ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

占守島の戦い(2)


占守島の戦い(2)




「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」

池田末男さんという方がいます。
陸軍少将です。愛知県豊橋市出身の方です。

池田さんは、戦前「戦車隊の神様」と呼ばれました。
戦車学校教官当時には「キ戦車隊教練規定」という教程を編纂し、陸軍戦車学校校長に就任されています。

その陸軍戦車学校に、福田定一という生徒が入学してきました。
後の小説家、司馬遼太郎です。

司馬遼太郎は、昭和の軍人に対して概して批判的な小説家として知られ、自身の戦車部隊員であった過去を回想し、戦車隊のことを必ずしもよくは書いていませんが、その司馬遼太郎が、戦車学校校長だった池田末男さんに対してだけは、たいへんに尊敬する人物として著作の中で紹介しています。

池田末男陸軍少将(士魂戦車隊隊長)



池田末男さんは、戦車学校校長職を辞した後、戦車第十一連隊長に就任しました。
「十一」は、縦書きすると「士」の字に見えます。
なので十一連隊は、自分たちのことを「士魂戦車隊」と呼んでいました。

士魂部隊は精鋭部隊でした。
そして士魂部隊は、戦争末期、北海道の沖合に浮かぶ千島列島の最北端の島、占守島(しゅむしゅとう)に転進を命じられたのです。

池田隊長は豪放磊落かつ温和な性格の方だったといいます。
部下たちの誰もが、池田隊長のことを心から信頼していました。

こんなエピソードがあります。

占守島は、夏場でも気温が15度を上回ることがありません。
日中は濃霧に覆われ、冬場は気温が零下30度にも達します。
雪は電信柱が埋まるほど積もり、そして年間を通じて風速30Mの暴風が吹き荒れる島です。

そういう身を切るような寒さの占守島で、池田隊長は、絶対に自分の下着を部下に洗わせなかったのだそうです。
全部、自分で、冷たい水に手を入れて洗濯していたのです。

申し訳なさそうにしている当番兵に、池田隊長はこう言ったそうです。


「お前はオレに仕えているのか? 国に仕えてるんだろう?」




学校では、「昭和20(1945)年8月9日、ソ連が日本との日ソ中立条約を破棄して、満州に攻め込み、その後、日本はポツダム宣言を受け入れて、8月15日に終戦となった」と教えます。

しかし、そのあとに激戦が行われた地がありました。
そのひとつが占守島でした。

8月17日、重要書類を全部焼いて、翌日には戦車を全部海に沈めることが決まった士魂部隊は、第十一連隊本部で、その夜残念会を開きました。
池田連隊長を囲んで、主な将校が10人ほど集まって酒を酌み交わしました。

池田連隊長は、連隊長は酒を飲むときは無礼講が好きで、いつもなら豪放磊落な酒盛りになる人です。
けれどこの日は、しんみりとした雰囲気につつまれました。

彼は若い木下弥一郎少尉に、
「木下、15日以降、俺は廃人になった。お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話していたそうです。

酒の席も解散になり、みんなが就寝し、深夜の日付が変わって18日となった午前1時のことです。
突然対岸のカムチャッカ半島側から長距離砲弾が島に撃ち込まれました。
そして占守島北端の国端岬一帯に、多数の上陸用舟艇が接近し、数千の兵力が強襲上陸してきたとの報が飛び込んできます。

武装解除を求める使節団なら、このような深夜の上陸はありません。
ということは、あきらかに侵略行為としての強襲です。

東浜海岸の竹田浜に展開していた部隊は、第三中隊の2個小隊(約80名)だけです。
彼らは突然包囲され、攻撃を受け、激戦となります。

この時点で、まだ敵の国籍は不明です。
いまでいったら、これまでまったく戦闘実績がなく、終戦がきてなお平安だった土地に、いきなり正体不明の謎の軍団が砲撃を加え、土地を占領して攻撃を加えてきたという状況となったのです。

しかも夏場の濃霧の時期です。
10M先も見えない。
その見えない先から、砲弾や銃弾が飛んでくるのです。

謎の軍団が上陸した国端岬にいた速応少尉は、岬の洞窟にあった野戦砲二門で、謎の軍団が上陸した竹田浜を側面から射撃します。

霧で見えない。
しかし、このとき来襲した謎の軍団は、駆逐艦2隻、6千トン級の輸送船4隻、兵力13,000千人という、まさに海を覆わんばかりの大部隊でした。

こういうとき、ものをいうのが、日頃の訓練です。
速応少尉は、霧で見えない敵に向かって、人馬殺傷用の榴弾をこめてメクラ撃ちしました。
そして敵の船13隻を撃沈し、さらに戦死者2千人、海を漂流した者3千人という大損害を与えました。

