ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

毒ガスの島


毒ガスの島




広島県大久野島に学徒動員された学徒からの聞き取り すべて女性】

1943年6月学徒戦時動員体制要綱が出され、9月には14才~25才の未婚女性の勤労動員が決定されると、女子学生も勤労奉仕に出されるようになった。1943年の6月忠海高等女学校三年生だった大森さん・山科さんも勤労奉仕に出るようになった、最初は学校で勉強しながら、1週間に2回から3回、勤労奉仕で手伝いに行っていました。忠海の港の近くで発煙筒の袋を縫ったり、大久野島に行って作業をしていた。1944年4月以降、戦況も悪化し、授業なしで、通年で、毎日、勤労奉仕に従事するようになった。



忠海高女からは大久野島に行った人もいたし、呉の海軍工廠の方に勤労奉仕に行った人もいた。 大森さん、山科さんの同級生は1945年8月15日終戦の日まで、ほぼ二年間ずっと勤労奉仕に従事したそうだ。1945年の3月に忠海高女を卒業してからも大久野島から離れられなかった。女子挺身隊として、大森さんは屋外の現場で、山科さんは製図室で働いた。
大久野島での勤労奉仕には、草取り、防空壕堀、焼却場へのごみ運び・発煙筒をつくる作業・風船爆弾の気球作り、ドラム缶運びなど様々な作業があった。



大久野島があの恐ろしい、秘密の島、毒ガス製造の魔の島とも知らず、大森さん、山科さん達は先生に引率され女学校の三年生の後半期から、五年生3月の卒業まで、そして卒業後も8月15日まで、雨の日も風の日も島に通いました。はじめの間は、大久野島の毒ガス工場内の草取りとか、あるいは発煙筒の部品を造るとか、女子学生にふさわしい仕事でしたが、四年生の五月からは従業員の女工員さんと同じように毒ガス製造関係の各現場に配置され、仕事をすることになりました。作業についての注意、取り扱い方の注意についていろいろと教えられ、訓練されながら、一生懸命働きました。忠海桟橋6時30分発の船に乗り、20分くらいで島に着きそれぞれの職場に行きます。大森さん、山科さん達、女学生が大久野島勤労奉仕に行くようになった時は、まだ14才~16才の乙女でした。戦争の残酷さも知らない乙女たちが悪魔の兵器、毒ガスを製造している工場に派遣されたのでした。今まで見たことのない建物が建ち並び、軍人や工員さんを目の前にしてまるで別世界へ来たようでとまどったそうだ。



大久野島で何を製造しているかは知らされていませんでした。黒く焼けた鉄の色をした顔、目の縁が黒くなった顔、ガラガラ声の工員さんの姿を見て、何とも言えぬ不安を感じ、何か良くないものが製造されていると思ったそうだ。工場の各現場には鳥かごに入れて小鳥が2羽飼われていました。「鳥が死ぬと、ガスが洩れだした知らせなので、部屋の中の人はすぐ外へ出て避難するのだそうよ。」と友だちと、珍しそうに話し合っては、かわいい小鳥を見に行ったりした。工場のどの現場も部屋と部屋の間に外とパイプが張りめぐらされていました。何のためのパイプか知りませんが無気味でした。イペリット工場の前を通るときは悪臭が充満していたので鼻をつまんで走って通り抜けたものです。雨が降ると工場の前の道は黄色い水たまりができたり、乳白色の汁が雨水に混ざって流れてたので「あれは危険だから踏まないようにしよう。」と話して注意して歩いたそうだ。
大久野島ではいろいろな作業に従事させられた二人だったがそれぞれ忘れられない思い出があった。
山科さんはシンナーの溶液を塗る作業に従事したときが忘れられない。忠海港の近くにあった作業場で直径15センチくらいのドーナツ型の布袋のミシンの縫い目に防水用のシンナーの溶液を塗る作業でした。これが何に利用されるのかは教えてくれませんでしたが、絶対に水に濡れてはいけないものを入れるのだから防水を完全にするように作業工程を注意されました。シンナーで溶かれた防水剤のようなものを筆で塗る作業でしたが強いシンナーの臭いに、吐き気を覚えるようになり、目が廻る気分と悪感に悩まされました。我慢できなくなり戸外でうつぶせになっていると、大きな声で怒られ作業場に連れ戻されました。定められた休憩以外の休憩は国賊として扱われ「倒れても職場は放棄してはならん。」と教えられ、山科さんは必死でそれを守りました。しかし、1週間も耐えに耐えて頑張りましたがついに身体が限界に来たのでしょう鼻血を出して倒れてしまいました。もう駄目だ、これ以上耐えることは不可能でした。山科さんは隣接の布袋を縫う班に配置換えになりました。



