ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

東日本大震災の叫び2


東日本大震災の叫び2


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その1 その時初めて、「生きててよかった。」って本気で思ったんです。



2011年3月11日。

「これって現実なのかな。」

真っ黒な水が全てを流していく様子を見ながらそう思いました。
私の家の庭も、家の周りも家の1階も、一瞬で呑み込まれてしまいました。
家の2階のベランダから見えたその光景は、私の心拍数を上げていきました。

恐怖心なんて存在しませんでした。
信じられなかったから。

でもむなしさというか悲しさみたいなものはあったから、
現実だってことを、きっとどこかで受け入れてたんですね。

そしたら雪がちらつき始めて、更に非現実的な光景に変わっていったんです。
寒さは感じませんでした。今考えても不思議だけど。

そしてあっというまに月が顔を出しました。

電気が止まってたから部屋を照らしてくれる分にはありがたかったけど
夢も希望も、すべて吸いとってしまうような
世界の終わりのような光景も月に照らされてしまいました。

あんな時に限ってお節介な月でした。

でも、綺麗すぎて、恨むことはできませんでした。

それともうひとつ

月とは違った情熱的な光を放ち続けるものがありました。
遠くの方で燃えていたもの。

津波火災っていうらしいです。

月による白い静かな光と炎による赤い激しい光。
両極端な光に包まれその夜は不安と共に怯えて過ごしました。

緊急地震速報は鳴り続け家は揺れ続け、
精神的におかしくなるかと思いました。

家族もばらばらで安否も確認できなくて。

ラジオからは"○○地区では数百人の遺体が浮かんでいます。"と流れ続けていました。

その地区は私の母がいた地区だったんです。
もちろん母とも連絡が取れず、心配でした。

何が何だか分からずただ震えることしかできませんでした。

寒くて長い冬の夜。

そして、やっとやっと太陽が顔を出すと、
月には照らすことができなかった光景を太陽は照らしました。

水が引いた後の光景。

泥や木、藁、どこかの家の家具、
色々なものが絡み合ってぐちゃぐちゃになってました。

2階から1階に降りると
家の中に泥が入ってきているのが分かりました。

家具は流されて部屋から部屋へ移動していたり、
だいすきだったピアノは音が出なくなっていたり。

その日の午後、消防団の車で、
避難所になっていた私の中学校に移動させてもらいました。

車を降りて校門に向かってとぼとぼと歩いていると、
誰かに名前を呼ばれました。

当時の担任の先生でした。

先生は駆け寄ってきて強く抱きしめてくれて

「よかった。よかった。」

って泣いてくれました。

その時初めて、「生きててよかった。」って本気で思ったんです。

「私が生きてることをこんなに喜んでくれる人っていたんだ。」って。

  • 死ねたらよかったのに-

なんて考えてた私はどこかに消えていきました。

保健の先生にも会えて、そしたら「妹が待ってるよ」って教えてくれました。

そのまま中学校の敷地内に入ると、友達がいっぱいいて
みんなで協力して炊き出しの手伝いをしてたんです。

卒業生もみんなで集まって炊き出しや子供のお世話をしてて、
あったかいなってすごくすごく思いました。

校舎内に入ると、地域ごとに教室がそれぞれ与えられてることが分かりました。
私は知り合いの先輩に案内してもらい、私の地域の教室に行きました。

そこでやっと妹と再会できて、ほんとにほんとに安心しました。

そこから私の地域には近くの建物の1部屋が与えられ、
そこが私達の正式な避難所になりました。

みんなでそこに移動してすぐに嫌いな夜がきました。

夜ってなぜか余震がすごく気になるんです。
地鳴りにも敏感になるし。

でも私より怯えていたのは妹だったんです。
まだ小学生だった妹の小さな手をにぎって、「大丈夫だよ。」と根拠もないのに言い続けました。

そしたら、誰かがこっちに近付いてくるのが見えました。

