ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

小野田寛郎


小野田寛郎



小野田寛郎(おのだひろお)さんは、30年間、大東亜戦争を戦い続けました。
小野田さんは、大正11(1922)年、和歌山県海南市で生まれました。
兄弟みな軍人という家柄です。
中学時代の小野田さんは、県下有数の剣道選手だったそうです。
卒業して、貿易会社に就職する。
そして支那に渡って、中国語を習得しています。

軍人としての招集は、大東亜戦争開戦後の昭和17(1942)年のことでした。
上海で現地招集されました。
配属は、和歌山歩兵第61連隊でした。

入隊後、小野田さんは猛勉強して、陸軍甲種幹部候補生を受験しました。
そして見事、陸軍予備士官学校に入学しました。
卒業後、推薦を受けて陸軍中野学校に入学しました。
中国語や英語に堪能だったためでした。



陸軍中野学校といえば、陸軍のスパイ養成学校として知られています。
そのように聞くと、なにやら特殊な殺人訓練やおそろしい諜報活動をする怖いところというイメージを戦後生まれの私達は持たされています。それは戦後の洗脳(妄想)です。

陸軍中野学校は、実は、そこが軍とは思えないほどリベラルな学校でした。
そもそも学生たちは軍服を着ません。平服です。
髪も、軍人らしい坊主ではなく、長髪でした。
ですから、立派な軍人にしようと息子を中野学校に入ったら、その息子が「平服で髪も長い。たるんでるんじゃないか」と親が怒ったという話も残っています。

学生たちのカリキュラムは、午前中は諜報関連の講義、午後は自習でした。
八紘一宇大東亜共栄圏といった理念に関する教育は一切なく、日米の戦力比較や、陛下の地位等に関しても、驚くほど自由な議論が交わされたそうです。
同校の出身者の弁を借りれば、「戦時中、最も自由な校風であった」そうです。

その中野学校が、学生たちに徹底して叩きこんだことはただ一つでした。
それは、
「相手のために誠意を尽くすこと」
です。

相手というのは、潜入した相手国の人々です。
中野学校の生徒は、名誉も求めず、地位も求めない。
もちろん諜報のプロとして、潜入した相手国の状況をつぶさに観察し、報告しますが、そのためにも、相手国の人々に誠意の限りを尽くす。
中野学校が、厳しく教えたのは、諜報や防諜任務について、自国の勝利のためには何をやっても良いなどという考え方と行動そのものの全否定でした。



見習士官(陸軍曹長)当時の小野田氏(右)弟の滋郎氏(陸軍少尉)
昭和19年(1944年)12月頃撮影(22歳)


諜報活動は、あくまで相手国のために、相手国の実情を正確に把握するための手段でしかない。
それ以上に、中野学校の出身者は、「相手国の人々のために」全身全霊を込めて誠意を尽くせと教えられたそうです。
このあたり、自国を勝利に導くためなら、何をやってもよいと教えるどこかの国の工作員養成機関などと、まるで違うところといえます。

それだけに、アジア諸国に派遣された中野学校の出身者たちは、当時、本気でアジア諸国の独立を願ったため、あくまで「勝利」にこだわる軍首脳と、真正面から対立することもしばしばで、そうした記録は、戦前戦時中に枚挙にいとまがないほどです。



小野田さんが卒業したのは、東京中野にある中野学校本校ではなく、二俣分校の方でした。
いまは静岡県浜松市保健所天竜支所となっています。
二俣分校も教えるところはまったく同じです。

ただ、本校との違いは、諜報論だけでなく、やや特殊なゲリラ戦やジャングルでのサバイバル法などの訓練が施された点でした。
このことが後年、小野田さんのサイバル生活生存のファクターになっています。

小野田さんのサバイバル生活を振り返ってたいせつなことは、彼は部下とともにジャングルに30年潜み、その間、数百回に及ぶ戦闘を行っているけれど、食料調達のために現地の村を襲ったり、女子供に怪我を負わせるようなことが「一切なかった」ことです。

