ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

進化論の嘘


進化論の嘘




ダーウィンの進化論は間違っていた?
人類は宇宙人に作られた説



ダーウィンの進化論が穴だらけなのは有名な事です。

今からおよそ146年前にダーウィンは、すべての生物は自然淘汰により進化したもの、と発表しました。しかし、人間については言及されていませんでした。人間はほかの動物に比べ進化の時間が異常に早かったのです。当のダーウィン氏も「あらゆる生物の中で、進化論に一番あてはまらないのは人間だ」と述べています。またダーウィンの共同研究者であったアルフレッドウォーレスも「人間だけは自然淘汰の原理がはたらいていない」と述べ、さらにこう言いました。               

       
「ある知的存在が人間の発達を指導、決定した。」

ルフレッドウォーレスは人間の進化には明らかにだれかの介入があったと分かっていたのかもしれません。またウォーレス氏は次のようにも述べています。


「人間が猿から誕生することなどあり得ない
宇宙人が人類の創造主である」


「進化論」、猿から人へが一般的ではありますが、その進化の過程には多くの矛盾と謎があり、信じていない人も多く、欧米などでは、神に作られたという「創造論」も根強く信じられています。



創造論」は基本的に、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの宗教ごとにそれぞれの神によって人間は作られたというもの。そうではなく“宇宙人”に“遺伝子操作”で作られたのが“人類”である、という説も実はあるのです。



どこの宇宙人に創られた?


アヌンナキ説

エロヒム

ノンモ説


アヌンナキ説

約45万年前に、ニビルでは星の存続の危機に会う。
その危機とは、ニビルの大気が宇宙空間に拡散し、それによりニビルに生物たちは絶滅の危機に見舞われたというもの。
原因をつきとめたアヌンナキは、その解決策は“黄金の粒子”を利用してシールドを作り、大気拡散の防御でした。

アヌンナキの当時の王である「アラル」は、太陽系の“地球”に金が大量にあることを発見する。
アヌンナキ達は、都市を築いた後、金の採掘に便利な労働力を得ようと、約30万年前に当時地球にいた「猿」と「アヌンナキ」の遺伝子操作で掛け合わせ「人類(ホモ・サピエンス)」を創ります。

そう、人類は彼らの労働を担う「奴隷」として誕生しました。
メソポタミアの地に都市を築きます。
そう、彼らこそメソポタミア文明を築いた「シュメール人」なのです。
当時の地球に居た猿人の女性から卵子を取り出し、宇宙人アヌンナキの男子の精子体外受精し、遺伝子操作を行い、宇宙人アヌンナキの女性の子宮で育てた。 これが全ての現人類の起源。

彼ら宇宙人アヌンナキは最初は表に姿を現して人類を指導していましたが、その後は姿を隠し、彼ら宇宙人の直接の血を引く人々(ヨーロッパの王室など)や秘密結社を通じてマインドコントロール等で地球人類を操作しているといいます。



古代シュメール語聖書には、神とは地球を訪問した異星人であり、異星人の乗り物の燃料である金塊を採取するため地球に来たと記載されている。

このシュメール人を調べていくにつれ1番驚く事が「王様の在位期間」であり非常に謎に包まれている。なぜなら、初期の王達の在位が一万年を軽く超えているのである。

もしこれが事実であればとんでもない寿命の長さであり、どう考えても人間ではない。


初期王朝時代I(大洪水以前)

エリドゥ王アルリム
(在位28800年間)
エリドゥ王アラルガル
(在位36000年間)
バド・ティビラ王エンメンルアンナ
(在位43200年間)
バド・ティビラ王エンメンガルアンナ
(在位28800年間)
バド・ティビラ王ドゥムジ(牧神)
(在位36000年間)
ララク王エンシブジアンナ
(在位28800年間)
シッパル王エンメンドゥルアンナ
(在位21000年間)
シュルッパク王ウバル・トゥトゥ
(在位18600年間)


彼らが宇宙人であるのであれば王の在位の長さも納得がいく。
宇宙を旅するのであれば、星々を巡る旅は非常に長い時間を要したはずであり、彼らの寿命の長さから考えてその長寿のおかげで宇宙での旅も耐えれたのではないかとおもわれる。
宇宙を旅して地球まで来れる彼らです。
猿と掛けあわせて遺伝子操作で人類を作ったという話も彼らのテクノロジーだと可能でしょう。


エロヒム

ラエル氏はカーレーサーだった。ある日、宇宙船に遭遇し、降りてきた宇宙人エロヒムに出会い、異次元の世界に案内され、人類の起源は宇宙人エロヒムが人間を創造した事が始まりであると教えられた。

出典
人類の起源

人類は、異星人がその優れた科学力によって、25,000年前にクローン技術によって創作したのである。
出典
ラエリアン・ムーブメントとは、いかなる宗教か?

宇宙人は自分達はエロヒムヘブライ語で「天空より飛来した人」の複数形)であると名乗り、地球の生命は全てエロヒムが大昔に創造したものだと語った。彼らは文明が高度に発達した惑星から逃げ出してきた科学者で、DNAの合成実験により人工生命を生み出したのだという。また、旧約聖書の内容は宇宙人による地球生命の創造を記したものなのだと語った。
エロヒムが人類を導くために送り込んだのがモーゼ、イエスブッダマホメットなどの宗教的指導者たちで、その最後にして最大の預言者がクロード・ボリロン・ラエルであると言うのだ。

ラエル(ボリロン)はエロヒムの最高指導者ヤーウェに導かれて彼らの惑星に行き、イエスブッダマホメットらと会って会話し、自らの額から採取した細胞からクローンが作られるのを見たという。




キュゥべえは端末だった
グレイタイプは?


