ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

正義ってなんだ?





正義ってなんだ?














正義のために身を捨てる覚悟 

山田宏先生






何事かをなそうとするときには、身を捨ててかからなければならないというお話を、山田宏先生から伺いました。

90分ほどのお話ですが、たいへん勉強になりましたので、その要約をお届けしたいと思います。





1970年の大阪万博の年に、山田宏先生は小学校を卒業されたそうです。

よくある話ですが、小学校では先生から「君たちの将来の夢は?」と聞かれたそうです。

山田宏先生は、「ボクは政治家になりたい!」と言ったそうです。



なぜかというと、この頃の日本は、進歩的文化人の全盛期で、ストが多発し、新聞やテレビを観ると、日本は遅れた国だ、日本に生まれたことは恥ずかしいことだという言論ばかりでした。

ところが海軍軍人の家に生まれた山田先生は、家の中では日本は正しかったと教わり、学校では日本への批判ばかり聞かされていました。

あまりに、日本批判ばかりだから、かえって「なんとかすべきではないか」と思ったのだそうです。



その家の中には、神棚と仏壇がありました。

そして父方の母、つまり家にいるおばあちゃんはキリスト教でした。

だから、「ウチの宗教は何?」とおばあちゃんに聞いたそうです。





するとおばあちゃんは、

「宏くん。宗教ってなんのためにあるのかな。

人を救うためでしょう?

宗教ってね、人の魂を磨くヤスリみたいなものなの。

生まれて死ぬまでのヤスリ。

そういうね、ヤスリを持っていることが大事なの。

日本人は器用だから、

どんな宗教でも受け入れて、

自分の魂のヤスリにすることができるんだよ」

と言ってくれたのだそうです。



その話を聞いた時、小学生だった宏くんは、胸を張れる思いがしたそうです。

「日本てすごい国なんだ!」

そう思いました。



その年の歳末、クリスマスがやってきました。

ケーキを食べて盛大にお祝いしました。

その6日後には、家族みんなで除夜の鐘を聞きました。

翌日には、神社に初詣に行きました。

「日本人であること。そのことに引け目なんて全然感じることなんてない!」

そう確信することができたそうです。



ところが中学校では、日本人は侵略者だ、日本人は悪いことをしたと、先生が真剣になって生徒たちに訴えていました。

教育というのは、おそろしいものです。

日本は悪い国なのだろうかという疑問と、家庭で教わる誇りある日本。

そのギャップは、ずっと心の中のわだかまりとなっていたそうです。



だいぶ後の時代になりますが、東京都議になって二期目、31歳のとき、会津若松市に視察に行きました。

みんなで料理屋で食事をしたときのことです。

お店の中で、女将から「山田さんはどちらのご出身なんですか?」と聞かれ、

「ウチは350年、長州藩でした」と言ったのです。



すると女将だけでなく、店中がまるで凍りついたようになりました。

それまで愛想の良かった女将も、まるで冷たい態度になりました。

戊辰戦争戦争は、その年から起算して、ちょうど120年も前の出来事です。

「なのになぜ?」



疑問に思った山田先生は、会津教育委員会に話を危機に行き、いただいた資料で会津における戊辰戦争教育の資料を貪るように読みました。

そこには、「徳川幕府に最後まで尽くしたのは会津藩である」と書いてありました。

戊辰戦争も、「東西戦争」という名で書いてありました。



「偉い!」と思いました。

日本は、先の大戦について、ただ「敗けた、悪いことをした」と教育しています。

ところが会津では、戊辰戦争について「自分たちは敗れたけれど、最後まで正義を貫き通したのだ」と教えているのです。



山田宏先生が、そんな会津での経験を通じて学んだことは、「現代日本こそ異常ではないか」ということだったそうです。

野口英世も柴五郎も会津の人です。

プライドを捨てないで生きてきたからこそ、人が育った。

会津と戦後日本のコントラストは、山田宏先生に「誇りの持てる日本に!、そのために働け」という啓示を与えてくれたように思えました。















人には、自己肯定感が必要です。

自分は素晴らしい存在なのだという自信と誇りが人を育てるのです。

日本人から自己肯定感が消え、むしろ積極的に自己肯定を否定してきたからこそ、日本人から気概が消え失せてしまっています。

「ならば」

日本人が、名誉と誇りを取り戻すために、日本の真実を自分なりに探り、その名誉と誇りを取り戻すために働く政治家になっていこう!



