
また液状化現象も見られた。

県東部の岩美町にある荒金鉱山では、地震により鉱泥を貯めていた堰堤が決壊して鉱山の飯場や荒金集落を直撃、朝鮮人労働者やその家族、地元住民ら計65人が犠牲となった。
堰堤直下にあった飯場は鉱泥の下に現在も埋まったままだ。




戦時統制下の地震


鳥取地震の発生は第二次世界大戦の戦局が悪化する頃にあたり、戦時統制下で報道管制が敷かれていたため、被災状況が国民に詳しく伝えられることはなかった。
その後に続く東南海地震三河地震などとともに「伏せられた地震」としても知られている。





その一方で戦時統制下であるがゆえに、住民の防災訓練が徹底されていたとの見方もある。また、関東大震災の教訓から略奪や流言による大きな混乱はなかったとされる。

この地震では鹿野断層と吉岡断層という二つの断層が出現した。
南西-北東にのびるの鹿野断層(長さ約8km)は、西半分では北側が東方向に最大150cm動き、南側に対して75cm沈下、東半分では北側が東方向にわずかにずれ、南側に対して50cm隆起している。
その北側に並ぶ吉岡断層(長さ4.5km)では北側が東方向に最大90cmずれ、南側に対して最大50cm沈下している。
また昭和53年(1978年)に行われた鹿野断層のトレンチ調査の結果、この地震以前も、4000~8000年前に地震が発生していたことが分かった。

中国地方は活断層が少ない。
主な活断層広島県西部から山口県東部の五日市断層帯と岩国断層帯、山口県西部の菊川断層帯で、地殻変動が比較的小さい地域と言われている。
しかし中国地方で発生した地震震源は、鳥取県から山口県にかけての日本海沿岸に並んで分布する。

この地域では明治以降、明治5年(1872年)の「浜田地震」、ここで記した「鳥取地震」、平成12年(2000年)の「鳥取県西部地震」といったM7以上の内陸型大地震が3度発生している。

活断層がない(分かっていない)地域にも内陸型地震が発生する可能性があることを認識したい。


鳥取県災害記録より







花田家の謎


花田家の謎



先日一緒に国技館に行った友人から、花田家にまつわる興味深い話を聞いた。

花田家といえばかつての若貴兄弟を生み出したした名高い相撲一家である。

その血統は第45代横綱若乃花(初代)を中興の祖とし、その弟である大関貴乃花、さらにその息子である若貴兄弟へと受け継がれている。

...というのが一般的な認識だが、実はこの系図は偽りであるというウワサがまことしやかに流れているらしい。

事の発端はプロ野球ニュースのキャスターを務めていた佐々木信也が講演会でポロッともらした「若貴は兄弟といっても父親が違うんですよ」という一言だ。

ニ子山親方(元大関貴乃花)と女優藤田憲子との間に設けた兄弟が若貴のはずだが、佐々木氏の言はこれを明らかに否定している。

佐々木氏曰く、若乃花(お兄ちゃん)の父親はなんと初代若乃花、そして貴乃花(光司)の父親は...これがなんと第54代横綱の輪島なのだとか。

あまりにも衝撃的すぎる内容だが、それを裏付ける根拠もいろいろあるらしい。

まず「初代若乃花-お兄ちゃん」の方だが...
昨年ニ子山親方が死去し、その息子である若貴が遺産相続問題でモメた際に貴乃花がインタビューでこんな発言をした。


「勝さん(お兄ちゃん)は親父(ニ子山親方)よりも勝治さん(初代若乃花)に似てますよね。勝治さんも僕より勝さんを随分可愛がってますし。(中略)何か事情があるんじゃないですか?まぁご想像にお任せしますよ」

もし「勝治-勝」が叔父と甥ではなく父親と息子の関係であれば、貴乃花の言もそれを暗示しているようにも思える。


次に「輪島-貴乃花光司」の方。
そもそも若貴兄弟があまりにも似てないというのはかねてから言われていたことだが、なぜか光司は成長するに従ってどんどん輪島に似てきたらしい。

しかもニ子山親方は現役時代から輪島とは親友で、憲子夫人との結婚前は会話の間が持たないため輪島を入れた3人でよくデートしていたとか。(これは輪島がTVで暴露)

ゆえに「輪島-憲子」間に何らかの繋がりがあってもおかしくはない。

また光司は98年に一度兄弟絶縁宣言を出しているが、これも貴乃花光司がそもそも花田家の血を引いていないことになれば大いに納得のいく話である。

そうなると憲子夫人の行動が問題視されることになるが、佐々木氏の言によれば、これは不倫ではなく計画的に実行されたものだという。

二子山親方は種無し(ホ◯との説も)だったそうで、憲子夫人は後継者を生むためにニ子山親方に近い初代若乃花と輪島の種をそれぞれもらったとか。

先日タレントの向井千秋が双子を代理出産していたが、アレに近いことを秘密裏に行ったということだろう。

しかし仮に肉体的な繋がりがなかったとしても、世間的には考えられないドロドロした世界ではある。

花田家の力士で唯一横綱になれず、しかも早逝した上にホ◯だの種無しだの散々言われる故・二子山親方には心から哀悼の意を捧げたい。

(AT/MTさんより)




初代横綱若乃花花田勝治)が愛人との間に作った子供が今の二子山親方(元大関貴ノ花)。

洒落にならんので、弟ということにした。

更に大部屋女優だった憲子と二子山は同棲していたが、初代若乃花(当時の二子山親方)はこれに猛反対しており、何度も憲子のもとに通っているうちに、あろうことか、初代と憲子がなんと出来てしまい憲子は妊娠!!