ノンモ説

西アフリカ・マリ共和国に住むドゴン族には、現代天文学の最先端情報と酷似する奇妙な伝承がある。それはシリウス(太陽を除く恒星では全天で最も明るい星)に関するもの

出典ドゴン族のシリウス神話

宇宙の創造主であるアンマが、ト・ポロ(シリウス)でノンモ(シリウス星人?)を作り、更にそのノンモ(シリウス星人?)の胎盤から作ったのが我々地球人である




もし進化論が正しいのなら
人間はいずれは
スーパーサイヤ人になれる?
おそらく無理でしょう
人間は進化してると
思いますか?

説明するまでも無く
人間は誰かが
遺伝子操作で
造られたものです

理由は
皆様は
もう気が付いてますね

そう
奴等は遊んでいるのです

惑星に生命体を植え
文明を授け
いずれ争いが起き
核戦争で
惑星諸とも滅ぶ

幾度と無く
見ているのでしょう

人間が唯一の
知的生命体だと言う
根拠が何処にありますか?

地球が滅んでも
痛くも痒くも無い

奴等の寿命は
遥かに長く
知能も数段上
優れた遺伝子が
あれば奴等の血と
掛け合わし
また進化していく

比較的
勤勉で頭のいい
あの国?は
反乱防止の為に
人口削減
絶滅の方向

地球が無くなれば
また違う惑星を
創造するだけ

猿は
何年経っても猿
人間は?
前回は
猿の惑星だった?

奴等にとって
想定外
賢くなりすぎた
脅威の
あの国?から
突然変異で
超人類が
誕生するかも?





2000円で婚活


電話占いヴェルニ


55ハッピーライフ







ドンキーコング3


ドンキーコング



小学一年生の時、親にはじめてゲーム機を買ってもらった。


そのゲーム機というのがスーファミだったんだけど、世は1997年、プレステやセガサターンが大流行してた年で、「貧乏なうちの家計ではひと世代前のこれが精一杯なのか」って子供ながらに寂しく思ったのを覚えている。





その時に合わせて買ってもらったゲームソフトがドンキーコング3だった。


ロックマンXバイオハザードがやりたかったオレとしては「子供じみたゲームだ」ってここでも親のチョイスに不満を持ったが、いざゲームを始めてみるとさすが任天堂の傑作ゲーム、俺ら兄弟はすぐに画面を縦横無尽に駆け回るサルの姉妹のトリコになった。



俺には一つ上の兄がいて、ゲームは俺と兄の共有物だった。うちはテレビが一台しかなく、ゲームは1日30分と決められ、母親はパートに行く際コントローラーを持って行ってた。


それくらい環境が厳しかったので、ゲームができる時間帯は母が帰ってきた17時から、父が帰ってきてテレビを見出す19時までの2時間しかなかった。


そのため、一方がゲームをしているときはもう一方がその終わりを待って隣でジーっと待機することになる。





一方のゲーム時間が30分をオーバーしたり、一方がゲームを始める時間にちょうど好きなアニメの放送時間に被ってしまうことも多々あり、俺ら兄弟はゲーム関係の争いが耐えなかった。


ある日、どういう理由でだかは忘れたけど、きっとそんな感じの理由でゲーム中の兄と大ゲンカしたことがあった。そのケンカもいつも通り俺の負け。



7つの俺にとって8つの兄はめちゃくちゃでかく見えたし、知らないプロレス技なんかいっぱい持っててどうあがいても勝てなかった。


しかしその日は、俺を締め上げた後、悠々自適にゲームを再開する兄の姿に抑えきれない怒りを覚えた。


うずくまりながらタイミングをうかがい立ち上がると、稼働中のスーパーファミコンを蹴飛ばし、ドンキーコング3のソフト箱と説明書をズタズタに引きちぎってやった。


ゲームは兄との共有物だったので、結果的に自分のものを壊することになったけど、兄を困らせてやりたい一心でそんなことに考えも回らなかった。


そのあと、兄に散々絞められたあげく親にもこっぴどく叱られ、しばらくの間ゲーム禁止が言い渡された。


自分で言うのも何だけど、子供なんてほんと単純で、その後ご飯を食べ、お風呂から上がったころには先ほどの怒りは跡形もなく、あるのは後悔ばかり。


ゲームができない時間はゲームの説明書を読んで過ごしてた俺にとって、説明書はとても大切なものだったし、何より蹴飛ばして動きを止めてしまったスーパーファミコンが壊れていないかどうか心配だった。(ゲーム禁止されたので、動作確認すら2週間も待たなければならなかった。)


そんな後悔ばかりして寝て次の日を迎えたんだけど、そこからがおかしかった。


翌日の17時。お母さんがいつものようにパートから帰ってくると、ゲーム禁止期間にも関わらず俺たちにいつものようにコントローラーを渡してきた。



なんで?と思ったけど、突っ込んだらゲームができないと思ったので、そのままいつも通りゲームをしようとスーファミを閉まっている棚を開けると、中にいつも通りドンキーコング3のソフト箱が置いてあった。中身には説明書も破れてない綺麗な形で。


これには俺たち兄弟も混乱したが、とりあえずゲームした。心配だったスーファミの動作も無事で問題なかった。


ゲームが終わったあと、俺ら兄弟は「なんで?なんで?」とお互いに確認し合った。兄もそう言うんだから昨夜のことは夢ではないらしい。


食事の時間、恐る恐る親にその話を聞いてみても、「昨日そんなことなんかなかったよ」と言われ、取り合ってもらえなかった。


貧乏だったし、クリスマスすらしなかったうちの親が俺らを驚かせるため、秘密でドンキーコングのソフト箱と説明書を揃えたとも思えない。(そんなことしても何の意味があるわけではないし)