母でした。

母は遠い遠い避難所から街灯もない真っ暗な道を1人で歩いてきました。

生きててよかった、

とか

来てくれてありがとう、

とか

会いたかった、

とか

寒かっただろうな、

とか、色々な思いが込み上げてきて、涙が止まりませんでした。

そして、安心して、少しだけうとうとしてまた朝がやって来ました。

朝と夜の繰り返し。
明るくなって暗くなって。

あれだけの威力を人間に見せつけた自然は
何事も無かったかのように朝と夜を繰り返すんです。

ほんとに自然は恐ろしい。

神なんていない、って本気で思いました。

「○○さんは流された」
「○○さんが見付からない」

という噂が流れる度に
「神様助けてよ」と、神の存在を肯定する自分がいて
「神なんていないんだよ」と1人で言い聞かせてました。

だって、いたらあんなことしないでしょ?

あんなに人の命を奪ったりしないでしょ?

あんなに辛い思いさせたりしないでしょ?

でもあれだけ神を否定していた私の気持ちを揺らしたのは人間でした。

避難所に食料や水を届けてくれた人々。
募金活動をしてくれた人々。
暖かいメッセージを届けてくれた人々。
ボランティアの人々。
心配してくれた人々。

他にもいっぱいいっぱい。

日本って素敵。

世界って素敵。

どんなに小さなことでも暖かく感じるんですよ。

あとね、当たり前なんてないんだなって思いました。
家があって、ご飯を食べれて、お風呂に入れて、寝れて、
そんな当たり前だと思ってたことが一瞬で消えて無くなって、
そこで初めて気付いたんです。

"当たり前なんてこの世界には存在しない"

"だからこそ日々に感謝しなきゃないんだ"

って。

震災が私に教えてくれたこと。

命について
人間について
日本と世界について
当たり前について

ほんとは、震災なんか無くても、気付かなきゃいけなかったことなのに
気付けなかったんですよね。

「震災のおかげ」なんて表現はすごく不謹慎だけど
震災が無かったら、ずっと気付けなかったと思います。


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震災から2ヶ月
がれきにも塩分にも負けず綺麗に咲いてくれました。

地面にある藁は津波で流されてきたものです。

津波で流されてきた藁という「死」の間から
チューリップという「生」が生まれてきてたんです。

久しぶりに命を感じたというか。

感動しました。

でもいくら感動できてもまだ「被災地」なんです。
今もここは「被災地」。

いつまでも「被災地」のままではいられないです。

被災者」のままなんて絶対絶対嫌なんです。
被災者だから」って甘えてる人はもっと嫌。

「私は被災者だから何でも許される。」

みたいな、馬鹿馬鹿しい権力を最大限に使う人。

避難所にもいたんです。
みんなで食事の準備をしてる時に、知り合いの先輩はただ座ってたんです。
おしゃべりしてたんです。
辛いのはみんな一緒なのに。

私だってできることなら座って泣いていたかった。

良くも悪くも被災者は1人じゃないんです。

私は同情されたくなくて
震災のことを自分からは詳しくは話したりしませんでした。

「可哀想」って言われると逆に辛いし惨めになるし。
「大変だね」って言われると大変だという現実を改めて突き付けられた感じがするし。

だから、震災後妹と2人で
しばらくお世話になってた親戚の家の人にも震災の話は
自分からしませんでした。

お世話になってる時点で私たちは「可哀想」な立場なのかなって思ったから。
住む場所が無い「可哀想」な子どもたちなのかなって。

私たちよりもっと大変な方々には申し訳ないけど。

とにかく、1日でも早く私達の街を元通りにしたいです。

何をすればいいのかはっきりしたことはまだわからないけど、
とりあえず3年前に住んでいた場所に戻ってまたあの街で生活したいです。

宮城県 18歳 女の子


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その2 「ごめんなさい、福島です」と
答えるしかなかったです。



