ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

飲みかけのココア

加茂前ゆきちゃん失踪事件



1991年3月15日午後2時頃
友達と別れて 自宅帰宅後 行方不明
加茂前ゆきちゃん失踪事件の
3つのブログの記事を載せています
春先に起こった事件です
私も3歳の娘が居ります
小さなお子さんが居られる方
良ければ お読み下さい
by god634526


その1

この事件は2006年に時効になっていますが、今でも事件について検索している人が多数いることを知り、意見や情報を止めてはいけない、風化させてはいけない、そう思ったのです。
それに伴い、パソコンで久々にこの事件について検索したのですが、リンク切れの多さと関連記事の激減に驚きました。6年ほど前に検索した時はもっとたくさん表示されたのに、いくら昔の事件だからってこんなに情報が消えるものでしょうか?
旧ブログを放置してしまったので、いただいた数々のコメントにも返信できていない状態ですが、この場でもう一度事件について考えてみようと思います。



《事件の概要》

1991年3月15日、三重県四日市市富田在住の加茂前芳行さんの三女ゆきちゃん(当時8歳)が失踪した事件。
当日、ゆきちゃんは午後1時半頃に帰宅し、2時半頃に母親からの電話に出ている。その間父親は別室で就寝しており、3時半頃に姉が帰宅して、ゆきちゃんがいないことに気付く。まだ温かい飲みかけのココアと、いつもは外出時に着るピンクのジャンパーが残っていた。
午後4時頃、父親が起床。やがて長女や市子さんも帰宅。ゆきちゃんが夜になっても帰宅しないため、午後8時には警察に捜索願を提出した。

●ゆきちゃんは友達から遊びに誘われたが「約束がある」と断っている。
●ゆきちゃんは友達と遊びに行く時は自転車を使っていたが、その日は家の前に置かれたままだった。
●学校のジャングルジムで遊んでいた、学校横の十四川周辺にいた、自宅からわずか15mほどの四つ角で白いライトバンの運転手と話をしていた、学校近くの近鉄豊田駅にいたなど情報が寄せられた

事件から三年後、加茂前家に怪文書が届いた。怪文書は3枚から成り、鉛筆書きの上からボールペンでなぞられたものである。
 
※以下、旧ブログより転載

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  ミゆキサンにツイテ
 ミユキ カアイソウ カアイソウ 
 おっカアモカアイソウ お父もカアイソウ 
 コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ トオモイマス 

 股ワレハ 富田デ生レテ 学こうヲデテ シュンガノオモテノハンタイノ、パーラポウ ニツトめた
 イつノ日か世帯ヲ持チ、ナンネンカシテ 裏口ニ立ツヨウニナッタ
 イま(ゑ)ハー ケータショーノチカクデ 四ツアシヲアヤツツテイル

 ツギニ
 スズカケのケヲ蹴落シテ、荷の向側のトコロ
 アヤメ一ッパイノ部ヤデ コーヒーヲ飲ミナガラ、ユキチヲニギラセタ、ニギッタノハ アサヤントオもう。
 ヒル間カラ テルホニハイッテ 股を大きくワッテ 家ノ裏口ヲ忘レテ シガミツイタ。
 モウ股割レハ人ヲコえて、一匹のメスにナッテイタ。
 感激ノアマリアサヤンノイフトオリニ動いタ。ソレガ大きな事件トハシラズニ、

 又カムチャッカノハクセツノ冷タサモシラズニ、ケッカハ ミユキヲハッカンジゴクニオトシタノデアル
 モウ春、三回迎エタコトニナル 
 サカイノ クスリヤの居たトコロデハナイカ トオモウ
 
ダッタン海キョウヲ、テフがコエタ、コンナ 平和希求トハチガウ
 ミユキノハハガカ弱イハネヲバタバタ ヒラヒラ サシテ ワガ子ヲサガシテ、
 広いダッタンノ海ヲワタッテイルノデアル

 股割れは平気なそぶり
 時ニハ駅のタテカンバンニ眼ヲナガス コトモアル、
 一片の良心ガアル、罪悪ヲカンズルニヂカイナイ
 ソレヲ忘レタイタメニ股を割ってクレルオスヲ探しツヅケルマイニチ

