ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

サリバン先生


サリバン先生


あまりにも有名だが、初めて教えた言葉は
「doll」であると言われている



「サリバン先生」アン・サリバンが、3重苦を持ったヘレン・ケラーの家庭教師である事は皆様ご存知だと思います。しかし、アン・サリバン自身が苦境の人生を克服し、ヘレン・ケラーと出会い、世界中の人々を励ます人物を生み出した方である事は、あまり知られていません。今日は、サリバン先生の生涯を紹介させて頂きます。


アンは1866年4月14日 マサチューセッツ州フィーディング・ヒルで、アイルランド移民の両親の元に生まれました。3歳の時、目の病気トラコーマになり弱視となりました。家族とともに九歳まで生まれ故郷でで暮らしましたが、アンの父トーマスは、農民で自分の土地を持っていない農業労働者だった為、仕事もあまりなく、家族を養うことを放棄していました。アンが9歳の時に母が亡くなり、、父トーマスは娘アンと弟ジミーを、チュークスバリーのマサチューセッツ州立救貧院[孤児院]に預けて姿を消します。こうして、サリバンの家族は離散してしまいます。



救貧院に入った時、弟はすでに結核により身体が不自由になっていました。救貧院に入って2年後の春、弟ジミーが亡くなりました。父トーマスは、弟が亡くなった後、救貧院を一度だけたずましたが、その後の父トーマスの行方は分かっていません。アンも父を探すことをしなかったようです。


母と弟の死、そして父の失踪と、幼いアンに耐え難い悲しみが次々と襲いました。またアンの目の病気も救貧院に入った後に悪化し、盲目となっていました。弟の死後、アンは生きる力を失い、うつ病になり、食事を全くとらずに、暗闇の中にとどまるようになりました。外界との接触を避け、死を待つような生活を続けていましたが、救貧院の一人の看護婦が毎日、アンを訪ねていたのです。看護婦はアンに聖書の話を聞かせました。最初は全く心を閉ざしていたアンでしたが、看護婦の献身的な愛を受け、次第に心が開かれていくようになり、アンにも信仰が与えられたのです。



アンが十四歳の時でした。州慈善委員会が救貧院を視察したとき、アンは「勉強をしたい!」と、視察団にお願いをしました。その願いが聞かれ、 パーキンス盲学校へ進学する道が開かれました。パーキンス盲学校は、歴史もあり、近代的な設備を持つ盲学校で、当時最も優れていたといってもよい学校でした。しかし、出自に負い目のあるアンは、家庭や救貧院での暗い過去を、周囲の人に隠し通しました。アンは、生涯、自分の子供時代、少女時代のことについて、多くを語ってはいないのです。


入学後、アンは、不自由だった目を手術してもらって、なんとか文字が読めるほどに視力が回復しました。政治記事を読んだり、裁判を傍聴したりと、アンの生活はどんどんと広がっていったのです。また、在学中に視覚、聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと出会い、友達になりました。ローラとの親交と自身の盲目の経験が、後のヘレン・ケラーの教育に生かされたと言われています。アンとローラは指文字で交流していました。入学当時のアンは、その生い立ちにある心の傷から、人を信頼し、心を開く事が難しかったのですが、ローラとの親交や、アンを受け入れ愛を注いでくれた先生達の愛を通して、積極的な態度で勉強に打ち込み、体面を取り繕うのではなく、誠実な付き合いを望むように変えられていきました。



入学から6年後の1886年、アンは卒業生総代としてスピーチを行いました。また、卒業と同時に、聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グレアム・ベル(電話の発明者として知られる)の仲介でアンの卒業した盲学校のアナグノス校長が、総代で卒業したアンに、アラバマ州タスカンビアに住んでいたケラー家で「ガバネス」として住み込みで働かないかと誘います。ガバネスとは、家事を担ったり、子供の教育をしたりする 家政婦のことで、教員資格がないばかりか高校も卒業していないアンでしたが、家政婦であれば彼女でもできる仕事だと考えたのでしょう。しかし、ケラー家は、大農園を持ち、黒人の使用人も抱えていましたから、家政婦がほしかったわけではなく、必要だったのは、ヘレンの教育係りでした。


アンはこの話を受けました。3月3日、アンがアラバマ州タスカンビアのケラー家に着任した時、彼女は22歳でした。アンは、それまで主に、孤児院と救貧院で過ごしていたために、就職した経験はなく、教師になるための資格も持ってはいませんでした。しかしアンは着任当初から「この仕事に心をこめて献身しよう」と、彼女は自分が心を開いた経験から、信仰と愛をもってヘレンを育てようと心に決めていたのです。



アンがヘレンに会ってから十七日後、知人に宛てた手紙で「ヘレンに奇跡が起こりました。小さな生徒の心に、知性の光が差し込みました」と書きましたが、これは、「怪物」(ファントム)と呼ばれていた野生児ヘレン・ケラーが、アンにキスすることを許してくれた日でした。