震災から3年が経とうとしているのに…
福島は放射能の問題が未だに解決しておらず、
他の2県は復興が進んでいる中、福島は浜の方の復興が全然できてません。

また、前より少なくはなったけれど、福島への偏見の目。

震災直後避難した子は、

「菌がうつる!! くるな」
「近寄られるのやだ。うつるじゃん」
放射能~」

みたいな、「被爆してるだろ?! 近寄ったらうつるから来るな」というイジメを受けていたそうです。


Twitterでも、

「隔離しろ」
福島県民は他県に行くな」
「みんな死ねばよかった」などと、心の痛む書き込みがありました。

私はLINEで知り合った友達にどこ出身か聞かれ、
「福島」と答えたことろ、その人はアカウントごと消えてしまいました。

私は怖くてそれ以来、どこ出身か聞かれると、
「ごめんなさい、福島です」と答えるしかなかったです。

しかし、ある県ではコンビニへ寄った際、
福島ナンバーの車を見て、
バックミラーのところに袋いっぱいのお菓子を提げていった方もいたみたいです。

私はまだ高校生という大人になる前の段階の立場ですが、
こういう立場だからこそ出来ることもあると思い、
Twitterやたくさんの番組の書き込みなどに、福島は全然危険じゃない。と呼びかけています。

まだ3年ですが、これから10年、20年と時が経ったら、きっと忘れられてしまうでしょう。

でもこの出来事は絶対に忘れては行けないと思っているので、
自分が呼びかけられる範囲で、あの時の事を呼びかけて行きたいと思ってます。

テレビやこのSCHOOL OF LOCK! でも呼びかけてもらいたいと思っています。
震災に負けずに、私はこれから、前向きに震災の事を考えたいです。

まだまだ福島は原発の問題がありますが、除染などを通して良くなることを願っています。

福島県 16歳 女の子 


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その3 あの時どんな思いで卒業したかを分かってほしい・・・


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3年前のあの日、中学の卒業式を翌日に控えた私たちは卒業式の練習をして午前中で帰宅しました。
卒業式より一足先に渡された卒業アルバムを家で見ていた時でした。

2時46分。
地鳴りとともに今までには体験したことのないような揺れが襲いました。

何度も続く大きな余震。今まで聞いたことのないようなサイレン。

大津波警報を伝える市の防災無線


家から見える道路に突然白い煙とともに現れた家(←海沿いの家が道路まで流されてきた)。
もう恐怖でしかありませんでした。

私の通っていた中学では防災学習を盛んに行っており、
震災時の避難所運営、炊き出し、避難者名簿の作り方などについて学習していたので
家族と一緒に中学校に避難してすぐ避難所運営の手伝いに駆り出されました。 


再び家族と再会したのは夜の9時くらいでした。
その日は家に帰れず、中学校の校庭に止めた車の中で一晩を過ごしました。
外は雪が降り、町の中心部の空は真っ赤に染まり、絶え間なくなり続けるサイレン。
ほんとに怖くてほとんど寝れることができませんでした。

翌日からは家に帰り、給水車のところに水をもらいに行き、開いている店を探す毎日でした。
電気がないので暗くなる前に夕食を済ませ、
暗くなってからは庭にさしておく園芸用のソーラーライトだけが頼りでした。
(←乾電池やろうそくはもうどこにも売っていない中、唯一買うことができたものです。
なんでこんなものを買うんだろうという目で見る人が多かった。)

予卒業式は避難所になっている一部を貸していただき定より10日遅れで行われました。

その時の卒業生代表の答辞は全国的に有名になりました。
今でも検索すると一番上に出てくるはずです。
しかし、その動画のコメント欄で『生徒会長は演技』『会長は役者』などの言葉を目にしました。
あの時どんな思いで卒業したかを分かってほしい・・・

小学校から9年間以上も一緒だった友達が
津波によって行方不明になったり、亡くなってしまったりした悲しさ。

家族や友人の安否がわからない辛さ。
これからどうなるのかわからない不安。

震災から1カ月半ほど過ぎて高校に入学することができました。
私が入学した高校は震災により校舎を流出したため、
入学式は市内の高校の一部を借りて行われ、3校に分かれての授業を経て仮設校舎で
ようやく普通の高校生らしい生活を送ることができました。