小野田さんは、最初三人の仲間とともに、ジャングルに潜みました。
フィリピン警察や米軍との撃ち合いになったこともありました。
この銃撃によって、小野田さんの部下はお亡くなりになっています。
それだけ激しい銃撃戦があっても、小野田さんは武器を持たない地元民や婦女子に一度も怪我をさせていないのです。
このことは、小野田さんたち一行を語るときに、絶対に外せない一点です。



中野学校を卒業して、フィリピン戦線に情報将校として赴任した小野田さんは、昭和19(1944)年12月、遊撃戦指揮の任を与えられ、ルバング島に向かいました。
ルバング島というのは、フィリピンの首都マニラの湾の出入口にある島です。
島からは、マニラ湾が一望でき、湾内の軍事艦船や、航空機配備の状況が一目で分かります。

赴任に際して小野田さんは、上官である横山静雄中将から、「玉砕は一切まかりならん」と厳命されたそうです。
このときの横山中将の言葉です。

「3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。
 それまで兵隊がひとりでも残っている間は
 ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。
 重ねて言うが
 玉砕は絶対に許さん。
 わかったな。」

そして言葉どおりに小野田さんが忠実に使命をまっとうしたのは、みなさまご存知のとおりです。
さらに、出発に先立って、小野田さんが参謀部受けた説明です。

「盟邦ドイツの降伏は時間の問題である。
 戦況はわが軍にますます不利な情勢にある。
 すでにサイパンが陥落し、
 海軍はレイテ沖海戦で壊滅的打撃を被った。
 米軍は今後まず沖縄に上陸を敢行するであろう。
 その後は、九州、大隅半島に上陸し、浜松を拠点化。
 九十九里浜上陸を目指すであろう。
 従って本土決戦は必至である。
 最悪の場合、米軍による日本本土占領もありうる。
 その場合、日本政府は満州に転進し、
 関東軍を中心に徹底抗戦を図る。
 大陸には陸軍80万人の兵力が温存されている。
 反撃攻勢の時期は3年ないし5年後と推定される。
 それまで、敵情をよく視察し、我が軍の再来に備えよ。」

何日か前にも書きましたが、軍人というのは、どこまでも必勝を期するものです。
それが軍人の役割です。
しかし参謀の5年は10年になり、ついに30年になりました。
その間小野田さんは、日本には米軍の傀儡政権があり、旧日本は、満洲の地で捲土重来を期して戦い続けていると、ずっと信じ続けていたそうです。

ルバング島に着任した小野田さんは、守備隊に、島のジャングルに籠っての長期持久作戦を提唱しました。
小野田さんにしてみれば、長期持久が任務ですから、当然です。
そのために地元民と懇意にする方向を選択すべきと建言したわけです。

しかし守備隊は、島を守る、すなわち敵の上陸を許さないことが任務です。
だから水際で米軍を食い止める作戦を選択しました。
結果は、不幸な結果となりました。
圧倒的火力にものをいわせた米軍は、隙間ない砲弾の嵐で日本側守備隊が築いた水際防衛ラインをあっという間に粉砕してしまったのです。

やむなく守備隊はジャングルに逃げ込みました。
けれど、もともとの作戦が、水際作戦です。
ジャングルでのゲリラ戦を想定していない。
守備隊は、激しい抵抗戦を挑むけれど、全員玉砕してしまわれました。

その激しい戦闘を、小野田さんと、その直属の部下3名は、しぶとく生き残りました。
任務は、マニラ湾に展開する敵情の視察と監視です。
日本軍がふたたびもどってきたときのため、「残地諜者」としてジャングルに潜んだのです。



昭和20年8月15日、日本は終戦を迎えました。
現地の日本軍は玉砕しています。
もはや任務解除の命令を届ける者は誰もいません。

小野田さんたち4名に補給はありません。
ですから島内の野生の牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生する椰子の実を拾って食料にし、生き延びました。
野生の牛は良質な動物性タンパク質を、椰子の実は、彼らにこれまた良質なビタミンとミネラルを効率良く供給されたそうです。

小野田さんたち一行の携帯した武器は、九九式短小銃、三八式歩兵銃と、軍刀です。
弾薬は、島内から拾い集め、火薬には島内に遺棄された戦闘機用の機関銃弾の実包の火薬を、銃の薬きょうに移し替えて使用したそうです。