上陸を阻止された謎の軍団は、対岸のカムチャッカ半島の突端にあるロバトカ岬から砲撃をしてきました。
これで、敵が誰なのかがはっきりとしました。
ソ連です。

しかし、長距離砲は、巨弾です。
このままでは速応隊が全滅してしまう。

長距離砲撃を知った四嶺山の坂口第二砲兵隊長は、直ちに15センチ加農砲2門で、これに応射しましました。
これまた日頃の訓練の賜物です。
坂口第二砲兵隊は、濃霧の中を見えない敵に向かって長距離砲撃し、わずか20分で敵の長距離砲を完全に沈黙させてしまったのです。



一方、上陸してきた部隊を迎え撃った歩兵大隊は、敵の艦艇を14隻以上撃沈、擱座させ、戦車揚陸艇ほか多数の上陸用舟艇を破壊。
さらに敵指揮官が乗る舟艇まで撃沈し、敵軍団を無統制状態に陥らせます。

それでも敵は13,000名を擁する大軍です。
これら応戦をしていた日本側の正面の歩兵大隊は、わずか600名です。

敵は多数の死傷者を出しながらも、陸続と後続部隊を上陸させてくる。
そして、内陸部に侵攻を開始してきます。

当初、報告を聞いた師団参謀は、国籍不明といっても米軍だと思ったそうです。
後に相手がソ連とわかった時はびっくりしたそうです。
参謀は、軍使が来たのが手違いで戦闘に発展したのかとも考えたのだそうです。
しかし時間が時間です。
加えて何千人という兵力です。
さらに、ロパトカ岬からの砲撃もある。
これは明らかに軍使ではない。

午前2時10分、第91師団長は決断します。


「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」

全軍直ちに戦闘配置につきます。
戦車1個連隊と歩兵1個大隊、工兵一個中隊は、先遣隊として竹田浜に急行しました。
占守島南端の第73旅団は、北の要点・大観台に司令部を進出させ、戦闘に参加しました。
隣りの幌筵島の第74旅団も占守島に渡って敵を攻撃することになりました。
幌筵島の師団司令部も占守島に移動開始です。
第5方面軍司令官樋口季一郎中将は、同時に濃霧の隙間をついて陸海軍混成の航空部隊8機をソ連艦艇への攻撃のため飛び立たせました。


「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」

士魂部隊にも、司令が下りました。


「戦車隊前進せよ」


池田隊長は直ちに各中隊長、小隊長を集めました。
そして自身は、真っ先に準備の出来た戦車に飛び乗って走り出します。


「天与の好機逸すべからず。各隊長は部下の結集を待つことなく、準備のできたものから予に続くべし!」


このとき戦車連隊は、武装を分解中でした。
すぐには出撃できない状態にあったのです。
それでも総員必死で武装を取り付け、直ちに出撃しました。

濃霧の中、途中の位置で部隊は集結します。
そこで池田隊長は、全戦車部隊隊員に訓示しました。


〜〜〜〜〜〜〜〜
諸士、ついに起つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、
決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し、
後日に再起を期するか。
白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。
〜〜〜〜〜〜〜〜

このとき不思議なことが起こりました。
濃霧が突然、さっと薄れたのです。
そして、その場にいた全員が見たのです。

それは、霧でおぼろにしか見えなかった隊員たちが、全員が挙手している姿でした。
士魂部隊は、全員、白虎隊となることを選択したのです。

若い木下弥一郎少尉も、池田連隊長のそばにいました。
しかし、定員オーバーで戦車の中に入れない。
池田連隊長は、戦車を止めて、木下弥一郎少尉に下車を命じました。
「木下、お前は旅団司令部の杉野さんのところへ連絡将校として行っておれ」

戦車学校校長であったときから、ずっと接してきた木下少尉は、連隊長とにわかに離れがたく、そのときぐずぐずしていたそうです。
池田隊長は、「早く行け!」と怒鳴りました。

そして走り出した戦車から上半身を露呈した池田連隊長は、振り返って弥一郎に言いました。
「木下、お前は助かれよ。命を捨てるなよ」
これが、木下少尉が見た池田隊長の最後の姿でした。