震災を超えて今の生活を送ることができるようになったのは
全国の皆さんからの支援のおかげだと思っています。

早く美しい街に戻るように頑張ります。

宮城県 18歳 男の子


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その4 震災のことを見るとたまに涙が止まらなくなるんです。



私はあの日、中学の卒業式でした。
卒業式が無事終わり、家に帰ってきてひと段落ついたところで、地震が発生しました。

私は普段から地震が苦手だったので、長すぎる揺れとテレビの中の慌てるアナウンサー、そして急に切れる電気、食器棚から流れ落ちるように割れる皿、普段見慣れない光景に言葉を失って、涙を流して泣き叫ぶことしかできませんでした。

ライフラインが全てとまり、頼りになったのは、中学の頃授業で作ったラジオでした。

それがなければ、私の家族はその時の状況を把握することが出来ていなかったと思います。

その時に、母から、「しょうこへが作ったラジオなかったらどうなってたかな」、「本当にすごいねこのラジオ」と言ってもらえて、そこで私は人の役に立つことが出来たという気持ちが、人の役に立つことがしたいという気持ちに変わっていました。


そこから私は工業高校に進学し、今に至ります。

女の子はなかなか少なくて、大変だねと言われることも何度もあります。
だけどその時に決心したことが忘れられなくて、資格取得に励み、機械について積極的に勉強しました!!

そして今年の春、機械の勉強をもっとしたくて、工学部に進学することを決め、無事進路が決まりました!

私は大学で、工業系職員免許証を取得し、工業系分野で女性でも復興に携わっていけるんだということを伝えていきたいと思っています。

私は高校で機械のことを勉強してきて、作業中に力が足りなかったり、体が一回り小さくて、機械の操作が大変だったことがありました。



それもあってからか、大会に出たり、検定を取得して、周りの人からのおめでとうの後に必ずついてくるのは、女の子なのにすごいね、珍しいね、大変だね、という言葉でした。

でもそれは、私の中で納得のいくものではなかったんです。
なんで女っていうだけで過剰に評価されなければいけないのか、女というだけなのに、それが邪魔して、自分のこの強い復興への想いよりも、そっちが目立ってしまい、かき消されていってしまうのではないかという不安な気持ちが生まれてきました。

その気持ちから、私が工業系分野で女性が活躍するという、当たり前の環境をつくっていけばいいんだと思いました。

私にとって、高校でお世話になった先生方はとても大きな存在でした。
私もそんな先生になれば、きっとこの思いも伝わると思ったんです。

自分のこの思いが、私より後に生まれてくるたくさんの人に伝わり、復興の力になればいいと強い気持ちで思うことが増えました。

私は機械の知識で何かの形で復興に携わりたいとは思っていますが、あの時の不安や苦しみは機械では癒せないことなんて解っています。

だからこそ、携わっていく中で、今の私が伝えられる不安、苦しみは伝えていかなければいけないことなんです。

私は家に津波は来ていないし、電気と水道が止まっていただけで、自分の家で寝ることが出来ていました。

あの震災の状態で、こんなに贅沢な生活をしてたにもかかわらず、復興について考えると、不安です。苦しいんです。

夕方の県内ニュースで震災のことについて見るとたまに涙が止まらなくなるんです。
大袈裟って思う人もいるかもしれません、だけど不安で苦しい人がたくさんいることを忘れないでください。

これからも3年前の震災のようなことがあるかもしれません、
自然は何をしても止めることは出来ません、だけどこの私の少しの想いがたくさんの人に伝わって、1つでも多くの命が救われることを願っています。

宮城県 17歳 女の子


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その5 仮設校舎と新校舎、
二つの校舎が私の母校であり、三年間の思い出です。



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地震が起こってからもう三年。
あの日は私の中学校の卒業式でした。
泣き別れをした卒業式。あの時はまだ最悪な日になるとは思ってなかった。