その子が花田勝、つまりお兄ちゃんである。

さらに洒落にならんので、急遽二子山(当時貴ノ花)は憲子と結婚、勝を我が子とした。

(ここで結局勝治は息子(いちおう弟ということになっているが)二子山に大きな借りができた。

後年勝治がいとも簡単に 相撲界を退き、当時の藤島親方に二子山部屋をタニマチ ごと破格の安さで譲り渡したのは、このためである)

さらに今の貴乃花花田光司)は、憲子と輪島の子だということは皆さんご存知のとおりだが、実はここはウラがとれていない。
しかしあの顔となによりも体つきのクリソツぶりはそれを信じさせるのに十分足りる。

つまり二子山夫妻は今も昔も仮面夫婦(*注 離婚しました)なのである (二子山はタネなしとも言われる)。

そしてこのことを花田勝はある程度知っていたのだが、全く知らなかったのが光司。

そしてそのことを光司の耳に吹き込んだのがあの整体師・冨田であり、それを聞いて心底わが家族が嫌になり、以降全く親方、そしてそれを隠していた兄と袂を分かとうとしたのが、あの「絶縁宣言」の真相である。

(あの掲示板より)




日馬富士横綱としての初優勝を全勝で成し遂げた大相撲初場所・千秋楽。

同日、十両では貴ノ岩が12勝3敗で初優勝を果たした。

2004年2月に創設された貴乃花部屋にとって初の十両優勝力士となる。

「親方になって初めてわかったが、相撲は自分が取るほうが数段楽だ。弟子の相撲ほど、心臓に悪いものはない」

こう語ったのは貴ノ岩の師匠・貴乃花親方。

ご存知、第65代横綱貴乃花だ。

初場所開催に合わせ上梓した自伝 『生きざま』の中で、親方としての苦労を語っている。

本書『生きざま』は、父親である元大関貴ノ花の初優勝時、貴乃花が2歳のときまで遡り、そこからの激動の相撲人生を振り返りながら、40歳を迎えた今、どう相撲とかかわっていくかというまさに「生きざま」が詳細に綴られていく。

“輪島のおじさん”に教わった、わんぱく相撲での横綱土俵入り
・新弟子時代に兄弟子達から受けた「かわいがり」
千代の富士との初対戦
・叔父である二子山理事長からの賜杯を受け取った時の本当の気持ち
若貴ブームとマスコミの呪縛
・「貴ノ花」から「貴乃花」に変わった経緯
・「不撓不屈」は師匠から、「不惜身命」は緒形拳からもらった言葉
・洗脳騒動の真実、そして身内との関係性
・非難を浴びた体重増の背景とその壮絶な方法
小泉首相(当時)の「感動した!」が生まれた、武蔵丸との対戦の舞台裏
・引退後……親方業、相撲協会理事としての苦労

ワイドショーやスポーツ紙をはじめ各メディアを賑わせ、相撲ファンならずとも印象深いこれらのエピソードの裏側を惜しげもなく語っている。

読者の誰もが知りたい、宮沢りえとの破局、若乃花との確執についても、実名こそないものの「それ」とわかる記述がなされ、現役時代通り、潔い姿勢で貫かれた一冊だ。

だが、ここではあえてそれらは取り上げない。

なぜなら、本書でもっとも熱く、ページを割いて語られるのは、父であり師匠である元大関貴ノ花についてだからだ。

その意味で本書は、元横綱貴乃花の自伝でありながら元大関貴ノ花の回顧録にもなっているという、二人の貴乃花貴ノ花)の物語でもある。

父の取り組み時にはテレビの前に正座してその相撲を食い入るように見つめ、取り組み後はビデオに録画した映像を何度も見返した少年時代。

《父がどうして勝ったのか負けたのか、子どもながらに一生懸命分析しながら、父と一緒に相撲を取っている気持ちになっていた》という姿は、後の横綱としての結果を知れば納得だが、実際にそんな少年を目の前にすれば異様な光景と思われても仕方のない、まさに修羅への第一歩。

「世界一近くて遠い実家」と呼ばれ、その後何度もメディアで流されることになる三階の実家から二階の藤島部屋への引っ越しの際、生まれて初めて見た父の涙。

《あの厳格な父を子どものように泣かせた、そうまでして決めた道だ。負けるわけにはいかない。逃げ出すわけにはいかない》という決意は、無口でクレバーという形容詞が似合っていた貴乃花らしくない熱い一面を垣間見せてくれる。