彼らは、たった4人で、幾度も米軍基地に挑みました。
日本軍が還ってくるのに、もっとも障害になる米軍のレーダー基地を粉砕もしくは機能不全にしておく必要があったからです。

彼らは戦い続けたのです。
レーダー基地を破壊し、放火し、米軍に対するかく乱攻撃をし続け、ついには米軍レーダー基地の司令官をも狙撃して重傷を負わせています。

終戦から5年経った昭和25(1950)年、部下の赤津勇一一等兵が、戦闘中にはぐれて行方不明になってしまいます。
小野田さんたちは、必死に赤津一等兵を探すけれど、負傷し、衰弱していた赤津一等兵は、もはや声を上げることすらできなかったのだそうです。

6月になって、赤津一等兵は、ジャングルの中で倒れて意識不明になっているところを、米軍に発見され、逮捕され、投降しました。
彼の投降によって、小野田さんを含む3名が、まだ現地残留日本兵としてジャングルに潜んでいることが確認されました。

しかし、当時の日本は、いまだ占領下にあります。
捜索隊を編纂できるだけの体力もありません。
そしてこれに時を合わせたかのように、同月、朝鮮戦争がぼっ発したのです。

米軍は、山狩りの捜索隊を組みました。
朝鮮戦争の勃発のために、マニラ湾にいる米軍の艦艇や、空軍基地の動きも、にわかに慌ただしくなりました。
この様子に、小野田さんたちは、これを事前に受けていた説明、すなわち「3年ないし5年後の反撃攻勢」があったものと思ったそうです。

そんなある日、海岸に機帆船の残骸が漂着しました。
そこには、日本船籍を示す「○○丸」の文字が書かれていました。
小野田さんたちは、その文字と、米軍の動きから、日本軍が還ってきたと確信します。
そして、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意を新たにされたそうです。

小野田さんたちは、米軍レーダー基地に対する執拗な攻撃を繰り返しながら、同時に敵情の視察を日々、正確にし続けます。
しかし日本軍はなかなかやってきません。



 

そうこうするうちに、昭和29(1954)年5月7日、地元警察隊との撃ち合いが起きます。
このとき、戦友の島田庄一伍長が亡くなりました。
眉間を撃ち抜かれて即死してしまったのです。

あとに残された小野田寛郎少尉と、小塚金七上等兵の二人は、それでもなお密林の奥に潜み、来たるべき日を待ち続けます。
ある日、彼ら二人は、偶然、壊れたトランジスタラジオを手に入れました。
機械に強い小野田さんは、このラジオをなおし、改造して、短波受信機につくりかえました。
そして米軍倉庫から奪い取った金属製ワイヤーで、これにアンテナを付けました。

ラジオからは、懐かしい日本語の放送が聞こえてきました。
ひさしぶりに聞く、祖国の声です。
涙が出たそうです。

二人は、毎日、短波放送に聞き入りました。
ある日、短波放送から日本の競馬中継が聞こえてきたそうです。
小野田さんと小塚さんは、競馬中継を聞きながら、二人だけで賭けをして愉しみました。
なにもないジャングルでの生活の中で、これがお二人にとっての唯一の娯楽になりました。

入手したラジオからは、毎日のニュースが聞こえてきました。
東京オリンピックの実況中継も聞こえてきました。
ときどきやってくる日本の残留兵捜索隊が残していく日本の新聞や雑誌からは、大阪万博や皇太子成婚の様子を伝えるグラビアページなどの情報ももたらされました。

それらの情報の断片から、小野田さんたちは、日本が繁栄していると確信します。
そしてこれだけ日本が繁栄しているのだから、日本は戦争に勝ったに違いないと、判断したそうです。

しかし、そんなお二人に、運命は悲しい別れをもたらします。
昭和47(1972)年、地元警察隊との銃撃戦となったとき、小塚金七上等兵が戦死してしまうのです。

このときの小野田さんの手記があります。

「敵は激しく撃ってきた。
 応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。
 いままで何度もあったことだ。
 だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
 「肩だ!」
 小塚が叫んだ。
 振り向くと右肩から血が流れていた。
 「銃はオレが持って行く。先に走れ!」
 「胸だ!ダメだ」
 私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。
 小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
 敵の銃声が途絶えた。
 いまだ!私は二丁の銃を持って後ずさった。
 退いたものと思っていた小塚がいた。
 「小塚! 小塚!」
 私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。
 反応がない。
 顔をみた。
 見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
 私は両手に二丁の銃を持って、一気に灌木の斜面を駆け下りた。
 激しい銃声が後を追った。
 私は最後の戦友を失った。
 小塚、51歳であった。」