兄とはこの不思議な出来事を共有し、「世界がバグったんだろう」と当時の俺らは結論づけた。前日のあの状態がセーブされてなかったんだと。


今でもたまに兄とこの話をするけど、当時出した結論以上の答えを、25,6歳になった俺らは未だ出せないでいる。















道の精神


道の精神




古賀氏の愛娘 ひよりさん
女三四郎登場か



なぜ外国人は武道にハマるのか? 
サッカーや野球にはない「残心」の美しさ


剣道愛好家で関西大学準教授のアレキサンダー・ベネット氏が木刀を手にしながら、武道の中にある人生哲学の枠組み、普遍的な美しさなど、多くの日本人が知らない武道精神について語ったスピーチ。日本の武道がオリンピック種目として認められ、世界中で愛されている理由とは? 武道とスポーツの違いとは? その秘密は「残心」にありました。(TEDxMeieki2013 より)


スピーカー関西大学 国際学部 準教授 Alexander Bennett
アレキサンダー・ベネット氏



日本の武道は世界中に広がっている

アレキサンダー・ベネット氏 皆さんこんにちは。ニュージーランドのベネットと言っていいでしょうか。日本のベネットでもあります。人生半分、ちょうど半分ですね、日本に住んでおりますけれども。初めて日本に来たのが17歳の時だったんですね。その時は千葉にある稲毛高校というところに1年の留学できたんですけれども。(私は)ニュージーランド人ですから、ニュージーランド人はだいたいスポーツが好きで、私はずっと子供の頃からスポーツをやっております。主にサッカー、それにクリケットとか、いろんなスポーツをやっているんですけれども。日本に来たらですねサッカーをやろうと思ったんですね。稲毛高校のサッカー部に入ろうと思ったんですけれども、グラウンドを見たら芝生がないです。それが日本の高校のグラウンド、普通そうなんですよね。芝生があるところ、すごい贅沢ですけれどもニュージーランドは当たり前なんですよね。芝生がないところで「サッカーできるかー!!」と思ってね。砂利の上でそんなケガしてしまうやないか、ということをちょっと不安になって。それでホームステイのお母さんから「せっかく日本に来ているんだったら日本の伝統的のスポーツやったらどうでしょうか」というアドバイスをいただきまして、何をしようかなと。柔道。うちの学校には柔道あったんですけれども、柔道はそんな興味ないなぁ。剣道ってなんかね見たことがないんですね。すごい激しい、スターウォーズみたいな感じだったんで。先生が非常に怖い人で 典型的な体育の先生でね。先生なのかヤクザなのか、よくわからないような、ほんっとうに怖い人で、まあダースベーダー役ですよね。それで他の部員たちがもう必死にかかっていくような。それを見て「これおもしろいな」と。「それやってみよう」と。1週間やったらですね「辞めたい」。臭いし、うるさいし、先生が怖いし、わけがわからないんですよね。当たるだけでは一本ならないんですよね。いろんな難しい条件があるんですよ、剣道は。有効打突というんですけれども一本になるために、例えばこれは木刀ですけれども、普通は竹刀を使いますよね。竹刀のこの(切っ先)部分、「物打ち」というんですけれども、それは刃筋正しく、面、小手、胴もしくは突を正確に打たなければならない。それだけじゃなくて「気剣体一致」というのも必要です。気持ちと竹刀と体が一つならないと一本にならない、というような、非常に難しいんですよ。だから剣道やろうと思ったらすぐできるものではないですね。慣れるまで2、3年かかります。竹刀を体の前に、持つというのは非常に不自然です。バランスが取りにくい。それと足の裏もマメばっかりになって、もう痛いですよね。僕、剣道すぐ辞めたかったんですけれども、先生が怖いもんですから辞めさせてくれなかったということで……今に至るという感じですね。20なん年も経ってます。皆さんどうですか、おそらくこの中で武道の経験者、何人かいらっしゃるかと思います。武道っていうのがもう世界中に広まっているということですよね。日本の文化輸出品の中で最も成功しているものじゃないかなと思います。外国、ほんとにどこ行ってもどんな田舎町に行っても必ず何かの道場があります。柔道、空手が一番ですね。柔道なんか国際柔道連盟に加盟している国は200カ国ぐらいです。だからバスケとサッカーの次なんです。加盟国の数からいうと。空手、それが数で言えば一番普及成功していると思うんですけれども、とにかくすごい数です。ヨーロッパ行くと本当にどこ行っても、中東行ってもアメリカ行っても、私のニュージーランド行っても、どこの街に行っても空手は必ずあります。で、武道って一体何でしょう? やったことない人がだいたい武道というのは、ジャパニーズ・スピリットを代表するものだと言うんですけれども、本当にそうなのか? 武道って一体なんなのか。




武道の目的は「人間形成の道」

いろんな武道がありますけれども、これが日本武道協議会が平成20年に作った武道の定義ですね。武道の理念。ちょっと難しいんですけれどもちょっと読みますと、武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修練による心技一如の運動文化で、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道少林寺拳法なぎなた銃剣道を修練して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である。というふうになっています。訳わからないですよね。すっごく難しいです。しかしその中で大きなポイントとしてどの武道においてもですね、この人間形成の道ってのが重要ですよね。武道考えるとオリンピックだと柔道入っています。テコンドーも入っています。相撲が入ろうとしています。空手道も入ろうとしています。だから、武道はもちろん競技というのもありますけれども、やはり一番の目標っていうのはこの「人間形成の道」だと言うことなんですね。そこで武道やってる人、結構、こういう(天狗のように鼻を伸ばす仕草)偉そうな人が多くて「武道は他のスポーツとは違うんだ。俺たちやってるのはただのスポーツじゃない!」っていうことを言うわけですよね。武道やってるのはちょっと特別だとそういう意識が強いと思うんですよね。それは何でかと。同じ試合があるのに勝ち負けというのがあるのに、じゃあ、剣道もしくは柔道、もしくは空手道は野球とかサッカーとかとどう違うか? ということを、その武道家に聞くとなかなか即答がないんですよね。なかなか返事が来ないんです。「他のスポーツとどう違う?」ということになると。


