ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

とにかく嫌いニダ!

中庸の難しさ


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本日は節分ということで、巷では恵方巻きの南南東のと大変に喧しかった日でした。

この恵方巻きとやらは関西発祥ということで色々物議を醸しているようです。私は生まれも育ちも大阪ですが、節分に恵方巻きを食べるという風習は、少なくとも私が小学生の間(昭和50年台半ばぐらいまで)は聞いたことがありませんでした。中学生ぐらいの頃に初めて聞いたような記憶があります。最近では、円筒状のものなら何でも良いとかで、ロールケーキやパンで恵方巻きのような食べ方をすることもあるんだそうです。

在日が仕掛けたと言う人もいるようですが、そもそもは芸者のお座敷芸と言うか、余興みたいなものだったという説もあります。個人的にはあまり関心がありませんし、実際に恵方巻き(のようなものも含む)の丸かぶりなどということをしたことはありません。

だって食べづらいじゃん・・・。

さて、節分と言えば豆まきですが、元は追儺という宮中の儀式だったのだとか。民間では「鬼は外、福は内」と呼ばわりながら家中に豆を撒きます。

この「鬼」と「福」のように、物事はしばしば二極化して分類されます。善と悪、大と小、正と負、右と左、白と黒等、何事であれ二極化して分類すればわかりやすいからでしょう。



韓国に対する理解や感情等も、しばしば親韓と嫌韓に二極化されます。私は常々公言している通り、嫌韓です。しかし嫌韓と言っても、皆が皆同じ意識というわけではありません。

最近目に付くのは、理由も理屈もすっ飛ばして、ただ嫌悪するためだけの嫌韓です。何故韓国を嫌いなのかと問えば、どこかで聞いたようなことを答えるようですが、実感も理解も備わっていません。

弊ブログなどでも、韓国を糞味噌に言ってる時は大変喜んでくれているようですが、ちょっとでも韓国に理解を示したり、韓国を擁護するようなことを言えば、たちまちご機嫌斜めになるようです。

かつて、初めて韓国人の反日に接した時、私が思ったのは「これは何か明白な理由や原因があっての反日ではなく、「何かよくわからないけど、何となく日本が気に入らないから」という理由での反日ではないか」と思いました。

もちろん、韓国人の主観は違います。彼らは明白且つ正当な理由と原因があって日本を叱責しているのだと確信しています。小賢しい生徒(=日本)を怒鳴りつけたり、場合によっては体罰を与えるのが、教師たる韓国の役目であり権利であると彼らは考えているのです。それこそが日本人から見れば反日以外のなにものでもないのですが、韓国人にとっては至極正当な理由に基づく行為なのです。

そこで彼らが「正当」と考える反日の理由を問い質してみると、全員が同じようなことを言います。言い回しや比喩までだいたい同じです。どこかにそういうマニュアルでもあって、日本人に会ったらそう言えと教育されているのかと思うぐらい、彼らは揃って同じ表現や同じ例を掲げるのです。

それらをひとつひとつ丁寧に潰していくと、やがて彼らは丸裸になります。彼らが掲げる「正当な理由」の正当性が失われた状態で、彼らの抱く反日感情について問い詰めると、最終的に残ったのは「何だかよくわからないけど日本が気に入らない」というものでした。

今でこそ「日本絶対悪観」が韓国人の対日意識のスタンダードと知っていますが、まだ経験値が低かったこの頃は、そんなことは思いも寄りませんでした。ですから、ただただ不思議でした。加えてその時思ったのは、「日本人が韓国人の反日の根源を知ったら、日本人も韓国人の意識を反射した意識を抱くのではないか」ということでした。即ち、「何だかよくわからないけど韓国が気に入らない」という意識です。

日本における嫌韓気運の高まりと同時にこの懸念は、残念なことに当たっているように感じられます。

「何だかよくわからないけど韓国が気に入らない」と思うようになると、悪いことや醜いことは何でも韓国だと思うようになります。しかも困ったことに、悪いことや醜いことが韓国であることは実際珍しくありません。それが何度も重なれば、「ほら見ろやっぱり」となってしまうのも当然と言えば当然です。

しかしそれは危険だと私は思っています。悪いことや醜いことがあったとしても、その詳細を調べ、韓国関連ということがわかってから初めて「ほら見ろやっぱり」と言うのならば良いのですが、度重なる内に「その詳細を調べ、韓国関連ということがわかってから」という作業をすっ飛ばしてしまうようになるのです。確かにその方が楽だし、結果的には的中率もそんなに低くないかもしれません。

それでも、イメージや先入観だけで韓国を悪だとか醜いと決め付ける行為は、韓国人の「日本絶対悪観」に基づく反日を投影したものになるのではないかと私は危惧します。

韓国を嫌うことがいけないわけではありません。ですが、嫌いであれば尚更に正しく韓国を理解し、また評価しなければならないというのは以前にも述べたとおりです。何故なら、「嫌いだから韓国を否定的に考え、不当に低く評価している」と思われれば、その人の韓国に対する意見や分析は、説得力を失うからです。

加えて、その人自身が韓国を正しく理解し、評価するという努力を行なわなくなるでしょう。最初から決め付けるという楽なやり方を覚えてしまったら、結果がわかっている(と自分で思っている)ことを改めて調べようとは思わなくなって当然です。

前述したとおり、何事も二極化して分類することがしばしばあります。二極のいずれにも与しない、しかしどっちつかずでも良いとこ取りでもない、確固とした【中庸】を貫くことは極めて難しいからでしょう。

しかし【中庸】を心掛けることは大切です。韓国に対する好き嫌いの感情は抱いても構わない(と言うか仕方ない)と思いますが、理解する考察するという作業においては、個人の好悪の感情に引きずられず、能う限り【中庸】を保つべきだと、私はそうありたいと、常に自分を戒めているつもりです。

2016/02/03 22:34
月見櫓さんより