午前5時、国端崎から14キロ手前の天神山で士魂部隊は小休止しします。
ここで遅れていた一部も合流しました。

池田連隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がりました。
そして「上陸軍を一人残さず、海に叩き落とすまで奮闘せよ!」と大声で訓示しました。

午前5時30分、連隊は前進を再開し、島の北端に近い大観台を過ぎました。
午前6時20分、連隊は歩兵大隊の指揮所が置かれた四嶺山南麓台地に進出します。
そこは、既にソ連軍約200人の1個中隊が山を越えきていました。

池田隊長は、これを突破して四嶺山頂に進出する決心をします。
そして午前6時50分、攻撃を開始する。
士魂戦車隊は、速射砲で敵を撃破しつつ南斜面を駆け上がりました。
7時30分、山頂に到達。

山頂から見下ろすと、敵歩兵の大軍がそこにいました。
池田連隊長は、師団、旅団の両司令部に打電します。


「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。
 祖国の弥栄と平和を祈る」


7時50分、池田連隊長は、戦車からハダカの上体を晒したまま、身を乗り出して日章旗を打ち振り、攻撃前進を命じました。

士魂連隊の攻撃隊形は、左から第4中隊、第3中隊、第1中隊、連隊本部、第6中隊、第2中隊の順の展開です。
約40両の戦車です。
その戦車隊が、池田隊長の指揮のもと、一斉に敵の群がるど真ん中に突入していきました。

その姿は、さながら運用教範の実演の如く、見事な隊形だったそうです。
さすがは戦車隊の神様。
さすがは士魂部隊。

士魂部隊は、南斜面より上ってくるソ連兵の群れにと接触します。
視界約20Mの濃霧です。
戦車は、死角が多いのです。
ですから濃霧は戦車にとって不利です。

本来なら、戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮できるのです。
しかし急な出動です。
協力できる歩兵はいません。

戦車隊と、ソ連歩兵の肉弾戦は、およそ40分にわたり繰り広げられました。

これは、その戦いが、実にすさまじい戦いであったことを示しています。
なぜなら、近代戦においては、銃撃戦というのは、普通1〜2分のものだからです。
5分も続けば「今日の戦いは長かったな」となる。
実弾の飛び交う戦闘というのは、それほどまでに、人間に強度の緊張をもたらすものなのです。

8時30分。いったんは混乱し、潰走しかけたソ連兵は、前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で、約100挺の13㎜対戦車ライフルと、4門の45㎜対戦車砲を士魂部隊正面に結集させ、激しい反撃をはじめました。
装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、次々沈黙していきます。

濃霧の中で出会い頭に敵弾を受け、友軍の戦車が炎上する。
それでも士魂部隊は前進します。
キャタピラで、備砲で、敵兵を叩き続けました。

やがて日本軍の四嶺山南東の高射砲が応撃を開始しました。
さらに南麓から駆け付けてきた日本の歩兵大隊も参戦してくれました。
士魂部隊の獅子奮迅の戦いで、ソ連軍は遺棄死体100以上を残して、ついに竹田浜方面に撤退したのです。

この戦いで、士魂部隊の損傷は、戦車27両が大破。
そして池田隊長以下、96名が戦死されました。

士魂部隊の突撃のとき、敵は稜線いっぱい展開していたそうです。
隊長の指揮する戦車隊を見て、彼らは自動小銃をめちゃくちゃに撃ってきました。
砲塔に雨あられと弾がはねて、顔を出していれないくらいだったといいます。

そんな中を池田隊長は突撃されました。
戦車から裸の上半身を露出し、鉄カブトもかぶらず、日の丸の手ぬぐいで鉢巻をしただけの姿で、1M×80cmぐらいの大きな日章旗を振って戦車の上から「前進!前進!」と突撃の合図をしながら戦い続けたのです。

そんな隊長の姿は、いやでも敵の目につきます。
やがて銃弾が、隊長車に集中する。

搭乗していた指揮班長の丹生少佐が、まず先に撃たれたそうです。
そのとき、池田隊長は丹生少佐の遺体を落としてはならぬと、にわかに縄を出して丹生少佐の死体を自分の戦車の砲塔に自分で縛りつけたそうです。
そして今度はその砲塔の上に全身を露出させてまたがり、例の日章旗を振り振り、なおも全軍に前進を命じられていました。

戦車のウイーク・ポイントは横腹です。
ここは鋼板が薄く、そこを狙って撃たれ、だいぶやられたました。
池田隊長車も、突撃を命じて30分ぐらい、敵をさんざん踏みにじったあと、対戦車銃を横腹に受け、それで中に積んであった弾薬が誘爆し、擱坐炎上しました。

