ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

東日本大震災の叫び


東日本大震災の叫び1


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その1 階段の窓からみた景色。
真っ黒で真っ黒で、何もありませんでした。


私は宮城県東松島市に住んでいます。震災当時は小学校6年生でした。
私の学校は割と海寄りでした。 

地震がきた時点で何が起こったのかわからず唖然とするしかない、泣いている子の手を握るしかありませんでした。 
もちろん津波なんて頭になくこの先のことなんか考えてもいません。 

その時、先生から「そこの4人、ちょっと下で誘導の手伝いをしてくれないかな」と頼まれました。 
私は泣いておらず、動ける気力があったので他の男の子3人と行きました。 
慌てて避難する人を誘導していると、消防士の人が叫びました。 

津波だ」と。

私は何が起こったかわからず、ただただ上に逃げるばかりでした。

そして、階段の窓からみた景色。
真っ黒で真っ黒で、何もありませんでした。 
もう、これは現実なのかと、なんなんだと。 
涙が自然と溢れて止まりませんでした。

それに私の学校は2階までしかなく、屋上と音楽室のみ3階になっていました。 
水はぎりぎりまできています。みんな上に逃げて人はもみくちゃ。 
私も待っていてくれた友達と手を繋いでひたすら音楽室に走りました。 

そしてとりあえず逃げ終わって一段落。
でも、いつ崩れるか、波があがってくるか、落ち着きませんでした。

私を含め、6年生はだいたいみんな狭い楽器倉庫に避難しました。  
私はずっとドアを抑えてました。 人が通るときは立たなくてはなりません。

ほんとは寝たいし、気を紛らわすために、みんなとふざけたかったです。 
でも、自分勝手な行動はみんなに迷惑をかけるので、黙っていました。

その間は、不安が募るばかり。状況をちゃんと飲み込めず、呆然としていました。

もちろん、家族や近くの保育所の弟が心配でなりませんでした。
(弟は、押し入れの1番上に先生たちが水の中につかりながら抑えてくれてたみたいです。)

そんな中、友達、そして幼なじみの彼氏の存在はおっきかったです。
彼氏は、私が友達といるときも常に近くにいてくれて、少しだけでも安心することができました。
  あの時いてくれなかったら、不安に潰されていたと思います。

こんなにも人がいることで安心したり、「ああ誰かいてよかった」なんて思ったのは初めてです。 
もちろん家族に会えたときは、はんぱじゃなかったです。

みんな、生きていてくれてありがとう。
それだけでもうよかったです。

それから別のところに避難し、色んな方からの支援。とても感謝してます。

人ってこんなにも助け合えるんだと思いました。 

逆に貪欲で悪いところも見て、人の本性をみた気がします。
たくさん気付けなかったことに気づけました。

卒業は別の学校でし、中学へ。 
1番嫌だったのは学校が統合したことです。
友達が増えて嬉しいけど、やっぱり自分の学校は自分の学校。他の学校にはない伝統があります。
できるなら、元の学校で卒業を迎えたかったです。

あとは、今住んでる地区は、震災前と変わらないんですが、ほとんど人がいなくなってしまいました。

今までわいわいしてたのに、子供の遊んでる姿やお年寄りが会話してる姿が見られなくて、常にしんとしていて、寂しい。
更に外灯があまり無くて暗いし、前とは違う雰囲気になって、夜は通るのが怖くなってしまいました。

震災がなかったら なんて考えることもたくさんあります。

もうこれは、一生忘れない、絶対忘れられない。
あの黒い景色は特に。

宮城県 15歳 女の子


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その2 失ってから、もっとこうしてあげればよかったとか、今でも毎日そう思っています。


僕にとってあの日は、ありきたりな言葉ではありますが、ホントに地獄でした。
家も失い、親も失い、なにもかも失った僕に残されたものは、自分の命と兄弟だけです。

人間は、失ってから気づくとよく言いますが、まさにその通りです。
ホントに大切だったからこそ、悲しかったし、悔しかったし、
後悔がとてつもなくおおきくなったんだと思います。

失ってから、もっとこうしてあげればよかったとか、今でも毎日そう思っています。


ここで一つ言わせてください。
今隣にいてくれる家族や友達、恋人にありがとうをいっぱい伝えてください。
どのありがとうが最後になってもいいように、あとで後悔しないように、たくさん感謝してください。

まわりにいてくれる人がいることはあたりまえじゃないことをもっと自覚してください。
それがすべてを無くした自分の体験を踏まえた上でみなさんに言えることです。

もう誰も僕のように
震災なんかで大切な人を失うことがありませんように。

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写真は震災後必死に探して見つけた、自分の父親の車です。

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その3 汚いものを私たちに押しつけないでください。


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私は宮城県に住んでいますが、山側の方に住んでいたため、
見た目や周りは、震災前とあまり変わらない日常を過ごしています。