この元日本兵射殺事件は、地元で大々的に報道されました。
その報は日本にももたらされました。
厚生省援護局は、職員を現地に派遣し、大規模な捜索隊を編成しました。
この捜索隊には、小野田さんのお兄さんも同行しました。
戦友たちも同行してくれました。

遺体は、間違いなく小塚金七一等兵であると確認されました。
残る日本兵は小野田元少尉一名であることも、確認されました。

捜索隊は、山狩りをしました。
この様子を、小野田さんは見ていました。
密林の中で、兄の姿も確認しました。

しかし、これはアメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動であるかもしれないのです。
小野田さんはジャングルに隠れました。
こうして当時のお金で1億円もの巨費を投じた大捜索隊は、失敗に終わりました。

ここで登場するのが、元ヒッピーで冒険家の鈴木紀夫(すずきのりお)さんです。
彼は、昭和49(1974)年、単身でルバング島に向かいました。
このとき鈴木さん、25歳です。
「パンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢」だという方です。

鈴木さんは思います。
「鐘や太鼓をたたいた大騒ぎで捜索するから小野田さんは、まずまず懐疑的になっているのだ。オレだったら、小野田さんの占領地に一人で入って行って、野営する。そうすれば、縄張りを荒らすやつは誰だ、と小野田さんの方から姿を現すのではないか」

彼の読みはピタリと当たりました。
鈴木さんが野営しているテントに、銃を持った小野田さんが現われたのです。
ほんとうは小野田さんは、身長は160cmと小柄なのですが、鈴木さんはこのとき「大男が現れた」と震えあがったそうです。
恐怖に怯えた鈴木さんの目には、小柄な小野田さんが、大巨人のように見えたのです。

一方、ジャングルに精通している小野田さんは冷静です。
鈴木さんの様子を、頭のてっぺんからつま先までよく検分しました。

後に小野田さんは語っています。
「もし、奴(鈴木さん)があの時、靴下にサンダルという妙な格好していなかったら、撃ち殺していただろう。なぜなら、フィリピンでは、靴下をはく階級はサンダルを履かない。必ず靴を履く。」

小塚さんを失って二年が経っていました。
人恋しさもあったかもしれません。
小野田さんは、その奇妙な格好をした青年に声をかけ、夜を徹して語り合いました。
気がつくと朝になっていたそうです。
鈴木さんは、
「小野田さんを見つけたという証拠に一緒に写真を撮りたい」とカメラを持ち出しました。

ところが機械に弱い鈴木さんは、セルフタイマーの扱いがわからない。
戦前、カメラが趣味だった小野田さんが、
「だらしがないぞ、貸してみろ」と、
カメラのセルフタイマーを作動させて写真を撮ったそうです。
それが下の写真です。

自分のカメラの使い方がわからず、ちょっと照れ笑いした鈴木青年と、30年の月日を超えて、堂々とした帝国軍人の小野田さんが一緒に写っています。



鈴木紀夫青年の説得に応じた小野田さんは、昭和49(1974)年3月9日、村におりました。
そこで、かつての上官である谷口義美元少佐から任務解除および帰国命令を受けました。
こうして小野田さんの戦争は終わりました。



このとき小野田さんは、命令受領に先立ち、先に、谷口元少佐に直立不動の姿勢で、在フィリピン米軍基地の最新レーダー基地に関する詳細な状況報告を行っています。
その内容は、極めて正確かつ詳細なものでした。
そして、小野田さんは、谷口元少佐らとともに、フィリピン軍の軍事基地に向かいました。

そこで小野田さんは、フィリピン軍基地司令官に軍刀を渡しました。
軍刀を渡すというのは、軍人にとって、降伏の意思表示です。
小野田さんは、処刑されることを覚悟したそうです。