 股ワレワ ダレカ、ソレハ富田デ生レタコトハマチガイナイ
 確証ヲ?ムマデ捜査機官に言フナ
 キナガニ、トオマワシニカンサツスルコト
 事件ガ大キイノデ、決シテイソグテバナイトオモウ。
ヤツザキニモシテヤリタイ 股割レ。ダ。ミユキガカアイソウ
我ガ股ヲ割ルトキハ命ガケ コレガ人ダ コノトキガ女ノ一番 トホトイトキダ


以上が、漢字、ひらがな、カタカナ、赤い〇印が混ざった、意味深な内容の怪文書である。
三重県渡鹿野島は別名売春島と呼ばれており、昭和33年の売春防止法が施行された後も飛田遊廓同様に売春が行われ、昭和40年代は栄えていたようだ。現在は東南アジア女性が大半を占めており、客引きの老婆が船着場にいる。女子高生と女性記者の行方不明事件とも関連があると言われている
●怪文書の下書きと清書は別の人物の可能性もある
●『ツギニ』は『次に』ではなく『積ぎ荷』とも考えられる
●『富田の股割レ』が『検索してはいけない言葉』になっている
●パーラボウは紡績会社の『〇〇紡』とも考えられる
カムチャッカ半島ということは、ロシアンマフィアに売られた可能性もある
●『シュンガノオモテノハンタイ』は渡鹿野島の船着場の反対側に位置する場所にある、バー、ランプまたは乱歩。今は小学校の近くでベビーシッターをやっている。鈴鹿市を過ぎた辺りの荷おろし場(トラックセンター)の向かいにあるマンションの一室で大麻栽培している。最後にゆきちゃんを見たのは、渡鹿野島のサカイという薬屋の近く。そこから船に乗せられて韃靼海峡を越えてサハリンに連れて行かれた。とも考えられる
新潟県柏崎市出身の友人が子供の頃、海岸で人がいなくなる事件を「ロシア人が人さらいにやってくる。シベリアに連れて行かれる」と大人達から聞かされていた
●ケータショーは検査場とも考えられる
●ケータショーはハツキタショー(羽津北小学校)とも考えられる
●『シュンガ』は四日市にあるお菓子屋、春華堂(シュンカドウ)とも考えられる
●韃靼海峡の下りは、安西冬衛の詩『春』の引用
●『平和希求』は、昭和二十年代の民主主義教育の下で、盛んに使われた言葉
●『スズカケのケ』は『鈴懸の径』とも考えられる
●富田に住んでいる友人が、トイレ掃除の際にこの事件の話をされた。信憑性は低いが、噂があった。



売春島の存在は、私も耳にしたことがあります。そこから逃げ出せた女性のインタビューみたいな記事を、何かの雑誌で読みました。捏造記事かもしれませんが。
また、海外へ拉致されるというと北朝鮮のイメージが強いですが、コメントを読み、それ以外の国の可能性もあるということに気付かされました。

ちなみに、私の知人男性(父親がヤクザ、両親の死後に様々なトラブル)は、パチンコ屋のサクラとして働かされたことがあるのですが、住んでいた千葉県から遠く離れた島での住み込み勤務でした。島の名前を聞いたのに、当時は興味が無かったので忘れてしまいました。もう一度聞こうと電話をかけたら繋がらず、以来、音信不通です。
まあとにかく、知人男性は夜中に中国人が青龍刀の手入れをしている姿を見て、恐ろしくなって島から逃げ出したそうです。知人男性は『中国人』と言っていましたが、韓国(朝鮮)人だったかもしれませんし、青龍刀かどうかも断定はできません。
9年前の話ですが、人がどこかに連れていかれて働かされるというのは、大昔や映画の中の話じゃないのだということがよくわかりますね。



さて、この怪文書が届いてからしばらくした後、加茂前家に今度は『福岡県に住む緒方達生と名乗る人物』から手紙が届きました。ゆきちゃんは既に他界しているので、ゆきちゃんの霊の協力でダウジングし、遺体を捜索する。犯人は顔見知りの男女二人だ。という内容です。
しかし、その三日後に同人物から「ゆきちゃんの霊を邪魔する別の霊が現れたので捜査に協力できなくなった」という手紙が再び届きました。