武道がスポーツと違う点は「残心」の概念

そこで私の思いついたことなんですけれども、それは「残心」という概念にあるんじゃないかなと思います。「残心」どうですか? 聞いたことありますか? 残す心ということですよね。それは武道の中心概念一つである、どの武道でもそれは入っているわけですけれども。しかしそれはどのくらい大切にするかっていうのが武道によって違うんです。「残心」を大切にしない武道というのは武道じゃないと私は思います。武の道から外れたことになると私は思ってるんですね。じゃあ武道とスポーツはどう違うか? ということになんですけれども、そこ残心ということを言いましたけども「対手をば打ちたる時も心して、構へ崩さず後を備えよ」という剣道の教えなんですけれども。つまり、例えば剣道で試合をします。一本打ちました。「面!」決まりました。でもその後はちゃんと構えてるかどうかということですね。「打ってからの心はどうか」「打ってからの気構え」「打ってからの身構えはどうか」ということを審判はそれ見て、トータルして「じゃあ一本許しましょう」と。これは真剣勝負の時代からきてる考え方なんですよね。というのは侍たち斬り合いで「斬っちゃったー! よっしゃ俺が勝った!!」と(すぐに油断して背中を見せると)後ろから斬られるかもしれない。そういう、まあ逆切れというか(笑)。要するにそれは「ちゃんと斬った後の構えを保って、気持ちをずっと集中して感情的にならない、感情を抑える、ちゃんと見てる、大丈夫かな、じゃあこれで下がりましょう」というのが残心なんです。これは真剣勝負で生き残りる一つの鍵なんですよね。これがなければいつ斬られるかわからない。常にそれを意識して、油断を絶対しないということが残心なんですけれど。それが今の武道の競技にどのような形で出てくるかというと、これも、(スライドの)下に書いてある部分ですね。試合と型の演武について、これも日本武道協議会が出した武道憲章の中にある部分なんですけれども。


剣道は勝った後の態度を見られる

大事なポイントは「勝っておごらず負けて悔やまず、常に節度ある態度を堅持する」というのが武道らしい態度です。勝ってもそうじゃないといけないんです。つまり、勝ったら他のスポーツと違って絶対ガッツポーズとかそういうことはしてはいけないということになってるんですね。剣道の場合ですと、このように残心は説明されるんですけれども「打突した後に油断せず、相手のどんな反撃にもただちに対応できるような身構えと気構え。剣道試合・審判規則および細則では、残心のあることが有効打突の条件になっている」ということなんですよね。有効打突というのは一本のことなんですけれども、つまりさっきも言いましたように、相手を打つ時に竹刀の正しい部分「物打ち」もしくは「打突部」というんですけれども。打突部が打突部位、面、小手、胴、突を正確に打たなければならない。それで充実した気勢、正しい姿勢、気剣体一致。「面っ!!」(剣を軽く振りおろしながら気合)それが50%なんです。「当ったりましたー!」(剣を振り下ろす動作)というのが普通サッカーでね、ボールが線を越えてしまえばそれはゴールですよね。あと何をしてもゴールはゴールなんです。剣道の場合ですと「面打ちました!」で、そのあとは態度はどうか(そういうところを)審判が見てるわけです。「面っ!! 来るか、来るか? また来るか?」というそこまでの残心がなければ一本にならないということなんですよね。それだとですね「面! やったー、俺が勝ったぞ!!」ということをやってしまうと残心がない。侍同士の斬り合いだったらそれでもう斬られてしまうだろうということと同時に、相手に対して非常に失礼な態度だというふうに言われるわけですね。それをやったらせっかく一本(入って)旗が上がりましたのに取り消しということになるんですよね。取り消し。残心がない。相手に対して失礼。




一本=人の命を奪うということ

よく考えたら剣道とか武道っていうのは侍の真剣勝負、生きるか死ぬかっていう世界からきてるもんですから「一本打った」ということはイコール「人を殺してる」わけですよね。その人の命を奪ったということです。喜ぶべき場面じゃないですよね。逆に反省するところなんです。「本当に殺し合いになる必要があったのかな?」そういうところがやっぱり人間としてはどうかって反省しないといけないっていうのが元々、武道の一本なんですよね。残念ながら、最近そういうことを忘れている武道家が多いです。じゃあ残心がないということは、たとえばサッカーですとゴールが入りました、野球ならホームラン打ちました。それで「イエー!!」ってみんなうれしいわけです。普通選手としてもまあそれで生活してるわけですよね。またその観客も観にいって、そういうエキサイティングな場面を期待するわけですから、それはうれしいわけですけれども。武道ではやはり過剰に自分の喜び「勝った!!」もしくは悔しい気持ち「負けた!!」ということを絶対見せてはいけないはずなんです。そこで自分の気持ちをコントロールする。うれしいけれど絶対それを顔に出さない。「くっそー、そこで打たれるかー。」と思って絶対顔に見せたらアカン。逆に剣道にこういう教えがあるんですけれども「打って反省、打たれて感謝」とういうことは競技的な考え方からいきますとちょっと矛盾してるんですよね。試合するんだから勝ちたいに決まってるんですよね。打って勝ったということはうれしいはずやけれども、そこで反省しないといけない。打たれて「くそ~」と思うかもしれないけれども感謝。感謝する。なんで感謝するんだよと。それはやっぱり打って反省というのは「綺麗に決まりましたけれども、もっと違う打ち方にするべきだったんじゃないでしょうか、その入り方、間違ってたんじゃないか」。もしくは「たまたま当たったでしょう」というようなことを常に自分で自問自答をして、さらに自分の技術を上げようとすることなんですよね。もしくはさっきも言いましたように、これ(一本)は人の命を奪ったということだから、そのへんはやっぱり「武道家としてこれでいいのか?」ということも常に考える。打たれて感謝ということは今、小手打たれました面打たれました。それは試合に負けましたけれども、そのお蔭で私はこれからどういう修行をすればいいのか、私の弱点を教えてくれた、ということは試合に負けたかもしれないけれども、修行においては非常に重要なことなんですよね。それを教えてくれると。だから武道というのはこれがパラドックスなんですけれども、武道の考え方としては相手がいます。