こうして、信頼して心を開いて、従うようになったヘレン・ケラーは、アンと出会って約1ヶ月後に井戸の水の流れからインスピレーションを得て、ものには名前があることを理解します。その時の事をアンはこう綴っています。


「ある新しい明るい表情が顔に浮かびました。彼女は何度も「water」と綴りました。それから、地面にしゃがみこみその名前をたずね、ポンプやぶどう棚を指さし、そして突然ふり返って私の名前をたずねたのです。私は「Teacher」と綴りました。」


アンは自分のことを「アン」でもなく、「サリバン」でもなく、「先生」と答えました。後にヘレンは「私の誕生日は1880年6月27日ではなくて、私の生活の中にアン・サリバンが入ってきた1887年3月3日です。」
と語っているほどです。ヘレン・ケラーが先生と呼んだのは、生涯でアン・サリバン一人だけでした。


サリバン先生はこの後、約50年ヘレン・ケラーと共に歩みました。三重苦を克服し、ラドクリフ大学(ハーバード大学の女子学部)へ入学をし、その後、世界に名を残す人物となったヘレン・ケラーの生涯は、「サリバン先生」の愛、忍耐、希望によって導かれ、開かれていったと言っても過言ではありません。


最後にサリバン先生が残した言葉をご紹介します。


「失敗したら初めからやり直せばいいの。そのたびはあなたは強くなれるのだから」




「私の魂の誕生日」
ヘレン・ケラーとアニー・サリバン




3月3日はひな祭りですが、この日は障害児の教育に関する記念すべき日でもあります。盲ろうの少女ヘレン・ケラーのもとに、家庭教師のアニー・サリバンが初めて訪れたのです。1887年のこと。ヘレンは後にこの日を「私の魂の誕生日」と呼んでいます。
サリバンはこのときはまだ20歳。視覚に障害があったために通っていた、マサチューセッツ州ボストン郊外のパーキンス盲学校を首席で卒業した優秀な学生でしたが、教師経験はありませんでした。一方、アラバマ州タスカンビアで生まれたヘレンは6歳9か月。1歳7か月のときに視覚と聴覚を失い、周囲の人に意思を伝えるのには、身振りや仕草に頼るしかない子どもでした。

ヘレンが、手のひらを流れる物質としての“水”と、言葉としての“ウォーター”との関係を確実に把握し、この世の中のすべてのものに名前があることに気がつく、いわゆる「井戸端の奇跡」はこの出会いからわずか1か月後のことです。


この1か月という短期間で困難をきわめる盲ろうの少女の教育を可能にした陰に、あまり知られていないもうひとりの人物がいます。ヘレン・ケラーの半世紀前に“奇跡の人”と呼ばれていた、「ローラ・ブリッジマン」という女性です。ローラは2歳の時に視覚と聴覚を失いました。そして、ヘレンと同じように教育を受けずに成長し、7歳10か月のときにパーキンス盲学校に入学します。ローラはそこで、盲学校の創設者のサミュエル・ハウという医師から最初は点字、後にはアルファベットを表す指文字を習い、言葉を身につけることに成功していたのです。



サリバンがパーキンス盲学校で教育を受けていた同じ時期に、たまたまローラは盲学校で暮らしていました。年齢は50代の後半で、盲学校の生徒に裁縫などを教えていました。サリバンはヘレンの家庭教師の話が舞い込む以前から、ローラと交流があり、指文字で会話を行っていました。サリバンは生きた技能として指文字を使っていたのです。と同時に、幼児期に視覚と聴覚を失った人間でも、指文字の習得によって、書物を読みこなすほどの知性を身につけることができるという事実も目の当たりにしていました。


サリバンがローラに出会っていなかったら、果たして視覚も聴覚も失っていたヘレンに対して何の偏見ももたずに接することができたでしょうか。さらに教育によって確実に成果を上げることができるという確信をもてたでしょうか。その意味で、ローラ・ブリッジマンは、「井戸端の奇跡」の陰の立役者と言えると思います。
サリバンはヘレンと初めて出会った3月3日、お土産の人形を手にするヘレンの手をいきなり取って、自分の手を握らせ“DOLL”と指文字を綴ります。すると、ヘレンは手遊びだと勘違いして、そのまま指の形を真似て“DOLL”と応じます。ふたりの49年間におよぶ魂の交流はその瞬間に始まりました。そして、このふたりの出会いによって、人類は障害のある子どもに教育を施すことの重要性を末永く記憶にとどめることになるのです。


アン・サリバンは70歳で生涯を終えるまで、ヘレン・ケラーと離れる事は無かった。サリバン存命中に、大阪盲人協会長の岩橋武夫氏に来日要請を受けるも、固辞し、サリバンが亡くなった後、3度来日している。

アン・サリバン資料
「私の魂の誕生日」記事より
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アン・サリバンwikiリンク


ヘレン・ケラーwikiリンク


岩橋武夫wikiリンク



人生は出会いによって
大きく流れが変わると思います。
足を踏み外した俺にも
まだチャンスはあるのか?