ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

俺は順調だった


俺は順調だった






生まれた時代と社会が悪ければ、個人の努力も無に帰す現実


シリアでは国家体制が崩壊して、2016年現在も国内は激しい内戦と社会的混乱の中にある。

アサド政権支持者、反政府組織、ISISイスラム国)のような超過激暴力集団が三つ巴となって国家を蹂躙し、国民の半分が難民となって国外に流出した。

もし、私たちがシリアで生まれていたら、私たちがいかに向上心を持ち、強い夢を持ち、楽観的に生きたとしても、すべてが無に帰したはずだ。



シリアだけではない。イラクに生まれていても、アフガニスタンで生まれていても、パレスチナで生まれていても、似たような状況に遭っただろう。

ある国に生まれていても、年代によって幸運な人生になったり、不幸な人生になることもある。1930年代に生きていた人々はほとんどの人が第二次世界大戦に巻き込まれて地獄を見ていた。

中国は今でこそ経済発展の恩恵に浴する国民が出てきているが、1966年から1976年までの文化大革命の時代に生きていたら地獄だったはずだ。

ソ連では1980年代から1990年代に生きていたら国家崩壊に巻き込まれていた。時代が混乱と激動と戦争に向かっていったとき、私たちはもう為す術がない。



バブル期と就職氷河期とでは時代がまったく違う


人の人生はその時々の社会の動きによって大きく左右される。日本のように長らく戦争や国家的大混乱から離れている国では、それがあまり自覚されなくなっている。

しかし、それでも社会の動きが人生を左右するという現実は変わらない。

人生の中で最も重要なのは「どんな仕事に就くのか」という部分にあるが、1980年代のバブル期はどこの企業も太っ腹に人を採ったのでこの頃に就職活動をしていた人々は幸運だったと見なされている。



しかし、バブルが崩壊し、企業が次第に不況に飲まれていくようになると急激に時代が変わった。企業は当然のように人を採らなくなったのだ。

2000年代に入ってからも状況は悪化する一方だった。グローバル化による競争の激甚化が進むと、企業はますます人材を抱えるのを嫌うようになった。

そのため、この時期に就職活動をしていた人々は「就職氷河期」とも言われて、面接に行った企業にことごとく振り落とされてしまうことになった。

バブル期と就職氷河期とでは、時代がまったく違った。そして、時代に翻弄される人がいつの時代でも出てくる。個人の努力を超えたところで起きている時代の流れは、すべてをなぎ倒してしまうのだ。



仕事がうまく見つからなかったり、リストラされたり、失業したりすることは珍しくない。多くの人たちはそのとき、それを「自分のせい」にする。

なぜなら、誰もが自分と同じ境遇ではなく、同時期に貧しくない人も存在するし、人生を楽しんでいる人もいるし、仕事がうまく行っている人もいるし、楽に内定をもらえる人もいるからだ。

そういう人がいる中で自分が挫折を味わうと、それは自分のせいなのだと単純に思うのは無理もない。

「時代が悪い」などと言うと、「いや、お前が悪いのだ」と反論されて終わりだ。この世に完璧な人はいないから、お前が悪いと言われて反論できる人はあまりいない。



「時代が悪い」という時期があることに気付く

歴史をよく観察すると、社会は常に良い方向にも悪い方向にも動いており、まぎれもなく「時代が悪い」という時期があることに気付く。

社会は、好況と不況を繰り返す。混乱と安定を繰り返す。もし、社会が不況で混乱しているのであれば、時代が悪いという見方は責任転換ではない可能性もある。

「時代が悪い」というと、必ず「自分で努力もしないで、他に責任を押しつけている」と言われる。言われなくても、そう思われることも多い。

本当に何の努力もしない人に限って「時代が悪い」と責任転換することが多いので、「今は本当に時代が悪いのだ」と言う人がいても、どうせ責任転換だと思われるのがオチだ。

だから、まじめな人であればあるほど、どう見ても時代が悪くても「時代が悪い」とは言えなくなる。そう考えても、それを打ち消して「いや、自分が悪い」と思い込もうとする。

日本は1990年を頂点にして、経済失速が隠せなくなり、2000年に入ってからは正社員になれない若者や、リストラされる中高年が爆発的に増えた。

自殺が毎年3万人を超え始めたのもバブル崩壊後である。社会は大きく激変していたのだが、当初の人々の見方はまったく違った。

「若いやつは努力しないから正社員になれないのだ」
「仕事ができない人間がリストラされている」

実際は、日本企業がグローバル経済の激甚な競争に飲み込まれ、経済的に無策を続ける日本政府や官僚の姿勢も重なって、日本人はそのツケを払っていたのである。

最初は多くの人々がそれに気付かなかった。人々はそれを、個人の責任論に転化していた。「自己責任」という言葉が流行ったのは2000年以降だ。

しかし、ニートフリーターのような立場に陥ってしまった若年層が100万人規模になり、中高年が次々とリストラされ、高齢層や女性が貧困に堕ち、経済的にどうにもならない人たちが莫大に増えた。

それを見て、やっと日本人は「時代が悪い」と気付いたのだった。一部の人の問題ではなかったのである。



人によっては、人生の3分の1が悪い時代だった


もうバブル崩壊から25年以上経っている。日本が「悪い時代」に入ってから25年以上も経ったということになる。

25年と言えば、人の人生の3分の1近くの年月である。人によっては「人生の3分の1が悪い時代だった」と言えば、いたたまれないはずだ。

生活保護受給者もじわじわと確実に増え続け、もう216万人を超えている。

その多くは高齢者なのだが、日本はこれから高齢者が増える国なのだから、生活保護申請は多少の増減をしながら、最終的にはもっと増えるのは間違いない。

若年層の貧困化も加速する一方だ。しかも離婚も増えているので、シングルマザーの貧困化も拡大している。

国が成長しているときや、世の中が活況に沸いているとき、人はそれほど努力しなくても生きていける。時代の波について行きさえすれば、経済的に苦しまなくてもいい。

今は、逆だ。今まで幸せに暮らしていた人も、今後はどうなるのか分からない地獄のような世界が待っている。少なくとも、日本が経済失速を止められないと、そういうことになる。

時代が悪い方向に向かって転がり落ちていると、個人の努力をすべて叩きつぶしてしまう。日本人はそれでもすべて自分のせいにして「社会が悪い」とは最後の最後まで考えない。

それは一種の美徳なのだが、客観的に見ると正しい見方をしていない。



社会が悪いのに、自分が悪いと全面的に思い込い込むと間違った社会のあり方を変革する声がどこからも出てこなくなって、人々は社会に殺されてしまうことになる。

戦争が起きて、まわりで人が撃ち殺されているときに幸せになれないというのは誰もが知っている。それは社会が悪いと誰もが分かる。

しかし、銃弾が飛び交わなくても、リストラ・失業・自殺・経済苦が蔓延していたら、見えない銃弾が飛び交っているのと同じなのだ。そんな世界で幸せになれない。

どんな時代になっても、その中で生きる努力する必要があるが、同時に「社会が悪い」と気付く視点も持つ必要だ。日本を蝕んでいる「何らかの要因」がある。

政治や経済や教育を正しい方向に向けさせない「悪い要因」が日本の社会の中に存在するのだ。



責任転換のためではなく、現実を見るために、社会が悪いことをあなたは気付かなければならない。そうしないと、いろんなものが手遅れになってしまう。



どんな時代になっても、その中で生きる努力する必要があるが、同時に「社会が悪い」と気付く視点も持つ必要だ。日本を蝕んでいる「何らかの要因」がある。政治や経済や教育を正しい方向に向けさせない要因があるのだ。