大森さんにとって忘れられない作業は、ドラム缶の疎開作業でした。「あの時の作業の辛さを思えば、何でもできるよ。」と言いながら大森さんはドラム缶の疎開作業について語ってくれた。
1945年の7月の暑い時期に毒ガスを大三島疎開させるためのドラム缶運びが行われた。炎天下に汗、くしゃみ、涙を出しながら毒ガス缶を運んだ。麦わら帽子を被り、ゴム手袋をしての作業は過酷だった。2~3分作業すればゴム手袋の中はチャポンチャポン音が出るほど汗でいっぱいになった。ドラム缶は腐食したような古い缶で黄色い泡のような汁がにじみでていた。ドラム缶の中には少女の力では動かない重いものも多かった。この作業を通じて多くの女学生が毒ガスによる障害を受けた。灼熱の照りつける中、少女達はめまいをしながらも働いたそうだ。
大森さんと山科さん、お二人の話から、女学生達が学徒動員され、大久野島勤労奉仕作業に従事した体験のいくつかをまとめてみた。



(焼却場へのゴミ運搬作業)

朝礼の後、「○班 焼却場!」と指示されて行ったり、工場の職長さんから「ゴミを焼きに行くので来い」と言われて行くこともありました。焼却場は島の一番北の端で忠海町がかすかに見える場所にありました。焼却場へ行く道中は三十分くらいかかりましたが、おしゃべりしながら行けるし、工場での作業をしなくていいし、帰りには空になった車に乗って帰れるので楽しみでもありました。
焼却場が危険な所だという認識はありました。焼却場に行くと煙が出ていましたが、普通、家で風呂を炊くとき出る黒い煙ではありませんでした。見るからに気持ちの悪い黄色い煙や、青い煙が出ていました。日によって煙の色が変わっていました。悪臭のある日とない日がありました。時には、悪臭をかいで、くしゃみが百回以上出たこともあります。しまいには鼻も喉も痛くなり、涙が出たり、咳がでたり、悲しくもないのに涙が出て止まりませんでした。目が真っ赤に腫れることもありました。
焼却場の近くの海岸には大きな貝などが生息していました。持って帰れば家族が喜んで食べてくれそうな貝でしたが、さすが家には持って帰りませんでした。ここで毒ガスを造っているとは教えてもらってはいませんでしたが、何か危険があるということは解っていたので持って帰る人はいなかったです。
焼却場に行って、水ぶくれになった人もいました。ゴミは車いっぱいに積んで行きました。焼却場にゴミを投げ込むのは職長さんがやったり、時には女学生が投げ込むこともありました。当時は、出ている煙はいい色ではなかったし、悪臭もあったので、悪いものと感じていましたが、命にかかわるほど危険な場所との認識はありませんでした。


(発煙筒作り)

長浦の桟橋の前の発煙筒の工場で発煙筒作りに多くの学徒の女生徒が動員されました。作業は防毒面を着けて筒内に薬品を装填したり、噴煙口を錫箔で塞いだり、発煙筒に点火剤を付けた、発煙筒を箱に詰めたりしていました。