その他にも、横綱千代の富士との初対戦で勝利した際、「これだけ騒がれている中で、自分の相撲を取りきったところはたいしたもんだ」と褒められたことを「耳を疑った」「私を褒めたことがない師匠が初めて褒めてくれた」とまるで大事件のように綴るなど、現役時代に師匠からもらった言葉、受けた指導を詳細に振り返っていく。

それは親方になった今でも変わらない。

貴ノ岩が三段目で初優勝を果たしたときも、《自分が優勝したときなどは、涙はおろか、「嬉しい」という感覚さえもなかった。弟子の優勝がこれほど嬉しいものとは思っていなかった。

父はどんな思いで、私の優勝を見守っていてくれたのだろうか。私に隠れてこっそり涙を流したこともあったのだろうか。

確かめたくても、確かめる術はない》と、まず父の顔を思い浮かべている。

本書の冒頭において貴乃花は《私は横綱になるという父の夢を果たすため、父の分け身としての人生を歩んできた。各界入りをしてから今日まで、私の中には常に父の言葉が、父の魂があった》と語っているのだが、この「分け身」という言葉が本書の中で何度も何度も登場する。

二場所連続全勝優勝という偉業で横綱昇進を果たした時も、喜びよりも「これでいつでも辞められると思った」と吐露し、《本来、横綱になるべきだったのは師匠。

私はその分け身としての使命を果たしただけだ》と綴る。

洗脳騒動時、父からも信じてもらえず、誰も味方がいない状況になっても、《私が変わらず相撲に打ち込んでいれば、師匠も見方を変えてくれるだろう。

私と師匠をつなぐのは相撲しかないのだ》とひたすら四股を踏み続け、《私はあなたの分け身としてしか、自分の生に価値を見いだしたことがないのだから》と告白する。

そこからは、師匠と弟子、父と子の関係性を超えた、崇高な存在であったことが伺えてくる。

それが如実にわかるエピソードがある。すこし長いが引用したい。


《あるとき、前世が見えるという人に「あなたは前世でもお父様と親子で、その背中を追って生きてきた。今世でもそのままのことが行われている」と言われたことがある。

前世というものが本当に存在するのかわからないが、そのときは「そうかもしれない」と思った。もし、父が造り酒屋だったら、私も造り酒屋となっていただろう。

もし、父が医師だったら、私も医師になっていただろう。

私は、父の子としてこの世に誕生した瞬間に、相撲という修羅の道で生きることを宿命づけられていたのだ》
平成の大横綱貴乃花

それは一人で成し遂げた地位ではなく、親子二代に渡る共闘によって登りつめた地位だったことがよくわかってくる。

そんな父からの「部屋を頼むぞ」という遺言を受けて二子山部屋を引き継ぎ、現在は貴乃花部屋の師匠を務める一代年寄貴乃花。周囲の誰とも口をきかなかった現役時代とは打って変わり、他の親方衆とも酒を酌み交わし、相撲協会理事として宣伝活動や裏方業にも忙しい日々を送る。

スカウト活動もせず、タニマチに依存しない「サポータ制」(年会費2000円)を導入するなど、これまでにない部屋運営がよくも悪くも注目を浴び、話題先行と見られることも多い。

だが今回、貴ノ岩が十両優勝を果たしたことで、着実に部屋としての実績も追いついてきた格好だ。

苦労の末、辿り着いた弟子の初優勝をどんな気持ちで見届けたのか、そしてこれからどんな相撲道を歩んでいくのか……これについても本書の中で綴られている。

《もう、これ以上の分け身はいらない。叔父、父、私とつないできた相撲界と花田家の因縁は私の代で捨てよう。そのかわり、この身は惜しむことなく骨の髄まで相撲道に捧げよう》
一代年寄貴ノ花の不惜身命の相撲人生は、これからも続いていく。

(エキレビさんより)



「兄より優れた弟など、存在しねぇー‼」リンク


「父の四股名で綱をとる」リンク





違う調べ物をしていたら
ふと
若貴の記事が目に止まる

若貴の時は
私も相撲をよく見てました

兄貴は天才型
弟は地道な努力家

兄貴は天才的な
運動神経をしています

弟はひたすら
努力と稽古で
強くなった

当時から
似てない兄弟だなと
思っていました

私もなんで
あそこまで
仲がこじれるのだろう?

不思議でした

多分
この通りなのだろう

でも
種違いとはいえ
兄弟には違い無い

いつかは
仲直りしてほしい

私にも4歳下の
弟がいます

以前は
親父と弟と三人で
仕事をしてました

親父が死んでから
色んな事があり

今は絶縁状態

なんか鏡を
見てる様

なんで
こうなったんだろう?

多分
俺が悪いのかな…


貴乃花親方ロングインタビュー リンク




兄貴は何を想う…


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