フィリピン軍司令官は、一旦受け取った軍刀を、そのままそっと小野田さんに返しました。
そして、こう言いました。
「この軍刀は受取れません。
 なぜならあなたは軍隊における忠誠の見本だからです。」

数日後、小野田さんの投降式が行われました。
この投稿式にはフィリピン大統領であるマルコス氏も出席しています。
大統領は挨拶のなかで、小野田さんに
「あなたは立派な軍人です」と、最大級の賛辞を贈りました。

実はこのマルコス大統領の挨拶は、たいへん大きな意味を持ちます。
というのは、小野田さんたちは、30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、在フィリピン米軍の兵士30人以上を倒しています。
大東亜戦争を戦い続けた小野田さんたちにとっては、これはもちろん「戦争行為」です。
しかし戦後に生まれたフィリピン政府からみれば、平時における殺人です。

マルコス大統領はこの問題について、超法規的措置をもって、小野田さんを讃(たた)え、小野田さんを一切の罪に問わないという意思決定を行っています。
これこそ、男の貫禄であり、国家の貫禄というものだと思います。



この席上、州知事夫人が改まった顔で、突然、次のように切り出しました。
「ミスター・オノダ。島の女性と子供たちからメッセージがあります」
場が一瞬、氷つきました。
(罪に問うのか?!)

州知事夫人は続けました。
「島の男たちは三十年間、大変怖い思いをしました。
 不幸な事件も起きました。
 しかし、オノダは決して女性と子供には危害を加えませんでした。
 彼女たちが子供たちと共に安心して暮らすことができたのは
 大変幸せなことでした。」

このことについて、後年、小野田さんは、次のように述懐しています。
「私は別にジュネーブ国際条約に定められた事項を守り通そうという意識があったわけではない。人として当たり前のことをしたまでです。」

そうなのです。
ハーグ陸戦条約は、非戦闘員に対する殺戮行為を禁じています。
もちろん小野田さんたちは、この条約のことは知悉しています。
そうではなく、それでもなお、「条約があるから婦女子を殺害しなかったのではない」と小野田さんは明言されているのです。
それは、「人としてあたりまえのことなのだ」と言っているのです。
これが帝国軍人です。
これが日本の男です。

武器を持って襲ってくる相手に対しては、たとえどんなに敵が強大で圧倒的な火力、圧倒的な戦力、圧倒的な兵力を持っていたとしても、敢然と立ち向かう。
しかし、武器を持たない者、抵抗しない者、婦女子等に対しては、たとえそのために自分が死ぬことになっても、一切攻撃をしない。

以前、拉孟(ラモウ)の戦いのことをご紹介しました。

このときの戦いで、両眼を失った戸山伍長は、妻の昭子とともに、苦しい戦いを闘っていました。
昭子さんが、全盲の戸山伍長の眼になって、手榴弾投擲の方向と距離を目測し、伝えていたのです。
そこに敵の第三波が来た。
甲高い喚声を聞いた戸山伍長は「少年兵?」と昭子に聞きました。
榴弾の信管を抜こうとした手を停めました。
「十五、六の少年兵ばかり!」と昭子さんが叫びました。
敵兵とはいえ、年端もいかぬ子供を攻撃する?
戸山伍長は一瞬躊躇しました。
そのとき、敵の少年兵が投げた手榴弾が夫婦の足元に転がってきました。
次の瞬間、手榴弾は轟音とともに炸裂し、戸山伍長、昭子夫妻はともに壮烈な戦死を遂げました。

若き日の私達の父祖は、そういう戦いをしたのです。
いかなる状況下にあっても、非道な真似はしない。
なぜならそれが日本の武士道だからです。

昔は、これが普通だったのです。
これが普通の日本人だったし、ご近所にいる青年やおじさんたちの姿でした。
とっても厳しい。
けれど、一本筋がピンと通っている。
それが日本の男でした。国家の品格でした。

戦後の日本人は、経済的には大きな繁栄を手に入れたけれど、品格を失いました。
しかし取り戻すことはできます。
いや、取り戻さなければならないのです。



ねずさんより
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この男は何処を見ている?







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凜として愛








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