オリンピックでガッツポーズは武道家として恥ずかしい


他のスポーツだと勝利至上主義という考え方があるんですけれども「とにかく勝てばいい。勝たなくちゃいけない!」ということは相手が敵なんですよね。自分が優勝するためのひとつの障害物であるあいつを倒さないと自分が先、行けないと。でも武道的な考え方はそうじゃなくて、相手は確かに戦ってるわけですよね。真剣勝負のつもりで戦ってる。けれども修行、人間形成の道においての協力者なんです。教えてくれる人です。教えてくれる人だからけなしてはいけないです、とういうことは武道的なんですね。それはやはり、真剣勝負から生まれる考え方であると考えています。要するに武道における勝負の大事なところは、勝負が決まってからの勝負、勝負が決まってからの態度はどうかということですね。「何があっても興奮しない」「何があっても油断しない」残心ですね。「感情を抑える(平常心)」「ゆとり」を持って、「常に節度あるた態度を堅持する」「相手の気持ちを考える」相手に対する思いやりの気持ちなんですよね。「勝っておごらず負けて悔やまず」「人のせいにしない」。「今負けたのは審判のせいじゃ!」「今のは誤審だから負けたんだ!」ということは絶対、武道家としてとんでもなく恥ずかしいことなんです。残念ながら最近オリンピックとかね、とにかく金メダルを取ればそれでもう最高なわけですよね。武道の修行者としてじゃなく、とにかく試合に勝てばいい。勝ったらこのようなガッツポーズをすることは当然のことです。柔ちゃん見たって「やったやったやった!」って(飛び跳ねて)踊ってるじゃないですか。こんな演劇みたくないです。武道家として恥ずかしい。スポーツではそれはいいかもしれないけど、武道はどこからきたかということを忘れてはいけないんです。人の命、生きるか死ぬかっていう文化がこの武道の中に潜んでるわけですよね。それがひとつ、大切な大切な考え方であってそういうことを絶対に忘れてはいけないんだけれども、残念ながら最近の日本では忘れられがちじゃないかなという気がします。


武道は普遍的な美しさを持った世界遺産

剣道ではまだ、ガッツポーズだとかそういう感情的になってしまうと、せっかく取った一本が取り消しになるという。これはすばらしいことだと思います。厳しいんですけれどもね。考えてみてくださいよ。サッカーのワールドカップで決勝戦でゴール入れた。みんな「わあ!」ってなって自分のチームメイトにキスしたりチューしたりすることがあるじゃないですか。それで審判が「おい! お前ら残心がないぞ。今のゴール取り消し!」ということになったら考えられないんですよね。でも剣道にはこういう「残心」というのがあるわけなんで、これが非常に大切なことで。やっぱりそういうことがあるお蔭で人間の生き方というのがどういうものなのかとか、そういうことをですね、武道というのは人間形成の道っていうか人生哲学の枠組みを与えてくれるすばらしい文化だと思ってます。ただそれは日本の伝統文化だからすばらしいというわけじゃなくて、これはさっきも言いましたが、世界どこ行っても武道の愛好者がいっぱいいるわけなんで。普遍的な美しさ、日本の伝統文化というよりも世界文化、世界遺産だと私は考えております。そういうことがあるから私はなかなかニュージーランドに帰らない。ずーっと日本で修行をしてるわけです。時間になりましたので、皆さんご清聴ありがとうございました。




ログミーさんより
画像は追加しています。



日本人が
古来より守ってきた
武士道精神
男も女も
関係無いと思います

負けた相手にも
最低限の礼節を守る

先輩、後輩の区別
目上の方への敬意

今の日本人に
どれくらい
この精神が
あるだろう

仕事をしていても
あきらかに
自分より年上なのに
敬語すら使わず
偉そぶる若者

足元
おぼつかない
ご老人に
道をあけない
気取ったOL

嫁に逃げられた
ご主人を
バカにして
噂する
クソババア

俺たちは
無くしてしまったのか
日本人の
武士道精神

人生に
負けた人を
バカにして笑う

苦しんでいる人から
目を背け
知らんふり

綺麗なスーツを
着てる奴が
偉いのか

油まみれの
ハゲ親父は
ダメなのか

結婚して
子どもがいれば
幸せなのか

天涯孤独の
アラフォーは
負け組なのか

もう一度
あなたの周りを
見てほしい

苦しくとも
耐え
黙って生きている
日本人がいる

自分さえ
幸せなら
問題無い
貧乏人なんか
ほっとけよ
自分が悪いんだよ



人の一生は
重荷を負うて
遠き道を行くが如し
急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
堪忍は無事長久の基
怒りは敵と思え
勝つ事ばかり知りて
負けること知らざれば
害その身に至る
己を責めて人を責めるな
及ばざるは過ぎたるより勝れり