山田宏先生の心の中に、新たな闘志の炎が燃え盛った山田先生は、中村粲著の『大東亜戦争への道』を皮切りに、外務省の資料館にまで行って、先の大戦のことを調べたそうです。

そしてひとつひとつの事実を学ぶたびに、心に大きな勇気の炎が湧き上がるのを感じたそうです。



こうして山田先生は、自身の政治家としてのミッション・ステートメントとして、

「日本人の自己肯定感を取り戻す」

を選び、今日の政治活動の柱にしています。



 













山田宏先生のお父さんは、海軍士官で、8月15日の終戦の日には厚木飛行場に居たそうです。

あと三日で少尉に昇格するというとき、正午に玉音放送が流れました。

後ろの方にいて、ラジオがよく聞き取れず、放送中は不動の姿勢をとり、

「戦況は厳しいが諸君の奮闘を祈る」という激励のお言葉だと思っていたそうです。



ところが放送が終わって仲間たちから敗戦と聞き、たいへんなショックを受けました。

8月12日には、房総沖に現れたB29を迎撃に出た戦友が、帰らぬ人となっていたのです。

あと三日、戦争が伸びていたら、父もこの世の人ではなくなっていた。

そして、もしそうなっていたら、山田先生もこの世にいないのです。



「父が生きていたから、自分がいる」

その終戦の直前まで、戦争で多くの犠牲者が出ています。

国を守るために、みんなを守るために、戦い、死んでいったのです。



けれど、戦後の日本では、そうした人たちは犬死扱いです。

軍人の名誉を傷つけて平気でいます。

それって、絶対におかしい。

そういうことを、27歳で都議になり、その後8年間の都議生活のなかで、山田先生ははっきりと自覚したといいます。











戦後の日本は自己肯定感を回復すること。

それは、日本が豊かになることです。

そして、どんなに豊かでも、国が強くなければ、国民は幸せになれないのです。

そして、人も国も、強くなければやさしくなれないのです。



「幸せって何か」

この問に、松下幸之助さんは、松下政経塾である日こんなことを言いました。

1 人間とは何かを研究しなさい。

2 日本とはどのような国かを研究しなさい。

幸せを追求するために、人間と国家が何なのかを知らなくてはならない。



松下幸之助さんは、

「経営ってのはな、言葉は悪いが人を飼うことや。

羊を知らなければ、羊飼いにはなれんやろ。

国も会社経営も同じや。

人を知らな、経営も政治もでけへんのや」



人は、自分が持っている能力で、誰かの笑顔を見た時、幸せを感じる生き物です。

人に笑顔をもたらすこと。

それが人が成長するということです。

そして政治は、過去、現在、未来に通じる仕事です。

過去にも現在にも未来にも笑顔を築きたい。

それが山田宏先生の願いとなりました。







松下政経塾は、政治家をつくる塾です。

その松下政経塾では、4年目に海外視察に出してくれることになっていました。

山田宏先生は、アフリカ行きを希望しました。

ところが許可が降りません。

「どうしてですか?」と尋ねた時、松下幸之助さんから返事がきました。

それは、

「君は日本の研究が先や」

というものでした。



松下幸之助さんは言いました。

「仕事でも政治家でも、

成功する奴は、IQの高いやつやあれへん。

運と愛嬌のある奴や」



人間の能力なんていうのは、たかがしれたものです。

自分だけの才覚でできこともしれています。

ということは、多くの人が助けてくれる。

そういう自分にならなければ、大成はできない。

だからこそ、「人間、愛嬌が大事や」と言うのです。



では、運は、積むことができるのでしょうか。

これについても、松下幸之助さんは言いました。

「それはな、徳を積むことや。

毎日な、感謝して、ありがとうと言うのや。

むずかしいこととちゃうやろ。

毎朝、素直な自分でいようと誓うんや。

そして気持よく挨拶することを心がける。

夜になったらな、それで一日どうだったか反省するんや。

これをな、20年続けたら初段になれる。

ワシはやっと初段や」



そんな松下幸之助さんは、ものすごく怒る人でもありました。

「君のせいで曲がっとるやないか!、直してこい!」

それはすごい剣幕でした。

全身全霊で怒りました。



このことでひとつエピソードがあります。

松下電機で、電動シェーバーを発売したときのことです。

その電動シェーバーに不良品が出ました。

松下幸之助さんのところに呼び出された事業部長は、そのとき震えていたそうです。

