ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

特攻隊の遺書


特攻隊の遺書



特攻隊の遺書



植村 眞久 大尉

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。

素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前の母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。

私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思って、お父様が考へたのです。

私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合わせになつたのを見届けけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまつても、決して悲しんではなりません。

お前が大きくなって、父に会ひたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。

父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると眞久さんに会つている様な気がするとよくもうされていた。

またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんもまた、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福のみ念じて生き抜いて下さるのです。

必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。

優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。 昭和十九年○月吉日

植村素子へ

追伸、素子が生まれた時おもちやにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。

だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。


海軍中尉 小川 清 24歳

「両親への遺言」

人は一度は死するもの。悠久の大義に生きる栄光の日は今を残してありません。父母上様もこの私の為に喜んでください。

清は微笑んで征きます。出擊の日も、そして永遠に。   昭和20年5月11日戦死




陸軍少佐 穴沢利夫 23歳

「婚約者への遺言」

二人で力を合わせて努めてきたがついに実を結ばずに終わった。そして今晴れの出擊の日を迎えたのである。便りを書くことはうんとある。

あなたのご両親、兄弟、姉妹、弟様みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さったご親切、全く月並みの御礼の言葉では済み切れぬけれど、「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。

今は過去における長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれる事と信ずる。

しかし、それとは別個に婚約をしてあった男性として散ってゆく男子として女性であるあなたに少し言ってゆきたい。

あなたの幸せを思う以外何物もない。従らに過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない。

勇気をもって過去を忘れ将来に新活面を見出すこと。あなたは、今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴沢は現実の世界には、もう存在しない。

極めて抽象的にながれたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面場面に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉でないつもりである。

純密的な立場に立って言うのである。今頃何を言うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言ってみたい。

1 読みたい本 「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」

2 観たい画 「ラファエル聖母子像」「芳崖 非母観音」

3 智恵子    会いたい、話したい、無性に。

今後は明るく朗らかに!自分も負けずに、朗らかに笑って征く。昭和20年4月12日智恵子様



昭和20年4月12日、特別攻撃隊「第二十振武隊」隊員として一式戦闘機「隼」に乗って知覧を出撃する穴沢少尉に手を振る九州・知覧女学院の生徒たち。

大石 清 伍長 大阪府出身

なつかしい静ちゃん。お別れのときがきました。兄ちゃんはいよいよ出撃します。この手紙が届くころは、沖縄の海に散っています。

思いがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人残していくのは、とても悲しいですが、ゆるしてください。

兄ちゃんのかたみとして、静ちゃんの名であずけていた郵便通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上がるときに使ってください。

時計と軍刀も送ります。これも木下のおじさんに頼んで、売ってお金に変えなさい。兄ちゃんのかたみなどより、これからの静ちゃんの人生のほうが大事なのです。

もうプロペラがまわっています。さあ、出撃です。では兄ちゃんは征きます。泣くなよ静ちゃん。がんばれ。

※大石伍長は大阪大空襲で父を失い、つづいて重病だった母親も亡くした。小学生の妹(静恵)一人が残され、伯父の元に引き取られていった。

昭和20年4月12日戦死




富田 修 中尉 長野県出身   23歳

我が一生、ここに定まる。お父さんへ、いふことなし。

お母さんへ、ご安心ください。決して卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。

それだけで僕は幸福なのです。日本万歳、万歳、かう叫びつつ死んでいった幾多の先輩達のことを考へます。

お母さん、お母さん、お母さん、お母さん! かう叫びたい気持ちで一杯です。何か言ってください。一言でも十分です。いかに冷静になって考へても、何時も何時も浮かんでくるのはご両親様の顔です。

父ちゃん! 母ちゃん! 僕は何度でも呼びます。

お母さん、決して泣かないでください。修が日本の飛行軍人であったことに就いて、大きな誇りを持ってください。勇ましい爆音を立てて先輩が飛んでいきます。ではまた。 昭和19年9月3日台湾にて殉職


関 行男 大尉 23歳

神風特別攻撃隊敷島隊 昭和19年10月25日比島レイテ湾にて特攻戦死

西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。

武人の本懐此れにすぐることはありません。鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を御許し下さいませ。