変わったことと言えば原発事故が起きて、
県南の方よりはいくらかはましですが汚染され、
親からの食料制限や、遊んではいけない場所ができたことです。

テレビや新聞では、放射線なんか気にするほど怖くないよーってニュアンスで報道しているので、周りの友だちは全くそういうのは気にしてないようなのですが、私の親は放射線についての文献や資料を山のように読みあさり、私たちにどんなに怖いものなのかを、何度も教えました。

日本の線量を測る機械も、他の国の機械を使うといきなり値が変わると聞いて、ちゃんとした機械で秋田の山に囲まれた放射線量0の場所を見つけ、そこで長い休みの日は過ごしています。

こんなことがあって、私の住んでいる地域は山も森も川もあり、自然に囲まれた街ですごく住みやすい素晴らしいところだと初めて実感したのです。

そして、そんな素敵なところを汚した原発が憎いです。

憎んだって仕方がありませんし、偉い人たちは私たちを守るどころか騙しているので、自分の身は自分で守るしかないと、私は自分の身を守りつつ、いつもと見た目は変わらない日常を過ごしています。

そんな中、原発の廃棄物を宮城県に置くかもしれないという話を聞いたのです。

これ以上私の育ってきた場所が汚されると思うと涙が止まりません。

東北にはおかないでください。

原子力発電所がそんなに安全で危険性が低いものなら、東北におかないでください。

元々福島原発の電気は東京のものです。
汚いものを私たちに押しつけないでください。

これ以上私たちの場所を汚さないでください。

写真は 学校から見える、私の街の景色です。

宮城県 17歳 女の子


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その4 仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、私の中の震災は、やっとひとつの大きな区切りを打てると思います。


仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、
私の中の震災は、やっとひとつの大きな区切りを打てると思います。

生まれも育ちも宮城県石巻市です。私の家は、津波で跡形もなく流されました。
地盤沈下とその後の土地計画により、もうそこには住むことができないそうです。 
街には新しい家が続々と建ち始めていますが、家族は今でも仮設住宅に暮らしています。
仮設に入居できたのは、震災から半年が経った秋頃でした。

家を建てるには土地とお金が必要です。
我が家の例として、実家のあった土地を市が買い、そのお金で新しく家を建てるという流れになります。
新たに家を建てる土地は市の集団移転先によって決まります。家を建てるまで、遠く長い道のりです。
私は東京で一人暮らし。家族は地元で仮設暮らし。家族と離れ、上京する時はとても心が痛みました。
それでも、家族は温かく私を見送ってくれて、実家に帰った時は笑顔で迎えてくれます。


上京してもう少しで1年が経ちますが、
くだらない他愛もない話をして笑ってます。震災前と何ら変わりない日常です。
東京で生活しているとまるで震災なんてなかったかのように毎日が過ぎていきます。

ただ、時折震災の瞬間が鮮明にフラッシュバックします。
津波の夢を見た時は怖くて1日中動けませんでした。瓦礫とヘドロだらけの実家の夢も見ました。
せめて夢の中でだけでも震災前と変わらない風景であってほしかったのに。
また、あの時のような地震が起こったら、と考えてしまって苦しくなることもあります。

正直、この記事を書くことを悩みました。
というのも、“被災地”ということで“可哀想”と思われることが嫌だったからです。
そんな理由から自分の出身をちゃんと言えないこともありました。
今でも人に震災のことを話すのを躊躇ってしまうこともあります。

ですが、東京と地元を何度も行き来しているうちに、
両方の地で生活しているうちに強く思い始めたことがあります。

憂いたり、悲しむことも、大変なこともあるけれど、
それでもこの街には他の地で過ごす誰とも変わらない日常がちゃんと流れている。

悲しみが完全に癒えることはないかもしれないけれど、いつまでもずっと悲しんでいる訳じゃない。
“可哀想”だとはもうあんまり思ってほしくはありません。
むしろ、遊びに来てほしいと思ってます。新鮮な海の幸や美味しいものがたくさんあります。

店舗が大きな被害を受けてしまったけれど頑張って店を復活させた人や、
街を活気付けようと奮闘するボランティアの人がいます。音楽イベントやライブも盛んです。

私の実家も、震災前は飲食店をやっていました。
今は休業中ですが、ありがたいことに店の復活を待ち望んでいる人がいます。
新しく家が建ったら再開する予定です。

石巻へは、仙台から(車で)約1時間半という行くのには大変な距離ですが、
どうか遊びに来てもらいたいです。
大きく壊れて、そこから少しずつ変わっていく街の様子を見てもらいたいです。

先日、土地の移転先が決まったと家族から連絡がありました。
詳しい区画や買い取られる土地の金額、家が建つ時期はまだわかりません。
もしかすると、家が建つのは来年以降になるかもしれません。それでも、私にとっては大きな一歩でした。

父が「この仮設を出る時、家族写真を撮ろう」と言いました。
実家と呼ぶこの仮設も、いずれは出ることになります。そして取り壊されてなくなってしまうでしょう。
仮設を出て、家族写真を撮って、新しい家に引っ越した時、
私の中の震災はやっとひとつの大きな区切りを打てると思います。

東京都 19歳 女の子 


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その5 「おにぎりしか用意できませんが、少しでも幸せになれますように。」