卒業式が終わって2日後に曾祖父の法事があったので、妹も学校を早退し曾祖母の家があるいわき市に行く準備をして。
その時はお昼をまだ食べてなかったので、お母さんと妹でお昼を買いに出かけて。

私と夜勤明けで帰って来たお父さんは、家でテレビを見て帰って来るのを待っていました。

突然テレビから地震を知らせるアラームがなって、最初はなんだろうと思っていたらいきなり揺れ始まって怖くなり、こたつの中に隠れました。

次々と落ちる本、物いつ収まってくれるだろうと思っていたらようやく収まって、
お父さんの同僚から『みんな気を付けて早く外に出ろ』と言われ、私は外に出ました。


買い物に行っているお母さんと妹が心配になって
お父さんの携帯から電話したけどつながんなくって、
帰って来るまで心配で怖かったです。

とりあえずお父さんの勤務地である警察署に避難して他の人と一晩中一緒にいました。
時々地震で揺れる時に思っていたことは

「日本はどうなるんだろ? 大丈夫なんだろうか」

その後私の知っている人達がみんな大丈夫だと聞いた時は少し安心しました。
しかし妹がかよっていた、私が卒業した小学校は地震で倒壊して無くなってしまいました。

地震があった日に卒業した中学校は一部倒壊した所はあるけど無事な様子であり、
今私がかよっている高校は、北校舎倒壊で仮設校舎が出来るまで学校に通えなかったり、
通えても週にニ、三回は小体育館、格技場で他のクラスの音が聞こえる中の授業。

仮設校舎が出来る7月後半までこのような高校生活でした。
なので仮設校舎が出来た時、やっと自分たちの空間が出来たと思いました。

しかしそれを見ていた先生達が、三年間仮設校舎で学ぶ私達三年生のために
工事の人に頼んで早く北校舎を作り直してくれもらい、
1月後半(私達三年生は10日間のみですが)から全学年全員新しい北校舎で学んでいます。

なので私は仮設校舎と新校舎、二つの校舎が私の母校であり、三年間の思い出です。

しかし福島は地震の他に原発事故も起こって今でもたくさんのことに苦しんでいます。

最後にこの地震が起こって三年たって思ったことを書きます。
私達地震を経験した人として未来に伝え続けないといけない。
このような事態にならないようにしたいです。

私は大学に進学して保育士として働く予定です。
私が保育士になったら震災を知らない子どもたちに
分かりやすく私達のことを教えて未来に伝えて行きたいと思います。

写真は私が通った仮説校舎です

福島県 18歳 女の子


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その6 本当に静かすぎる夜でした。



自分のまわりは幸いあの日亡くなった親戚もおらず、すんでいる街も内陸なんで被害も海沿いより小さかったですが、僕にとっては一生忘れられない日なのであの日について書こうと思います。

あの日3月11日は中学の卒業式でした。
午前中に式が終わり午後からは友達の家で遊び夜はクラスメイトと打ち上げをする予定でした。
しかし14時47分あの巨大地震に遭いました。

最初はまた地震かと思うぐらいでした。



何故なら3月9日にも地震を体験しましたし。

最初は不覚にもそんなことを思っていましたが、初期微動が長く嫌な予感を感じた瞬間、いきなり地面が爆発したかのように大きく揺れました。

友達の部屋の漫画もフィギュアもテレビもあちこちに飛んでいきました。
僕たちは暫く自分の身を守るのに徹し暫くしてから脱出しました。
脱出する際も揺れが大きく大変でした。