私は
柔道をしていました
クラブが終わる時
先生の前に
全員が座り
この文を
全員で唱え
先生に座礼をし
帰路についていました


当時は
意味なんか
よく解りません


今の俺は
理解してるのか

通州事件の惨劇


通州事件の惨劇
「Sさんの体験談」




ねずさんからです

通州事件(つうしゅうじけん)
1937年(昭和12年)7月29日に
中国の通州(現:北京)で、起きた事件
猟奇的な殺害、処刑が行われた
通州虐殺事件ともいわれる

ねずさんは
女性及び
18禁とされていますが
私はそうは思いません
日本人なら
全ての人が、知るべき事です
むしろ学校で教えるべき事件です

かなりの長文で
リアルな文章です
覚悟して、お読み下さい
本当の歴史は
伝えねばならない
それが、どんなに醜く、酷くとも

私は画像、史料などを追加しています



通州事件のお話は、毎年この時期にアップさせていただいているものです。
調寛雅著『天皇さまが泣いてござった』に所蔵された「Sさんの悲劇」の転載です。
これは実際に通州事件を体験なさった日本人女性の目撃談であり体験談で、最初にブログ「徳島の保守」さんが文字起こしをしてくださったものです。

文中に出てくるSさんは、日本にいたときに支那人男性の妻となり「支那人として」通州で働いていた女性です。
そのSさんの目の前で事件は起こりました。
この文は、そのSさんの実体験を綴ったものです。
文中に記載はありませんが、旦那の支那人は、もともと支那のスパイであったといわれています。

事件後陸軍は、取調べ後、佐賀の因通寺のご住職である調寛雅(しらべかんが)氏に、Sさんを託しました。
そこでご住職が彼女が語った内容を本にまとめたのが、この記事の内容です。

本からの転載にあたっては、徳島の保守さんが、因通寺のご許可をいただいて文字起こしをされ、私もご一緒にこの拡散に努めているものです。
私が通州事件を最初にとりあげたのは2009年のことですが、この頃はまだ通州事件はほとんど知られていず、またあっても日本軍の起こした自作自演の情報宣伝活動であったなどとささやかれていました。
私も、ずいぶんと「デマ」だと誹(そし)られたものですが、ほんとうに、事実を巧妙に歪曲したり隠したり、彼らの手口は、事実よりも「いまを乗り切ることができさえすれば良い」というもので、毎度毎度、呆れさせられます。


なおこの記事は、18禁とさせていただいています。

※以下の記事は18禁です。
18歳未満の方と女性の方はお読みにならないでください。



【Sさんの体験談】

私は大分の山の奥に産まれたんです。
すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。
冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。
でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。
でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。
自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。
私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。
長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。
私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。
通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

 *

それは昭和九年の初め頃だったのです。
Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。
通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。
私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。

すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。
それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。
遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。
そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。
Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。
そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。
それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

 *

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。
只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。
そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。
するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。
Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。
私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。
道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。
目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。
日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。
大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。
この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。
行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。
すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。

最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。
特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

 *

私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。
それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。
それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。
そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。
こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

でも何も変わったことはありません。
これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。
そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、
「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。
その当時のよく言われた言葉に、
「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。

私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。
支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。
そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

 *

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
私はびっくりしました。
それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。
そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。
それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。
でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。
しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。
そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。
この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
でもTさんはそれを許しません。
それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。
支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。
このときはとても悲しかったのです。

それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。
ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。

相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
このことが大変悲しかったのです。
私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。
でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。
Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
と言うのです。

 *

そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。
いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。
Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。
そして「危ない」「危ない」と申すのです。
それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

それが七月になると、
「日本人皆殺し」
「日本人は人間じゃない」
「人間でない日本人は殺してしまえ」
というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。
鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。
支那人達が大騒ぎをしているのです。
何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

私はびっくりしました。
そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。
でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

この頃でした。
上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。
蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

 *

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。
突然私はTさんに烈しく起こされました。
大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。
そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

でもまだ辺りは薄暗いのです。
何がどうなっているやらさっぱりわかりません。
只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。

私はTさんと一緒に逃げながら、
「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。
でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が、
「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。
突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。
そして、
「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
と私を抱きしめるのです。

それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。
それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。
それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

 *

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。
誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。
私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。
人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
沢山の支那人が道路の傍らに立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。
その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。
その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。
そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。
支那でも七月と言えば夏です。暑いです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。
しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。
そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。
娘さんは「助けてー」と叫びました。
と、そのときです。

一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。
すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。
何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。
娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。
そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。
そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。
その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。
胸を突きます。
何回も何回も突き刺すのです。

沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。
この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。
その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。

支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。
ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。
そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。
こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。
するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
それから剣で首を切り落としたのです。
その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。

投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。
そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。
そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。
この残虐行為をじっと見つめていたのです。
腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
そしてその首はないのです。

何とも異様な光景です。
想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。
ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

私はハッと自分にかえりました。
すると何か私の胃が急に痛み出しました。
吐き気を催したのです。

 *

道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。
でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。
私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。
若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

しかし支那人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。
私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。
痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
とても人間のすることではありません。
悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。
集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。
この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。
十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。
こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。
学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
そして勿論裸足にしております。
その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

でも倒れることは出来ません。
外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

私は思わずTさんにしがみつきました。
Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

そして私の耳元でそっと囁くのです。
「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。
勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

そして私とTさんの周囲には何人もの支那人達がいました。
そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般の支那人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。
しかしようもまあこんなに沢山支那人が集まったものだなあと思いました。
そして沢山集まった支那人達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

これも又異様のこととしか言いようがありません。
こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。
この沢山の人の中には男もいます。
女もいます。
私もその支那人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。
旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。
女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。
そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。
私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。
そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。
そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。
そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。
それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。
そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。
それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。
何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。
しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
沢山の日本人が殺されています。
いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
耳を覆ってみても聞こえるのです。

又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。
旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。
お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。
お婆さんは仰向けに倒れました。
学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。
私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

そして、「くやしい」と申すのです。
「かたきをとって」とも言うのです。

私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
「いちぞう、いちぞう」
と人の名を呼びます。

きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。
するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
そして息が止まったのです。

私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。
そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。
すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。
そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

何とその女の人はお腹が大きいのです。
七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。
学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