3月11日。私はあの時、痛みよりも優しさをすごく感じた。 

私の家族は父の職場の指示があり、千葉にある祖父母の家にバスで向かうことになった。

宮城を出発して山形で一泊したときのこと。
深夜の到着にも関わらず、旅館の人が温かく迎えてくれた。

しかも、個々の部屋に入った瞬間、目に見えたものは、たくさんのおにぎり。 


女将さんの一言は今でも忘れられない。

「おにぎりしか用意できませんが、 少しでも幸せになれますように。ゆっくりしていってくださいね」。

なんて優しいんだろうと思った。
心が本当にほっとした。

私は本当に幸福者。それからもたくさんの優しさに出会えた。
あのとき、私たちを受け入れてくれた旅館の方々へ、ありがとう。

これからは私が優しさを配っていける人になる。
いつか東北が、東北人が優しさに包まれるように。

今、私には夢がある。

私は小さい頃から宇宙が大好きだった。
そんな大好きな宇宙をたくさんの人に伝えていきたい。
そう思い、まず、宇宙を学ぶことにした。

私が第一志望に選んだのは、山形大学
三年前、私たちを助けてくれた方々のいる、あの優しさ溢れる山形でぜひ学びたい。
そしていつかその方々に会ってお礼を言いたいと思っている。

優しさの連鎖があってこそ、復興は進んでいくと私は信じている。
まだまだ復興は遠いかもしれないけれど、幸せの輪が広がるように、精一杯に生きていきたい。

宮城県 17歳 女の子


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その6 いまの東北を見てください。


福島県に住む受験生です。
僕が住む郡山市では毎日除染作業が行われて「いません」。

正直あの2011年3月11日からまったくといっていいほど変わっていません。

ある政治家の人は言いました。「すぐに原発を廃止して東北を元通り以上にします。」
別の政治家の人は言いました。「危険性がない原発は稼働させます。」

僕たち子供の未来はどうなるんですか?
僕たちは今後どうなるんですか?

いまの東北を見てください。
「あの忌まわしき過去」ではなく「今起こっている問題」として。


福島県 15歳 男の子


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その7 亡くなった方々に怒られないように、恥ずかしくないように。


あの日、地震発生から2時間くらい経ってたと思います。
余震が続く中、雪が降ってきて。
3月の中旬にしては珍しいくらい重たい雪でした。

“なんでこんな時に…”
そう思ったのを覚えています。

ただ、その時はまだ津波の情報とか入ってなかったし、何が起こってるのか整理つかなかったからそんなことしか思わなかったけど、雪の降る寒くて真っ暗闇の海にがれきと一緒に流されてしまった方々が、どんな思いで亡くなっていったんだろうっていま思うと胸が痛いです。

その日の夜まだ19時とかの話です、不謹慎かもしれないけど、星がすごくきれいだったこと今でも覚えています。


街灯も何もなかったから。
あんなきれいな星初めて見ました。

震災が起こってから、今までなにも気づいてなかったことにありがたみを感じることが多くなりました。
やっと電気が通って炊いたごはんはものすごくおいしかったです。
それでも家族6人で分けた少ないごはんだから、おなかいっぱいにするために何十回も噛みました。
あったかいごはんがこんなにありがたいことなんだって、その時初めて気がつきました。

地震から10日くらい経ってから、ボランティアに登録して避難所の手伝いなどをしました。
そこで一番印象に残ってるのは、そこに避難してきたおばあちゃんが私にお菓子くれたことです。
おなかすいてるでしょって。

そのおばあちゃん、家を流されて避難してきた方で自分のことで精一杯なはずなのに、
私にこれ持っていきなって、おせんべい差し出してくれたんです。

「大切な食料じゃないですか、もらえないです」って断ったんですけど、
いいからいいからってポッケに入れてくれました。

なんか、すごくあったかい気持ちになりました。
あの時のおばあちゃん元気にしてるかな、会ってお礼が言いたいな。

でも、それっきり学校とか部活とかを言い訳に、被災地・被災者から自分自身遠ざかってしました。
きっとやる気になればいくらだって出来たはずなんですけどね。

そうやって中途半端にしてしまったことにどこか罪悪感のような、
自分に対する嫌悪感のような思いがあって、モヤモヤしてました。

だから、自己満足にすぎないのかもしれませんが、
大学に入って、2年生になる今年は被災地支援を行い、
石巻などに足を運んでいらっしゃる先生のゼミに入って、
今までやってこなかったこと、自分にできることを少しずつ仲間とともにやっていきたいなと思います。

また、震災をきっかけに生きることについて考えることもありました。
当時の私で16歳、同い年の人達が、まだまだやりたいたいこと、
勉強とか部活とか恋とか将来の夢とか、たくさん残して死ななければいけなかったことを思うと、
ちゃんと生きないといけないなと思いました。

亡くなった方々に怒られないように、恥ずかしくないように。
そんなこと初めて考えました。自分の中に一本芯が通った気がしてます。

なんか、うまくまとめられませんが、これが今の私の気持ちです。

宮城県 19歳 女の子


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