ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

仇をとってくれ


仇をとってくれ




「悔しさ」を感じない戦後日本


現在の米国の政治は、とても無批判に信頼できるものではないはずなのですが、日本では、TPPや米国政治に対する懸念は、大きな声とはなりません。どうも戦後日本は、対・米国をはじめとする国際関係の場において、「悔しさ」という感情を過度に抑圧し、なるべく意識しないようにしているようです。



なぜ戦後の日本人は「悔しさ」の感情を失ってしまったのか?

「米国についていけば大丈夫」の思考停止

TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の承認案と関連法案の質疑が、来週半ばから衆院本会議で始まるそうです。いままで本格的な論戦が国会でなされてこなかったので、十分な審議を期待したいところです。

ただ、こんな記事もありました。

TPP交渉の記録作成せず 日米閣僚協議で政府 – 東京新聞(2016年3月30日付夕刊)

この記事の伝えるところによると、TPP交渉を担当した甘利明前TPP担当相と米国のフロマン通商代表の閣僚協議に関し、政府は交渉記録を作成して来なかったそうです。



TPP交渉は、条約発効後4年間、交渉過程を秘匿することになっています。各国の交渉担当者が政治的責任を負いたくないからでしょう。この取り決め自体、民主主義の原則に反していますし、交渉過程の記録もとっていないというのはおかしな話です。

米国の大統領選挙では、結局、残っている候補は全員、濃淡あるにしても「TPP反対」を打ち出しています。なのに、日本では、TPP反対論は盛り上がっていません。

TPP批判が盛り上がらない理由は、一つは大手マスコミの報道姿勢にあるでしょう。

先日、ジャーナリストの岩上安身氏にインタビューを受けた際に、直接、聞いたのですが、岩上氏が以前、10年以上の長きにわたって務めていたフジテレビの「とくダネ」のコメンテーターを降ろされたのは、番組内でTPPに対して批判的コメントを述べたためだったとのことです。テレビや全国紙などの大手マスコミでは、スポンサーに輸出関連の大企業が多いからか、TPP批判は好まれないのでしょう。

他の理由としては、やはり「米国についていけば大丈夫」「米国の進めるグローバル化戦略に乗っていれば間違いない」という、ほとんど思考停止といってもいいほどの過度の米国への信頼があるように感じます。

来日したスティグリッツ氏も述べていたように、TPPとはグローバル企業の利益をもっぱら反映したものであり、そうした企業のロビイストの強大な影響力を排除できない現在の米国の政治は、とても無批判に信頼できるものではないはずなのですが、日本では、TPPや米国政治に対する懸念は、大きな声とはなりません。

ところで、昨日、報道がありましたが、ウグイスや虫の鳴き声の声帯模写で知られる演芸家の四代目・江戸屋猫八さんが亡くなりました。私より若い世代には、テレビゲーム番組の司会者としても知られていたそうですが、私は、このかたと、このかたのお父上である先代の江戸屋猫八氏(三代目、1921~2001年)がテレビの演芸番組でよく共演し、見事な、ウグイスや鈴虫の鳴き声の物まね芸を披露していたのを思い出します。

以前、私は、三代目のほうの江戸屋猫八氏の自伝『キノコ雲からはい出した猫』(中央公論社、1995年)を読んだことがあります。

三代目の猫八氏は、戦時中、陸軍にいたそうです。原爆が広島に投下された当時、爆心地から三キロ離れた宇品に駐屯しており、投下直後に広島入りし、救援活動に従事しました。

猫八氏の自伝によれば、原爆で負傷した人々が、軍服を着た猫八氏に息も絶え絶えにかけた言葉はだいたい次の二つだったそうです。一つは「水を下さい」、もう一つは、 「仇をとってください」でした。

「水を下さい」のほうは、原爆にまつわる現在の語りのなかでよく聞きますが、後者の「仇をとってください」は、ほとんど耳にしません。

米国に原爆を落とされ、自分自身や家族を傷つけられた人々が、軍装の猫八氏に向かって、こんな目にあわされて悔しい、私や家族の仇をうってください、と言ったというのは、考えてみれば、生々しくも自然な感情でしょう。