この女の人は何もしゃべれないのです。
恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。
学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。
一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。
そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで事態が一変しました。
若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。
学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。
学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。
七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。
するとどうでしょう。
この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。
そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。
それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。

私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
これはもう人間の行為ではありません。
悪魔の行為です。
悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。
目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。
人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

私はTさんにすがりついたままです。
何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。
地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。
一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。
この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。
まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。
そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。
そして一生懸命逃げようとしたのです。
見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はバッタリ倒れたのです。
すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。
私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーッと飛び散りました。
私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。
妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。
お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

「日本人が処刑されるぞー」
と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人であったということです。
そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。
そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。
それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。
私の心は通じておりません。

そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。
そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。
そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。
ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。
何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。
私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。
引き金に手をかけたらそれが最期です。
何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。
日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。
するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。
そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。
五十数名の日本人は皆倒れているのです。
その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。
こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。
見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。
私には全然わかりません。
只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。
その近水槽の近くに池がありました。
その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。
若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。

国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。
Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。
そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

そして首を前の方に突き出させたのです。
そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。
この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。
そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。
Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。
そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。

その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。
しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

 *

昼過ぎでした。
日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。

ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。

とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。
私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。

こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。
でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。




通州事件wiki リンク




凜として愛

ツキは泳いでいる


ツキは泳いでいる




「20年無敗だった」と語り継がれ、雀鬼(じゃんき)の異名を持つ麻雀界では伝説の存在。ツキというものを知り尽くしている桜井章一氏が、運とは何か、どうしたら流れを読み、ツキを呼び込めるのかを語った。


昨年、「麻雀最強戦2014」という大会でサイバーエージェント藤田晋君が優勝した。藤田君は起業家になる前、私が主宰する雀鬼会(麻雀を通して人間力を鍛えることを目的とした組織)に通っていたことがある。いわば、かつての教え子だ。

「麻雀最強位」タイトルを獲得したサイバーエージェント社長・藤田晋氏。



プロも交じる大会で、どうして藤田君が優勝できたのか。それは彼が強いからでも、うまいからでもない。運がよかったからだ。

藤田君が強運の持ち主だったといいたいわけではない。あの日、会場に行った私は藤田君と肌が合う感覚がして、「彼が勝ったらおもしろいな」と思ったら、本当にそうなった。つまり、私と藤田君との関係が運を引き寄せた。

そもそも運というものは、誰かの中に眠っているものではない。環境や人間関係によって刻々と変化して、近づいたり離れたりする。あの日の藤田君は、変化する運にうまく近づいたから勝てたわけだ。



運は魚のようなものだ。海の中では、捕食関係にある大きな魚と小さな魚が一緒に泳ぐところをよく見かける。捕食関係といっても必要なときに必要な量を食べるだけで、それ以外のときに害はなく、互いに共存している。一方、人間が近づくと魚は一目散に逃げていく。獲って食べてやろうというつもりがなくても、つかまえようという気配がして、魚から嫌われるのだ。


運がいい=幸せとは限らない


運も同じだろう。自分のものにしようと近づいていくと嫌われて逃げられる。運に近づきたければ、つかまえるというより、触れさせていただくという気持ちでやわらかくアプローチする。それが肝要だ。

では、どうすればやわらかく触れられるのか。私は「感覚の動き」で運に触れる。感覚の動きは、運動の動きとは違う。運動は同じ動きを繰り返して体に覚えさせるが、感覚の動きはその都度違って、動きそのものを覚えても意味がない。自然と一体となった動きとでもいえばイメージしやすいだろうか。


桟橋で危険を感じたらどうするか


運について、多くの人が勘違いしていることがもう一つある。普通の人は、思いがけない得をしたときに「自分は運がいい」と考える。しかし、勝ったり儲けたりしても、精神のしあわせにつながるとはかぎらない。私は人生の成功者と言われる人たちから相談を受けることがあるが、見た目の華やかさと違って、内実はぼろぼろであることも多い。彼らの悩みを聞いていると、勝ったことが不運だったのではないかとさえ思えてくる。



私にとって運は、勝利や利益をもたらしてくれるものではない。運とは、絶体絶命のピンチに陥ったときに何気なく助けてくれるもの。つまり負けから救ってくれるのが運である。

代打ちをやっていたころから、私は数々の修羅場を経験してきた。下手をすれば命がなかったという経験は一度や二度ではない。ピンチを潜り抜けてこられたのは、いつもギリギリのところで運に助けられたからだった。



土壇場で運に助けられる人とは

話しても問題ない話をしよう。雀鬼会のメンバーと八丈島に遊びにいったときの話だ。

台風が近づいていて波が荒かったが、私は危ないものに魅かれてしまうので、みんなを連れて桟橋に行った。そのときふと違和感を感じて、私たちは桟橋の先端部に移動した。その瞬間、大きな波が立って桟橋や埠頭を洗い流した。たまたま桟橋の先だけ波にさらわれず、私たちは全員無事だった。桟橋で危険を感じたら、陸のほうに引き返すのが合理的な考え方だ。しかし、あの瞬間は、自然に体が先のほうに動いていた。あれは運が助けてくれたというほかない。



では、土壇場のところで運に助けられる人とそうでない人は、どこが違うのだろうか。考えられるのは、不安の強さだ。

不安の強い人は自分を守ろうとしていろいろなものを身につけ、自らを重くしてしまう。重い荷物を抱えている人に運は味方しない。80の荷物を抱えた人と、3つしか荷物を持っていない人なら、運は軽そうな3つの人のところに風を吹かせる。



人間だから、不安を完全になくすのは無理だろう。しかし、危ない状況を自ら楽しむ意識があれば、不安はうんと小さくなる。若いころの話だが、私は1対1の喧嘩より、3対1くらいで不利な喧嘩のほうがわくわくした。そういう性分なので、恐怖や不安といった感情に押しつぶされることはなかったし、だからこそ土壇場で運が助けてくれたのだと思う。