その後各自家へ帰りました。
帰り道道路が盛り上がったり沈んだり、ブロック塀も崩壊したり、中には家が全壊しているところもありました。

家に帰ってみると唖然としました。
リビングでは食器も全部落ちていて破片は隣の部屋の和室にまで飛んでいてテレビも棚から落ちていていました。

自分の部屋もごちゃごちゃで部屋の端にあった学習机が移動し、自分のドアをふさいでいました。
飾っていたガンプラも全て落ちてしまい、本や棚の下敷きなっていました。

他にもベッドが移動していたりタンスが倒れていたりとまるで家の中がミキサーでかき混ぜた状態でした。

妹を小学校からつれてきた後買い出しに行きましたが、酷い有り様でした。
セブンイレブンやローソンに行きましたが中は悪臭がしていました。
飲み物が全て割れ落ちトイレの水が溢れだしていて、その上に食品が落ちていました。
とても買える状態ではありませんでした。

スーパーも同じ状態でした。
帰る頃はもう日が落ちていました。

6時頃のはずなのに夜中のように真っ暗でした。
住宅街なのに家に明かりがなく不気味でした。

見上げると満天の星空でした。
山奥にいるときよりも星がよく見えまるで宇宙にいる気分になりました。
圧巻されました。

家についた後カップ麺を家族でわけあいながら食べすぐに寝ました。
部屋はいつもと同じ真っ暗ですが全然違うように感じました。
車の音もなく人の声もなく、ただ窓から星空が輝いているだけでした。

これからどうなるのだろうと思いましたが疲れがどっときてすぐ寝れました。
本当に静かすぎる夜でした。

三年が過ぎ、壊れていたブロック塀も我が家も直り今は普通に過ごしています。
でもがれきの山もまだあり、道路も未だに直っていない場所もあります。
海沿いに比べたらまだましですが復旧したとは言えない状況です。
最近放置されている部分が沢山あるので早く復旧してほしいです。

私は震災から学んだことがあります。
不便なく暮らせることがとても幸せだということです。

被災した時は、水もなく食料も少なく停電のため暗く、ゲームもテレビもなく、道路も道が悪くまた車のガソリンもなかなか給油できないので遠くに出かけられずとても不便な生活でした。

私の周辺は一週間ぐらいで電気や水が復旧しましたが食料は暫く解消されませんでした。
あの頃は震災に対する準備もあまりしていなかったので今はまたそんな事態にならないよう、食料や水の備蓄や電池や懐中電灯を用意したりしています。

また被災した時同じ過ちをしないように意識しています。
皆さんもいつ被災するかわからないので準備しておきましょう!!

宮城県 18歳 男の子 


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その7 お母さんは「産んでよかった」と言ってくれました。



三年前、中学校の卒業式の前日、あの東日本大震災は起こりました。

ライフラインはすべて止まり卒業式ができるかどうかも分からない状況でしたが、
先生方のおかげで1週間遅れで卒業式が行われました。

しかし、在校生の出席もなく規模を小さくしての式だったので皆と写真を撮る時間もなく、あまり卒業した実感がありませんでした。

そんな不安な気持ちをもったまま...


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高校生活はスタートしたものの、まわりの友達にも恵まれて充実した毎日を過ごすことができました。

そして先日の3月1日、私は無事に高校を卒業することができました。

私の高校は私服で、卒業式が仮装大会といわれているほど派手で有名です。
友達はドレスや袴、中には舞妓さんの格好していて、私はお母さんのウェディングドレスを着ました。
私のドレス姿を見て、お母さんは、「産んでよかった」と言ってくれました。

中学のときは「卒業」というよりも「震災」という記憶のほうが強かったですが、高校ではとても華やかで、本当にステキな卒業式をすることができました。

私は4月から東京の大学に行きます。
生命科学科に進学するので、将来は震災で被害にあった地域に貢献できるような研究をしてみたいです。

また、自分自身も実際に震災の被害にあって、暗くて恐い部屋のなかで流れるラジオの音、唯一の情報を得る手段として、とてもラジオのありがたみを感じました。

また受験勉強でもラジオに励まされることが多くありました。
放送部に所属していたこともあり、将来はラジオなどメディア関係の仕事に就きたいなとも思っています。

どちらも違った職業ですが、将来は地元、宮城の復興を目指して、自分なりに出来ることを一生懸命やっていこうと思います。

宮城県 18歳 女の子 



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