しかし、戦時中の記憶についての現在の語りでは、「悔しさ」にはほとんど焦点が当てられません。

どうも戦後日本は、対・米国をはじめとする国際関係の場において、「悔しさ」という感情を過度に抑圧し、なるべく意識しないようにしているようです。



伝説の英霊 船坂弘氏



社会学者の竹内洋氏は、著書『革新幻想の戦後史』(中央公論新社、2011年)のなかで、戦後の言論空間の歪みを指摘しています。

丸山眞男氏などの進歩的知識人は、「悔恨共同体」という言葉を使い、戦後日本社会を表現しました。「悔恨共同体」とは、知識人の一部にあった感情パターンに過ぎないのですが、丸山氏や「リベラル派」(左派)のマスコミは、日本国民全体が持っていた感情であるかのように描きました。つまり、「あの戦争を止められなかった」ことを日本人のほぼ全員が後悔しているという図式を当然のように扱ってきました。

竹内氏は、「『悔恨共同体』とは、敗戦後、戦争を食い止められなかった自責の念と、知識人として将来の日本を新しく作っていかなければならないという気負いがない交ぜとなって形成された感情共同体」と定義しています。その上で竹内氏は、確かに悔恨共同体という側面もあったかもしれないが、戦後日本社会には、別の感情共同体も存在していたのではないかと疑義を呈しています。

竹内氏はそれを「無念共同体」と表現します。無念共同体とは、「戦争をやむを得なかったと捉え、敗戦を悔しく思う感情共同体」と定義されます。

竹内氏は、戦後の日本社会を、戦争を止められなかった自責の念からなる「悔恨共同体」と捉える視点と、戦争をやむを得なかったと見、敗戦を悔しく感じる「無念共同体」と捉える視点のせめぎ合いと理解すべきであるのに、いわゆる進歩的知識人の視点からは「無念共同体」の観点がすっぽりと抜け落ちてしまっていると指摘します。

進歩的知識人だけでなく、彼らを重用してきた戦後の大手マスコミの問題でもあるでしょう。GHQの検閲も一因でしょうが、戦後から現在に至るまで、大手マスコミが影響力をふるって形成する世論では、対・米国をはじめとする国際関係の場において、「悔しさ」という感情が表面化されず、「悔しさ」を感じるべき事態に日本があるという事実をなるべく認識しないようにしているかのようです。

佐藤健志さんや評論家の岸田秀氏が以前から指摘してきたことですが、日本人の多くは、日本が先の大戦で米国に敗れ、それから現在に至るまで、実際上、保護国(属国)の状態に置かれているという事実を正視できないという点で、あまり健全でない精神状況に陥っているようです。

米国の要望だと思われるものを、日本人の多くは先読みして、これは米国から無理やり押し付けられたものではなく、自分たち自身にとって良いのだ、自分たち自身が望んでいるものなのだ、と考えるようにしているかのようです。TPPにしても、あるいは「英語化」政策の問題にしても、批判があまり大きな声にならないのは、こうした日本人の意識やこれを助長する戦後の言論空間の歪みが根底にあるといってよいでしょう。







オバマ広島訪問の裏。日本では決して報道されないフザけた「誠意」




インターネット時代に求められる「英語を読む力」


英語の勉強と言えば、ひと昔前は分厚い辞書相手に格闘すると相場が決まっていたが、最近ではiPhone片手にスタイリッシュに勉強する学生も珍しくない。

なるほど、電話、インターネット、メールを中心に様々なアプリがビルドインされ、当然のことながら辞書機能も充実しているだろうから、勉強にこれを利用しない手はない。そんなiPhoneを活用した学習とはアカデミックでお洒落でもある。そんな学生の姿を、通勤途中の多摩モノレールの車内で見かけた。

ところで、「英語の勉強」と聞いてほとんどの人が真っ先に思い浮かべるのが「英会話」である、というのも何ともおかしな話でもある。

仕事で必要であるならば確かに英会話は欠かせないわけだが、このインターネット時代に最も大切なのはむしろ「英語を読む力」だと思われるのだ。英文の読解力を身につけただけで情報のフローが格段に上がるであろうことは想像に難くない。

これに文章力が加わればSNSを通じて(ネット限定であるとはいえ)交友関係がグローバルに一気に広がるのは間違いないだろう。これであなたの人生の次元は数段上がる。そして、最後に会話力が備われば、日本で一人しこしこと消耗している理由など吹っ飛んでしまう。好きな国で、好きなように生きれば良いのである。

さて、私が敬愛する天木直人氏と言えば、世間的には「元レバノン全権大使」として紹介されることが非常に多いわけだが、意外に知られていない事実として、1974年にアメリカからフォード大統領が来日した際に通訳を務めたのが天木氏だっということが挙げられる。