1945年4月20日、機械を使って点火剤を型にはめて圧縮していた時、火薬が爆発し火が部屋中に回り大騒動になりました。机の上に上がって作業をしていた人は顔面や腕を火傷しました。マスクをしてたので額や口の中までどろどろになってひどい火傷でした。大森さんは爆発が起こり逃げようとしたが、入り口の方はみんなが出ようとして逃げ道がなかったし炎が上がっていたので、いつの間にか高い窓から逃げ出していました。どのようにしてあの高い窓から逃げ出すことができたのか、必死で逃げたのでよく覚えていない。あれはひどかった。「どかん」大きな音がしたと思ったら火の海だった。炎と煙で一寸先も見えなくなったので必死で逃げた。後で考えると自分ながらよく逃げたと思う。部屋の中は一瞬、この世の地獄になった。4人の女生徒が大きな火傷を負ったのをはじめ多くの女生徒が負傷した。ひどい火傷をした女生徒は負傷者として、大久野島の病院に運ばれ入院した。入り口には面会謝絶の張り紙が貼られ一切面会は許されなかった。家族や親戚が心配で様子を見に来ることも許されなかった。家族であっても大久野島に渡ることは許されず、心配でたまらない母親は何度も忠海の桟橋に立ち大久野島の方に向かって祈ったそうだ。大久野島に渡ることのできない家族は母親が自分の手で握ったおにぎりや卵焼きを友達を通じて、子どもに届けたそうだ。しかし、火傷がひどくそのおにぎりも食べることができなかった。一切、親との面会も許されず、面会ができたのは1ヶ月以上経過し、火傷が直ってからでした。



(防毒面訓練と防空壕作り)

女学生達も防毒面をかぶる訓練がありました。しかし、貸し与えてくれた防毒面は工員さんの使い古したもので汚れた、シミの付いた防毒面で、工員さんの名前まで書いたものもありました。見るからに汗まみれで汚れていて、気持ちが悪く、被るのがいやだった。防毒面に毒が付いているのではないかとも思った。汗の汚いシミだらけでかぶるのがいやだった。大人が使った防毒面だから、被るのも難しかった。被ると顔に毒をつけるようなものだった。この訓練は本当にいやだった。防毒面を被る練習をした後、顔面がチリチリと痛み涙がとどめなく流れ、すぐ水道の水で洗ったが痛みが取れず苦しんだ友達もいた。



防空壕づくりも手伝った。主な作業は防空壕を作るため山の岩盤を爆破し、その時出た土砂を運び出したり、爆破のための発破を仕掛ける穴を空ける作業だった。この仕事はあまり辛いとは思わなかった。
山の中に一人だけ入る防空穴も造った。中に入ってしゃがんだら頭が隠れる程度の穴だ。空襲があったらここに逃げるための防空穴だが本当の空襲を受ければとても役立つとは思えないものだった。いざ空襲があったらここに逃げ込むよう一人一人入る穴が決めてあったそうだ。一方、幹部用の防空壕はコンクリート造りの強固なものが事務所の近くに造られていた。軍の幹部たちはコンクリートの強固な防空壕で安全を確保し、他の従業員や学徒動員生徒達は粗末な蛸壺と呼ばれる穴ですまそうとしたのだ。このことは戦争が決して弱い立場の国民を守るものではないことを物語っている。大久野島には今でもいくつかの蛸壺穴の跡と幹部用防空壕が残っている。



風船爆弾気球作り)

1944年11月頃から日本は風船爆弾によるアメリカ攻撃を企画しました。直径10メートル位の紙風船に水素ガスを詰めて成層圏まで打ち上げ偏西風に乗せてアメリカ大陸までとばしアメリカで爆発させようとする計画でした。大久野島でもその気球部分を動員学徒女生徒が造りました。和紙を蒸気の通っているトタン板にコンニャク糊で貼り合わせていきました。トタンが四面になっていてクルクル回しながら貼りました。縦に塗って、横に塗って四回塗っていました。紙を乾かすために部屋は暖かくしてあったので 良かった。2月など寒い日は早くその部屋に入りたかった。長細い紙を貼り合わせてどのようなものができるのか分からなかった。競争で作業をした。朝、作業場に行ったらグラフが出ていてどれだけできたかみんなの作業量が解るようになっていた。グラフは毎日、出され二人一組でやったが、少ないとみんなに見られるので恥ずかしかった。久野島荘の近くのプールのあたりに作業場があったように思う。水泡ができないように手で押さえたので手のひらが堅くなった。長い紙を接合し気球に仕上げていった。満球テストは発電場の所の建物で行った。
貼り合わせるためのコンニャク糊は中学生が造っていた。コンニャク糊をもらいに中学生のところに行くのは嬉しかった。自分たちが作業しているとき中学生がそばを通ると嬉しそうに中をのぞいて通った。時には、中学生から手紙が投げ込まれることもあった。そこには青春のときめきがあった。