そして、今度は2003年の10月に、若い男性の声で不審な電話がかかってきました。(事件から12年経過)
男性は自分の体格や髪型などの特徴を述べたそうですが、その中に「自分の身長170センチで髪型はパンチパーマ」という発言があります。
パンチパーマというのは、失踪当時の目撃情報にある白いライトバンの運転手の特徴であり、関係者しか知らないはずの情報(その時点では未公開)だったそうです。



怪文書や不審な電話が全て意味の無いイタズラだったとしても、この事件、興味深いですね。
誘拐や失踪など、まだ生きている可能性がゼロではないものにも時効があるって、その家族や友人にとってどんなに辛いことでしょう。



その2
【事件概要】



 1991年3月15日、三重県四日市市富田在住の加茂前芳行さんの三女・ゆきちゃん(当時8歳)が、この日の夕方、自宅から突然姿を消した。



――――――――


【ココアを残して消えた少女】


 板金工場で夜勤をしていた芳行さんはいつも夕方6時に家を出て翌朝帰宅する生活、妻の市子さんも当時パートに出ていた。当時小学2年生のゆきちゃんはこの日、午後2時頃に友達と別れ、家に帰ってきた。芳行さんがぐっすり眠っている時間である。普段からゆきちゃんは父親を起こさないように、家に帰ると物音をたてなかったので芳行さんは帰宅にきづかなかった。



 午後2時半には市子さんがパート先から自宅に電話を入れ、この時ゆきちゃんが電話に出ている。その後、小学6年生の次女が帰ってきたとき、ゆきちゃんの姿はなく、テーブルに上にはまだ暖かいココアが残されていた。ゆきちゃんはココアが好きで、よく自分で作って飲んでいたという。



 午後4時頃、芳行さんが起きてきたが、ゆきちゃんがいないことにはさして気に留めなかった。いつも帰宅してから友達と待ち合わせて、遊びに行くことが多かったからだ。やがて長女や市子さんも帰宅してくるが、ゆきちゃんは夜になっても戻ってこなかった。午後8時には警察に連絡し、家族や小学校の教師らと捜索したが見つからなかった。



 家の中を見ても、不審な点が多かった。

・遊びに行く時、いつも乗っていた自転車が家に置きっぱなしになっていたこと。

・ゆきちゃんが温めたと思われるココアがそのままだったこと。

・当時まだ寒く、ゆきちゃんがいつも着ていたピンク色のジャンパーも家に置かれていたこと、などである。

 また、ゆきちゃんはこの日、友人の遊びの誘いをなぜか断っている。他に何か用事があったのだろうか。



 その後、目撃証言が多数よせられた。

・学校のジャングルジムで遊んでいた。

・学校の横の十四川付近で遊んでいた。

・自宅から15mほどの地点で、白いライトバンの運転手と話していた。

・学校の近くの近鉄富田駅にいた。

 この中で一番多かった目撃証言は富田駅近くにいたというものである。しかし、それらは有力な手がかりにはならなかった。





【怪文書】



 ゆきちゃんの家族はその後も、情報提供を願うビラや看板を作ったり、TV出演して事件の手がかりを待った。自宅では電話に逆探知装置をとりつけて待ったが、脅迫電話はなかった。そのかわり、無言電話が頻繁にくるようになった。



 事件から3年後、「加茂前秀行様」という間違った宛名(実際は芳行さん)で、一家に怪文書が届く。非常に不気味な文書だったが、詳しい内容はよくわからなかった。→怪文書の内容

 それからしばらくして、一家にもう1通の手紙が届けられた。ダウジング(※)ができるという人物からの捜査協力の申し出である。福岡県に住む「緒方達生」というこの差出人は、ゆきちゃんはすでに亡くなっていると言い、ゆきちゃんの霊の協力の元、捜査をするという。さらに3日後、この人物は「ゆきちゃんの霊を邪魔する別の霊が現れ、捜査に協力することができなくなった」と書いてきた。以来、不審な手紙はない。