本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。

皆様御体大切に。父上様、母上様。教え子へ(第四十二期飛行学生へ) 教え子は 散れ 山桜 かくの如くに

里子殿

何もしてやる事も出来ず散り行くことは、お前に対して誠に済まぬと思って居る。

何も云わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来て居る事と思う。

御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様、色々思出をたどりながら出発前に記す。恵美ちゃん坊主も元気でやれ。 行男


一飛曹 塩田 寛 18才

昭和19年10月26日 レイテ沖にて特攻戦死

戦いは日一日と激しさを加えて参りました。

父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。

私は潔く死んでいきます。今日の海の色、見事なものです。決してなげいて下さいますな。

抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。

既に今日あるは覚悟の上でしょう。私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。

今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。

この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。

故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。

しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。

お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。育子、昌子の二人は私の様に母に甘えたり叱られたり出来ないかと思うとかわいそうです。

いつまでも仲良くお暮らし下さい。私も喜んで大空に散っていきます。

平常あちこちにご無沙汰ばかりしておりますから、何卒よろしくお知らせ下さい。お願いします。御身大切にごきげんよう。



海軍一等飛行兵曹 松尾巧 享年20才

四月六日午前十一時記す 神風特別攻撃隊 第二御盾隊銀河隊 昭和20年4月7日

謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。

今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。

この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。

沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。

男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。

護国の花と立派に散華致します。

私は二十歳をもって君子身命をささげます。

お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。

家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。生前の御礼を申上げます。

私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもして下さい。

近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく、妹にも……。

後はお願い致します。では靖国へまいります。


茂木少尉

遺言 (昭和二十年三月 母への言葉)

僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。

お母さん、よく顔を見せて下さい。

しかし僕は、何んにも「カタミ」を残したくないんです。

十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。

お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。

それが僕の別れのあいさつです。


終戦の詔勅 (玉音放送

18歳の回天特攻隊員の遺書


お母さん私はあと3時間で祖国の為に散っていきます。

胸は日本晴れ。

本当ですよお母さん。

少しも怖くない。

しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。

それは、今日私が戦死する通知が届く。

お父さんは男だからわかっていただけると思います。

お母さんは女だから、優しいから涙が出るのではありませんか。

弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。お母さん。

こんなことを考えていましたら、私も人の子。

やはり寂しい。

しかしお母さん。考えてみてください。

今日私が特攻隊で行かなければ、どうなると思いますか。

戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。母さん。

今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで銃を取るようになりますよ。

だからね。お母さん。

今日私が戦死したからといって、どうか涙だけは耐えてくださいね。

でもやっぱりだめだろうな。

母さんは優しい人だったから。

お母さん、私はどんな敵だって怖くありません。

私が一番怖いのは母さんの涙です。




大東亜戦争末期 昭和19年6月15日

ついにサイパン島が陥落。

B29による日本本土の直接爆撃が可能となった。

さらに日本と両方の石油をつなぐ戦略的な要所であるフィリピンの攻略に米軍が動いた。

フィリピンを守る航空艦隊の戦力、零戦わずか40機。これだけの戦力でどうしようもないことは明らかと思われた。



特攻の父と呼ばれた大西中将が特攻隊編成直後涙ながらに、隊員たちに語った言葉がある。

特攻は、統率の外道である。もう戦争は続けるべきではない。
 
ただアメリカを本土に迎えた場合、歴史に見るインディアン、ハワイ民族のように、闘魂あるものは次々に各個撃破され日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。

しかし、特攻により敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができる。その為に………特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。しかしこれは、九分九厘成功の見込みなどない。

では何故見込みのないのにこのような強行、愚行をするのか。

ここに信じてよいことがある。

いかなる形の講和になろうとも日本民族がまさに亡びんとする時に、当たって身をもって防いだ若者達がいたという歴史の残る限り、500年後、1000年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう。
 
神風特別攻撃隊の編成である。この時全員が両手を上げてこの作戦に賛成した。

当時の隊員たちの士気はそんなものであったのだ。




大空に雲は行き雲は流れり すべての人よさらば後は頼む 征って参ります イッテマイリマス ノチノニホンニ エイコウアレ

この言葉を胸に隊員達は飛び立っていった。自らもメッセージを残して。

特攻隊員の出撃前の世話をしていた九州・知覧女学院の生徒たちである彼女たちは、事前の検閲のある中、多くの遺書を密かに預かっていました。