(毒物の入ったドラム缶の運搬)

終戦一ヶ月前の7月頃、大久野島の向の大三島の芋畑へ、毒物の入っている古いドラム缶を運ぶ仕事をしました。作業は. 倉庫からドラム缶を出して車に積んで運ぶ役の人と、大三島に渡って向こうで受け取り芋畑に運ぶ人とに別れて作業しました。ドラム缶は見るからに古く腐ったような缶が多かった。
そしてドラム缶からは何か泡みたいな、黄色い何ともいえない液が出ていた。ドラム缶の中身は毒ガスとは教えてはもらっていませんでしたが何か危険なものだという認識はありました。
どこへ隠してあったのか、たくさんのドラム缶がありました。運んでいるとき悪臭をかいでハクションがでることがありました。出る時は連続して百二十回、百三十回もハクションが出ました。



暑い夏におこなったこの作業は大変きつかったです。ゴム手袋をして作業しましたが、すぐ汗で手袋の中がいっぱいになりました。ものの3分もすれば汗がゴム手袋に溜まり、手を上にすると、ざっと流れ出ました。手をあげて汗を落としながら作業をしました。炎天下にゴムの手袋に作業着を付け、ほほかむりをした上に麦わら帽子をかぶり10分間も転がせば身体中から汗が吹き出しました。流れ落ちる汗も、ドラム缶をつついた手で顔も拭けず汗びしょりで作業をした。あの時の辛さを思えば、今はどんな苦しい仕事でも耐えられるような気がした。
休憩の合図があると、地面は砂地の道路で、焼け付くように暑いのでドラム缶の陰で休んだりしました。倉庫から出たばかりのドラム缶は冷たくて気持ちがいいのです。中にはドラム缶に、つい腰掛ける人もいました。そのために被害を受けた人もいます。炎天下のもと過酷な作業だったので、時には日射病になりかけてめまいがして医務室で治療を受ける人もいました。



大森さんは大三島で受取り芋畑へ運ぶ役だった。朝、大久野島に来て、それから大三島に船で行った。大三島に作業に行く人を積んだ船は肥溜め船や釣り船など小さな船だった。大きな船にはドラム缶などを積んで運んでいた。向こうでは男の人が船から降ろしたドラム缶を女学生が運んだ。大三島では車はなく、一つのドラム缶へ二人が付いて転がしました。ころころと転がる物もあれば、ドラム缶の中の液が固まってゴトン、ゴトンと音がして、なかなか前に転げない缶もありました。農道をごろごろ転がしながら運んだ。後ろの人が早く転がしてくると缶がお尻のほうにあたったりして大変だった。芋畑まで持って行って、芋畑の上に置いていった。穴を掘って埋めたり、重ねて置いたりはしなかった。芋畑がドラム缶でいっぱいになると、次の芋畑まで運んだ。だから、どんどん芋畑は遠くなっていった。この仕事は炎天下で大変辛かった。
大森さんは、ある日、休憩の時、土の上は暑いので、冷たくて気持ちがいいドラム缶の上に、うっかり、座ってしまった。もんぺを履いていたが、ドラム缶に付いていた液がしみ込んでお尻に水ぶくれができて、風呂に入るとそれが破れてズルズルになり、何度もお尻の皮がむけた。そのせいで、終戦間もなくお尻に一面の発疹ができ、つぶれた後のかさぶたの後が十年間も残り、娘時代から嫁入りした当分の間、恥ずかしく悩んだ。主人から、おまえの尻はどうなっているのか、といわれて、お尻にぶつぶつができてあざだらけになっているのを知りました。何回か、毒液にやられてそうなったのだと思います。
山科さんは1945年3月卒業後は製図室で働いていた。製図室は今の毒ガス資料館のあたりにあったが、窓を開けて仕事をしていると製図室の前を毒ガス工場の方からドラム缶を女学生達がゴロゴロ転がして運んでいるのを見たという。ドラム缶は今のフェリー乗り場の倉庫地帯のものだけでなく他の所からも運ばれたことが分かる。