ライス補佐官“日本は興味深い”発言に秘められた意味

そんな天木氏が最近のニュースの中で、英文の和訳という観点から非常に気になったものとして、オバマ大統領の広島訪問に際してのライス大統領補佐官の発言を挙げている。

ライス補佐官は米CNNのインタビューに答えてこう言ったという。


「興味深い事に、日本は謝罪を求めていないし、私たちはいかなる状況でも謝罪しない」

この「興味深い…」発言は私もピンときた一人である。その本意は絶対に「興味深い」ものではないことは明らかであると思われた。この報道の日本語訳は間違いなく日本人向けに意訳されており、本質が覆い隠されている。これもミスリードの一つだ。


彼女は、日本が謝罪を求めて来なかったことについて、It is interesting…と言ったのだ。

日本の報道ではこの部分をこう訳している。


「……興味深い事に日本は謝罪を求めていないし、私たちはいかなる状況でも謝罪しない」と。


しかし、このinterestingという言葉は、単に「興味深い」というだけではなく、「面白い事に」とか、もっといえば「意外にも」、とか、「不思議な事に」、と言った意味を含んでいる言葉だ。


つまり、この謝罪を求めないということは岸田外相も認めている事ではあるが、岸田外相は、無理をして謝罪を求めて警戒心を抱かせてはオバマ大統領の広島訪問は、実現できるものもできなくなる、だからあえて日本側から強く謝罪を求めなかった、といわんばかりだが、このライス補佐官の言葉はまったく違う。

本来なら謝罪を求めてくるのが日本政府の立場であるのに、謝罪はしなくてもいいから、とにかく広島に来てくれと日本側から頼み込んできた、そのことがinterestingだったと言ったのだ。

日本側の強い要請があった事をバラしたのだ。

出典:天木直人メールマガジン 2016年5月17日 第401号


「情けないことにねえ、日本は謝罪を求めないんだってさ!」


最も価値観を共有しているトモダチなどと言い、散々持ち上げておきながら、アメリカは日本を軽蔑し小馬鹿にし、そして忌み嫌っているところがある。

要するに、「情けないことにねえ、日本は謝罪を求めないんだってさ!」と言いたいのだろう。そして、そこまでコケにされてもなおオバマに日本に来て欲しいと思っている安倍首相や岸田外相とは、どれだけ間抜けでナイーブなんだろうと呆れてしまう。

この場合の“ナイーブ”とは“繊細であること”ではなく“世間知らずの素人”といった意味だ。

とはいえ、日本がアメリカに対し毅然と謝罪を求めても、アメリカは絶対にそれに応じることはないだろう。アメリカをドラえもんジャイアンに例えて“ジャイアニズム”と皮肉る識者がいるほど、アメリカは自らの非を認めない国だ。

そして、そんな横柄なアメリカを受け入れ、謝罪を求めない日本は、広島という核兵器の犠牲になった日本国土の一断面という系譜から捉えれば、まさに「核兵器を容認する」と言っても過言ではない態度を示していると言えるのだ。


日本のことなど眼中にないオバマ

オバマ大統領にしてみれば今回の広島訪問は、アメリカ大統領として最後の錦を飾る重要な位置づけにあると考えることができる。

しかしそれはあくまでノーベル平和賞受賞のきっかけとなったプラハ演説をどうにかして完結させ、なおかつ一定の歴史的偉業の象徴とする必要に迫られているだけである。

その意味において、オバマ大統領は当初の期待を完璧なまでに裏切り、かつ就任当初からレームダックな大統領であった。つまり、皮肉なことではあるがノーベル平和賞は最後までオバマを制約し続けたのである。

だから、オバマは広島訪問に際しても日本のことなど眼中にない。オバマとはつまらない男だと思う。


「対米従属」に奔走する我が国日本と安倍政権

そして、これまた壮大なる政治ショーに躍起となっている安倍首相もまたつまらない首相であり、それはあたかもオバマ来日によって「対米従属」「核の傘」、そして「核武装」をも肯定しているかのようだ。

これは広島の方々に向かって唾を吐き捨てるような行為だ。

こんな日本の首相など広島に来て欲しくはないし、無論、オバマ大統領に対しても我々は言ってやろうではないか。


「あなたが広島を訪れることは興味深いことですが、日本に来てくださらなくて結構です」と。



MONEY VOICEさん記事より
画像は追加しています。



何故今更、オバマが広島訪問?
戦争を知らない俺たちが
抱く嫌な予感。
世界を破滅へと導く
最期の戦いは、もう始まるのか?
鉛色の空を見上げ、叫んでいるのは俺だ。