ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

俺は何もしない







日本人は何もしないためなら何でもする













ネットの中で言われている、いまや有名かもしれない言葉・・・





「日本人は何もしないためなら何でもする」





日本をよく知る外国人が語った言葉とされていますが、この言葉について、しみじみ「その通りだな…」と感じずにいられません。





「やらない」ためには、どんな言い訳でもする。

「変化しない」ためには、どんな言い訳でもする。

やる前から「できない」、だから「仕方ない」。



その実は、「やりたくない」「変化したくない」。



自分で動くのではなく、「誰かに変えて欲しい」。

誰かが変えてくれないなら、「しょうがない」。



自らが変化しないためには、どんな言い訳でもし、どんな不都合な現実にも目をつむる。



不都合な現実や、考えたくないことには、蓋をすれば万事解決。






こういう国民性なのだということを痛感します。それは原発事故後にも様々な場面で見かけられてきました。



自分たちの住む場所が汚染されているとわかっても、動けないのだから仕方ない。お金がない。仕事がない。誰もやってくれない。



でもそれを打破しようという「言動」「姿勢」さえもない。どうすれば実現できるか実現のためのアイデアを考える作業のようなこともない。



最初からできない前提になっている。最初から諦める。仕方ない、と。



とにかく、「困難に打ち克って行動を起こすことに関しては天下一・天才的」なのであればいいのだけど、そうではなく「やらない言い訳をすることに関しては天下一・天才的」というのがあちこちに見えるのです。





原発事故と汚染も「何もしないためには何でもする」で乗り切ってきた





ここで「何もしないためには何でもする」を、福一事故や放射能汚染に当てはめてみます。





汚染されてるとわかってる場所で、避難しない・させないためには・・・・・











汚染されてると認めない。

このくらいの汚染は問題ないと言う。

偉い人が言うのだから大丈夫と信じる。

笑っていれば大丈夫と信じる。

除染できると信じる。

基準値を殺人的な数値に上げてしまう。

子どもにバッジをつけさせてその場で過ごさせる。

汚染が出ている場所の食べ物を食べて応援する。

子どもに汚染地でマラソン大会させる。

子どもに汚染地で清掃活動させる。

子どもに汚染地で潮干狩りさせる。

汚染水が今なお漏れてる場所で漁業を再開する。

汚染がされてる食べ物でも「基準値内」といって出荷する。

汚染水が今なお漏れてる場所でサーフィンする。

息子娘・孫の避難を阻止する。

避難した娘息子を汚染された地へ帰還させようとする。

避難した娘息子に「親不孝者」となじる。

汚染瓦礫を全国に拡散する。

買わない者に対し風評被害となじる。

いまだ高汚染の避難区域を解除する。

アンダーコントロールと世界に嘘を発信する。

子どもを汚染された地に修学旅行に行かせる。

東日本JRの駅を「福島」ポスターだらけにする。






本当に、本当に、何もしないためには何でもします。





なんにもしないためなら、なんでもする





ネットの中で、「日本人はなんにもしないためなら、なんでもする」ということを外国の方が言っていたという言葉をみつけて、本当にそのとおりだと思いました。



変化を望まない。



たとえ、自分のふるさとが汚染されても、強硬に自分たちの都合を推し進めて、未来に生きる世代のことは考えない。汚染された山菜食べるのが食文化です!その食文化のほうが、子どもたちの健康を害するかもしれないことより大切だと。



そこまでしなければ守れない食文化のためなら、なんでもする。除染もする。基準も20mSvにあげる。人間を放射能汚染のレベルに合わせるという、本末転倒ぶりです。(中略)



先日も、モニタリングポストが異常!ということを書いたら、それは調子が悪いのだ!と。しかし、どうやらやはり数字があがったり下がったりしているし、それは関東の各地でも確認されています。



そしたら、今度はモニタリングポストそのものを故障するからはずす!という。



モニタリングポストは、毎日がミニ核戦争の中で、それが設置されてる地域の救命胴衣のようなものです。



数値の改ざん、その周囲だけ除染しておくなど姑息なことはあっても、万が一、行方不明になった核燃料が爆発でもしたり、あるいは地中からガスをふきあげたりして、異常が起こった時、いちばんはじめに数字でとらえる、あるかないかわからない国のせめてもの責任の一端のはずなのに。



それさえも、外してしまうと。この発想の異常さにあいた口がふさがりません。(後略)



行政側だけでなく、国民側もそう。



自分で動こうとしない。自分から動こうとしない。誰かがやってくれると期待する。誰かがやってくれるのを待っている。変化をしたくない。何も変えたくない。誰かに依存していたい。お上・大物に依存していたい。やるのは他の誰か。誰かがやる。誰かに従う・ついていく。



誰もやらないなら、仕方ない。できない。諦める。





「自分で体を張って動いて変化する」





という価値観が、日本という国では一般的に見られないのを思います。



やってみてできないなら仕方ないけれど、やろうと「考える」こと自体しない。やってみようという「姿勢」「言動」さえない。そういう「発想」が、そもそも存在しない。言葉は悪いけれど「奴隷根性」という言葉がぴったり当てはまってしまう。



「自分で体を張って動いて変化する」ということが当たり前の国に住んできて、それに慣れていた自分には、日本でのそのような様子に逆カルチャーショックとともに驚愕するばかりです。























上記写真は以下の動画から。海外メディアで放映されたものです。















「日本人は何もしないためなら何でもする」





どこまでいつまでそれを通していくのだろうと思います。



それを通している限り、いつかは破裂し破綻することでしょう。



残念ながら、その日は近いと思います。



いやすでに見えないところでおとずれているのでしょう。































すべては気づき さんより

画像は追加しています。