(終戦と戦後の毒ガス救済)

1945年8月15日各職場に「みんな食堂に集まりなさい」との指示があった。集まって見るとラジオから天皇の声が聞こえたがラジオがアーアーというばかりで、何を言っているのか分けが分からなかった。放送後はみんな混乱して、うじゃうじゃして分けが分からなくなって、女学生ももう明日からは来なくて良いと言われ、その日は早い船で帰った。
終戦後は洋裁学校へ行った。特に個人的には証拠隠滅のために何かをしなさいという指示はなかったが、忠海高等女学校(現忠海高校)でたくさんの書類を焼いているのは見たことがある。医療手帳をもらうのに大久野島へ行っていたという証明が必要なので現在の忠海高校へ、当時の引率の先生が書いていた記録を見に行ったが、学校の勤労奉仕のための引率日誌みたいなものは全部焼かれていた。連合軍がきたとき一時、忠海女学校を宿舎に利用するということで、見られてはまずいと焼いたのではないかと思う。しかし成績の記録は何故か残っていた。
戦後、動員学徒に対する国の救済措置は軍属として大久野島で働いた工員と比べると大幅に遅れ、格差も大きかった。それは「大久野島の動員学徒は、毒ガスとは関係のない作業で、危険な作業はさせていない。」という一毒ガス工場上層部の言葉を根拠に国は動員学徒の救済の請願を拒否し続けた。毒ガス缶の運搬・焼却場へのゴミの運搬、など明らかに危険な作業に従事させていながら、危険な作業はさせていないという。なんと非人間的思考か。尊い乙女の青春を踏みにじり毒ガス工場という日常では考えられない危険な環境で作業させた当時の指導者の責任は重い。
「お友達の中には終戦後2、3年経って結婚しましたが、全身にオデキができ皮膚ガンのようになって死んだ人もいました。はっきりした病気の状態もつかめず死んでいきました。残っている同級生も外見は健康そうですが疲労が激しく、咳がでる鼻、のど、目、頭、足とつぎつぎ悪くなって悩んでいます。そして、皆、脊髄をやられている。脊髄がやられている人が多い。」
「子どももようやく親の手から離れて、これから楽ができるようになって、自分の体が悪くなり、本当に私達の人生は戦争の傷跡だらけです。誰に訴えることもなく、今さらあの時の状態を話しても、理解してもらえる人もなく、ただどんどん移り変わって行く今の日本を見つめて茫然としています。」
大森さんと山科さんは大久野島での過酷な作業を思い出しながら語って下さいました。

(2003年9月23日、大久野島にて)


広島県大久野島毒ガス資料館 資料より


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毒ガスの有無を察知するために飼われたウサギが
一部野生化し、現在では島のいたるところに野生のウサギが生息しています





大久野島毒ガス資料館





所在地 〒729-2311 広島県竹原市忠海大久野島
交通案内
忠海港まで広島空港から車で約45分・山陽自動車道河内ICから車で約40分・JR呉線忠海駅から徒歩約5分。忠海港から船で約15分。
大三島から船で約20分。
電話番号 0846-26-3036
営業時間 9:00~16:30(入館は16:00まで)
定休日 年末年始(12月29日~1月3日)
料金 19歳以上一般100円、団体(20名以上)80円。19歳未満一般50円、団体(20名以上)40円。