 2003年10月、一家に不審な電話がかかる。若い男の声で自分の体格や髪型などの特徴を述べた。この中で「自分の髪型はパンチパーマ」という発言があったのだが、パンチパーマの男というのは失踪当時の目撃情報で出てきた白いライトバンの運転手の特徴だった。この特徴というのは関係者にしか知らされていなかった。


 事件から10年以上がたち、今だにゆきちゃん発見につながる有力な情報は届けられていない。





その3

三重小2女児失踪事件
(1991年3月)

 三重県四日市市富田浜町。付近を流れる十四川(じゅうしがわ)の両岸には、春先に約600本のソメイヨシノが咲き並び、川沿いでは毎年恒例の「桜祭り」が行われる。しかし、事件の関係者にとっては20年もの間、祭りの喧噪に耳を傾けることもできないまま、空白の時間が続いている。

 1991年3月15日、板金工場に勤める加茂前芳行さんの三女・ゆきちゃん(当時8歳)が、学校から帰宅して間もなく、忽然と姿を消した。まだ桜の蕾も開かない、肌寒い季節の出来事だった。

 失踪当時、ゆきちゃんは四日市市立富田小学校の2年生。卒業式シーズンだったため、学校が終わるのが早く、この日も午後2時頃には自宅に帰っていた。

 工場で夜勤の仕事をしていた父・芳行さんは就寝中で、母・市子さんはパートに出かけ、小学6年生と高校生の2人の姉はまだ学校から帰っていなかった。

 ゆきちゃんは午後2時頃に友達と別れる際、友達に「これから約束がある」と伝え、遊びの誘いを断って帰宅。眠っていた芳行さんは、彼女が帰ったことに気付かなかったという。

 午後2時半頃、パート先の市子さんが自宅に電話をかけ、ゆきちゃんの声を聞いている。これが母と娘の最後の会話になってしまった。

 午後4時、次女が家に帰ると、ゆきちゃんが外出する際に着ていたピンク色のジャンパーが残され、外には自転車が置かれたまま。テーブルには、まだ温かい飲みかけのココアが残っていた。ココアが大好きだったという彼女は、普段から自分で作って飲んでいたという。

 午後4時半に起床した芳行さんは、「外に遊びに出かけているのだろう」と思い、ゆきちゃんがいないことも気にかけず、この日も平常通り、夜勤の仕事に出かけている。しかし、午後8時になってもゆきちゃんは家に帰らず、異変に気付いた母親が警察に捜索願を出し、失踪事件として取り扱われることとなった。

 一体、ゆきちゃんが友達の誘いを断った「約束」とは何だったのだろうか? なぜ、ゆきちゃんは作ったばかりの飲み物を残したまま、3月の寒空の下にジャンパーも着ないで出かけたのだろうか?

 警察の聞き込みにより、ゆきちゃんが家から1kmほど離れた「近鉄富田駅で見かけた」という多くの目撃証言のほか、「十四川付近で遊んでいた」「白いライトバンの運転手と話していた」などの証言が寄せられた。