幸之助さんは言いました。



「あんたな、責任重いで。

会社辞めてもらう。いいな。」

「はい」

「以上だ」



社長のひとことです。重い言葉です。

悄然となって部屋を出ていこうとした事業部長を、幸之助さんが呼び止めました。



「ちょっと待て。

会社辞めたら、明日から生活困るやろ。

どうやって生活していくんや」

「わかりません」

「そか。君なあ、汁粉屋やれ。」

「は?」

「仮になあ、汁粉屋やるとしたら、君、何する?

作り方覚えなならんわな。

材料も吟味せなならん。

他の店がいくらで売っているかも調べなならんわな。

汁粉ができて店開いたら、客の評判も聞かなならんわな。

その汁粉をな、君なあ、いくらで売るんや。

わかるか?

君なあ、300円の汁粉でも、そこまでやるんやで。

4800円のシェーバーで、君、何をした?

今日はな、かんべんしたるわ。」



事業部長は、ここから一年奮起して、いまや松下のシェーバーは、大きな部門にまで成長しました。

300円の汁粉でも、そこまでするのです。

役所もサービスを提供するところです。

準備に万全を尽くしているか。

何が起きても大丈夫なようにしているか。











東日本大震災のとき、ある政治家が「これは想定外の事故だった」と発言しました。

違うでしょ。

あらゆることを想定して、事前に対処するのが役所でしょ。



そんな役所で、何かをしようとすれば、必ず反対する人がいます。

そんな反対に対して、「いかに説得するかが大事だ」という人がいます。

それは無理なことです。

説得などできることではありません。

すべての行政サービスには、利害がついてまわっているのです。

ちょっとやそっとで説得などできるはずもありません。



そうではなく、大切なことは「正しさ」です。

何が正しいのか。

そこをひたすら追求することだと思っていると、山田先生は言います。

政治は利害で行ってはならないのです。











杉並区長時代、レジ袋の廃止を呼びかけたことがあります。

レジ袋1枚につき、5円の税金をかけたのです。

実現までに2年かかりました。

杉並区だけが、袋に5円かかるのです。

そしたらお客さんは、みんな隣の中野区に買い物に行ってしまう。



レジ袋は不燃ごみの回収にも多くが混じります。

不燃ごみは、圧縮して埋め立てに使いますが、地中で毒物を出し、これによる健康被害やアレルギーのもとになります。

だから、できるだけレジ袋を使わないようにと、説得のために杉並区長として、区内700箇所のお店を回りました。

議会は猛反対です。

商店会連合会も猛反対でした。



そこで商店会連合会から80名の代表の方に来ていただいて会合を拓きました。

その席で、山田区長(当時)は、言いました。

「みなさん。私のひとつの質問に答えていただければ、私はレジ袋課税を撤回しても良いと思っています。

では、質問です。

レジ袋をこのまま使い続けることが、

商人の道として正しいと

はっきり言える方、手を上げてください」



誰も手を上げることができませんでした。

しばしの沈黙の後、ある経営者が発言しました。

「区長の考えに賛成します」



結局、レジ袋課税は、3年間準備期間とし、レジ袋が6割削減できたところで、条例を廃止するということで条例は可決しました。

おそらく、利害では商店街のみなさんを説得できなかったと思います。

















政治は、国民の道を拓くものです。

いままにない可能性に挑戦していくのが政治です。

政治は、議席を保持することではありません。



山田宏先生は、杉並区長となったとき、杉並区の歳費を一律15%削減するという案を出しました。

猛反対が起きました。

山田先生は、1期で落選することを覚悟しました。

それどころか4年の任期をまっとうできるかさえもおぼつかない。



けれど、そう思った時、良い意味でのひらきなおりが生まれました。

そして捨て身で区長の仕事に取り組んだ結果、原案どおりの15%の予算削減を達成し、さらに杉並区の財政を黒字に転換させることができました。



「正義のために身を捨てる覚悟で望んだ時、そこに必ず道が開かれる。」



これが山田宏先生の覚悟です。

この言葉は、私たちにとっても、意味のある言葉ではないかと思います。

















ねずさんのひとりごとより

画像は追加しています。





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