池田隊長の乗車した戦車は、炎上したのちも、しばらく前進したそうです。
その姿は、まるで、死しても前進を止めない隊長の魂が、戦車に乗り移ったかのようだったそうです。

8月21日、現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立しました。
同日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会同して降伏文書の正式調印が行われました。
そして、ソ連軍の監視の下で武装解除が行われました。

守備隊の将兵は、納得できなかったそうです。
「なぜ勝った方が、負けた連中に武装解除されるのか」
みんな、そう言った。
みんな、そう思ったそうです。

占守島守備隊の活躍は、昨日の記事にも書きました。
占守島守備隊の一週間の活躍が、結果として北海道を守りました。

当時のソ連政府機関紙「イズベスチャ」は、占守島の戦いについて、次のように書いています。
〜〜〜〜〜〜〜〜
占守島の戦いは、大陸におけるどの戦闘よりはるかに損害が甚大であった。
8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である。
〜〜〜〜〜〜〜〜

ソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録を残しました。

もし占守島守備隊が、何の抵抗もせずソ連の蹂躙にまかせるままでいたら、昨日も書いたように、日魯漁業の女子工員400名は、ソ連兵に蹂躙されるままになっていたであろうし、ソ連側が述べているように、占守島が一日で陥落していれば、ソ連はそのまま北海道に攻め入り、戦後日本は、半島と同様、北日本と、南日本に分断されていたであろうことは明白です。

逆に、もし、占守島守備隊が第5方面軍の停戦命令を受けなければ、上陸ソ連軍は殲滅されていたろうし、その後のソ連軍による千島列島(北方領土)の接収すらなかったかもしれません。

大功ある、第91師団、そして勇敢な士魂部隊の将兵は、この戦いの後、ソ連に日本本土に帰還させると騙されて、シベリアに強制連行されました。
そして連行の途中で、5分の1が理由なく殺害され、またシベリアで多くの人々が非業の死を遂げました。



不思議なことがあります。

この占守島守備隊の活躍について、戦後左翼は教科書に一切載せていません。
まるであたかも「なかったこと」にしているかのようです。
まれに占守島の戦いについて書いているものでも、この戦いを「無駄な戦い」、「戦死者は犬死に」と一蹴しています。

実に不思議です。
それが同じ日本人の言う言葉なのか。
私には、そういう人たちの感性がまったく理解できません。

占守島には、いまも当時の日本兵の戦車や遺骨、遺品が眠ったままになっています。

戦後67年が経過したいま、日本は、あらためて勇敢に散って行かれた英霊たちへの感謝を捧げるとともに、散って行かれた彼らに恥じない、ほんとうの日本の建設をしていかなければならないときにきているといえるのではないでしょうか。



〜〜〜〜〜〜〜〜
諸士、ついに起つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、
決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し、
後日に再起を期するか。
白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。
〜〜〜〜〜〜〜

私には、池田隊長のこの言葉は、士魂戦車隊の隊員たちへの言葉というだけでなく、平成の世に生きる現代日本人への言葉に聞こえてなりません。
私達は起つべきときがきた、そのように思えるのです。


ねずさんより
画像は追加しています。




北方領土はロシアのものか?
あの世で英霊に何と答える



今日を生きるのが
精一杯だ
国の事など
どうでもいい

私は仕事も順調
体も健康で
何も言う事はないわ

親父の介護に疲れ
昔みたいに
働けない
俺は一体何を
している

不倫を止めない
嫁に愛想を尽かし
子供を連れて
家を出た
お母さんと
会いたいと泣く娘
泣きたいのは俺だ

私は
上場企業の彼と
来月結婚するの
まだ26だし
人生勝ちかもね

俺は仕事が無い
会社をクビになり
アルバイトさえ
決まらない
腹が減った
もう金が無い
生きる気力がもう無い

俺たちの国は
平和で豊かなんだ

だって学校で
そう習ったんだ
日本は素晴らしい国だって

俺はそう思わない
俺の人生が
苦しいのは
俺のせいだよね

若い頃は
楽しい時も
あったんだ

好きな人もいて
幸せだったよ
別れてしまったんだ
あの人の重荷に
なりたくないから

今は辛いけど
あの人に会えて
本当に良かった

いい思い出なんて
それしかないよ

それでいいんだ

寒いけど
知らない街まで
歩いて行くよ

いい人に会えるといいな


過去があり
現在がある
未来を創るのは
俺たちだ