 しかし、彼女の身を案じる家族の思いも虚しく、延べ500人の捜査員を動員した三重県警の捜査は実らず、ゆきちゃんは現在もまだ行方不明のままである。

 そして、失踪から3年後の1994年の春、事件は奇妙な展開を見せる。加茂前さん宅に「加茂前秀行(芳行さんの誤字と思われる)様」と宛てられた奇妙な封筒が届いたのだ。

 手紙は3枚の紙に綴られ、鉛筆書きの上からボールペンでなぞられていた。

 その内容は、まさに"怪文書"というべきものである。

 以下、全文を掲載する。

ミゆキサンにツイテ
ミユキ カアイソウ カアイソウ
おっカアモカアイソウ お父もカアイソウ
コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ
トオモイマス
股ワレハ 富田デ生レテ 学こうヲデテ
シュンガノオモテノハンタイノ、パーラポウ
ニツトめた
イつノ日か世帯ヲ持チ、ナンネンカシテ
裏口ニ立ツヨウニナッタ
イまハー ケータショーノチカクデ
四ツアシヲアヤツツテイル
ツギニ
スズカケのケヲ蹴落シテ、荷の向側のトコロ
アヤメ一ッパイノ部ヤデ コーヒーヲ飲ミナ
ガラ、ユキチヲニギラセタ、ニギッタノハ 
アサヤントオもう。
ヒル間カラ テルホニハイッテ 股を大きく
ワッテ 家ノ裏口ヲ忘レテ シガミツイタ。
モウ股割レハ人ヲコえて、一匹のメス 
にナッテイタ。
感激ノアマリアサヤンノイフトオリニ動い 
タ。ソレガ大きな事件トハシラズニ、又カム
チャッカノハクセツノ冷タサモシラズニ、ケッカハ
ユキヲハッカンジゴクニオトシタノデアル
モウ春、三回迎エタコトニナル
サカイノ クスリヤの居たトコロデハナイカ
トオモウ
ダッタン海キョウヲ、テフがコエタ、コンナ
平和希求トハチガウ
ミユキノハハガカ弱イハネヲバタバタ
ヒラヒラ サシテ ワガ子ヲサガシテ、広い
ダッタンノ海ヲワタッテイルノデアル
股割れは平気なそぶり
時ニハ駅のタテカンバンニ眼ヲナガス
コトモアル、一片の良心ガアル、罪悪ヲ
カンズルニヂカイナイ
ソレヲ忘レタイタメニ股を割ってクレル
オスヲ探しツヅケルマイニチ
股ワレワ ダレカ、ソレハ富田デ生レタ
コトハマチガイナイ
確証ヲ掴ムマデ捜査機官に言フナ
キナガニ、トオマワシニカンサツスルコト
事件ガ大キイノデ、決シテ
イソグテバナイトオモウ。
ヤツザキニモシテヤリタイ
股割レ。ダ。ミユキガカアイソウ
我ガ股ヲ割ルトキハ命ガケ
コレガ人ダ コノトキガ女ノ一番
トホトイトキダ


 この禍々しさの滲み出る手紙を手にした家族の心の痛みは、相当なものだったろう。


 誰が何の目的で、このような怪文書を送ってきたのだろうか? わざわざ比喩的な表現を多く用いることに、何か意味はあるのだろうか?


 私は、この怪文書を以下のように読んだ。


「この事件を起こしたのは、富田に住む性風俗産業に従事する女性(股割レ)だと思います。鈴鹿(スズカケのケヲ蹴落シテ)で自らが好意をもつ暴力団員(アサヤン=ヤーサン)にそそのかされ、加茂前ゆきちゃん失踪事件の実行犯となったのだろう」


 この手紙が悪戯だとしたら、あまりに手の込んだ悪戯であり、ただただ家族の神経を逆撫でしただけである。しかし、あくまで個人的な希望ではあるが、この怪文書が、ゆきちゃん失踪の真相を知る者が、良心の呵責に耐えかねて送ってきたものであると信じたい。もし、そうであるならば、まだ少しは解決の糸口が残されているということだからである。


 奇妙な出来事は、さらに続いた。


 事件から12年以上経った2003年10月、加茂前さん宅に不審な男から電話がかかってきたのだ。その男は話のなかで、自らの特徴を「パンチパーマ」と語った。


 この電話のことを聞いた捜査関係者は、驚きを隠せなかったという。実は事件発生当初、捜査関係者がマークしていた白いライトバンの男の特徴は、パンチパーマだったからである。そして、これは関係者のみが知りうる情報であり、このことが明るみにされるまで、一切報道はされていないのだ。


 これらの、あまりに不気味な出来事は、「加茂前ゆきちゃんは生きている」という犯人からの暗黙のメッセージかもしれない。


 事件から約20年が過ぎ、誘拐が"時効"となった今でも、家族や関係者は、いつまでもゆきちゃんが帰ってくるのを祈り続けている。


<被害者の情報>※すべて失踪当時のもの
名前:加茂前ゆきちゃん(8歳)
身長:身長130cm
体重:38kg
特徴:長髪(肩から下20cmぐらい)
服装:水色地に水玉模様の長袖ブラウス、薄茶色のスカート、黒色のビニール靴


<連絡先>
連絡先:三重県四日市北警察署
TEL:0593-66-0110


最後まで読んで下さり ありがとうございました