不安は、何かを守ろうとしたり損をしたくないという心理から生まれる。そうした現実的な損得にかかわることを1つ行ったら、損得の入らないことを2つ、3つ行うとよい。バランスが取れ、不安を押し込めることができるのだ。


羽生名人の負けをなぜ予言できたか

もちろん不安が小さくても風が吹いてくれず、状況が悪化していくことはあるだろう。そういうときは勝負から下りる勇気も必要だ。下りるといっても、尻尾を巻いて逃げるように撤退するのは感心しない。気持ちを強く持って、堂々と気持ちよく敗ける。それが次につながっていく。

将棋の名人戦第一局で羽生善治名人の対局を見ていたら、相手の棋士が60手くらいで投了したことがあった。私は将棋に詳しいわけではないが、その姿を見て「相手の棋士は見切りがいい。羽生さん危ないぞ」と感じた。羽生さんとは仲がいいので会ったときにそのことを伝えたが、二局目、羽生さんは迷いが生じたような将棋で負けてしまった。そのとき勝った棋士は、引き際をわきまえていて、見苦しい引き方をしなかった。それが運を引き寄せたのだろう。



麻雀でいえば、ツイていないときは当たり牌を絞るのではなく、放銃(相手に振り込むこと)してしまったほうがいい。放銃したら点数が減って損だと思われるかもしれないが、そんなことはない。当たり牌を振り込んで相手にあがらせてあげることで、卓上は活性化する。活性化したほうがみんな気持ちよく打てるし、めぐりめぐって自分にもいい手がやってくる。そういうものだ。

おそらく仕事も同じだ。状況が厳しいときに自分1人だけ逃げると、職場全体が悪くなってかえって状況が悪化する。どこかで引くとしても、自分が引くことで職場が活気づくような引き方をしなくてはいけない。それができる人に、運は味方してくれるはずだ。





桜井章一(さくらい・しょういち)
1943年、東京都生まれ。大学時代に麻雀を始め、裏プロとしてデビュー。引退するまで20年間無敗、「雀鬼」の異名を取る。引退後は「雀鬼流麻雀道場 牌の音」を開き、麻雀を通して人としての道を後進に指導する「雀鬼会」を始める。『運を支配する』『ツキの正体』など著書多数。



順風満帆の人生から
転がり堕ち
想像しない毎日に
頭を悩ます

生まれてこのかた
いい事なんて
ひとつも無い
俺は
天から見放されている

リストラになり
日雇いの現場で
浴びたくも無い
灼熱の太陽に
心も体も焼かれ
全てを諦め
絶望の淵を歩く毎日

私は
婚期をとうに過ぎたアラサー
やっと出来た恋人に
妻子がいる始末

俺はツいている
やっと掴んだ
千載一遇のチャンス
のはずが
手からこぼれ落ちる
やはり俺はスカタン

そう
空にはツキが
泳いでいる

掴むヤツ
逃すヤツ

人生は
決まっていない
己の直感を
信じろ

明日のあなたは
笑っているのか?







優しい彼氏


優しい彼氏




付き合う前は優しくて明るい人と思ってた彼氏が、
DVモラハラ男だった。





いきなり豹変するのではなく、
小出しにしつつ飴と鞭を使いわけるタイプ。

半ば洗脳に近かった。

初っ端から殴られてたら即逃げるんだけど、
優しく嫌味を言うことから始まり、
暴力沙汰になるのは付き合って半年後。

もう完全に

「私が悪いから怒られるんだよね」

と思い込んでいた。




その頃は優しい嫌味ではなく、
ねっとり嫌味と軽い暴力に進化してて、
私が凹んで謝ってたら、
サンダルはいてる私の脚を彼が革靴で踏み付けようとした。

踏まれる寸前、彼氏の頭に鳥の糞がボトッ。

空を見渡しても鳥は居なかった。

彼氏の部屋で彼氏が他愛のないことで切れて、手を振り上げた瞬間、
棚の上にあったものが彼氏の頭にヒット。

棚のすぐ近くに居たわけじゃないのに。

私に熱いお茶をひっかけようとした瞬間、
持ち手が折れて彼氏の股間にバシャッ。

私にライターを投げ付けようとした瞬間、ライター着火。

彼氏の服に燃えうつり軽い火傷。

私を怒鳴ろうとした瞬間、茹でていた玉子爆発。

鍋の近くにいた私無傷。

鍋から離れていた彼氏の顔にヒットし火傷。



他にも、夜中に呼び出しメール送ろうとしたら携帯が壊れたり、
(店に持っていくと直る)
mixiに、私sage彼氏ageな日記をあげようとした瞬間にパソコンあぼーん
とかあったらしい。



「最近変な婆が夢にでてきて」

とも言っていた。

ある日、夢に聞き慣れない方言のおばちゃんが現れて、

「あぁあぁ、いだましいこどっ。えぇっこっんな痩せちまっで…ひょろひょろでねぇの。
ほんだからなんどもいってっぺぇ、あ゛んなろぐでもねおどこやめっで、なっ」

とか言われた。

起きた瞬間に「なっ」という声が聞こえた気がした。

妙に印象に残る夢だった。

その数日後、友達と歩いてたら、
浮浪者っぽい占い師?に呼び止められた。

占「あんたえらい人に守られてるねぇ。
その人の言う通り、彼氏とは別れなさい。
殴る蹴るって、最低じゃないの彼氏」

友「ちょっと失礼じゃないですか?この子の彼は私も知ってますが、とても」

占「あんたはね転職はやめときなさい。なんだっけ髪長いその人、二週間後に辞めるから」

占い師の言葉に固まる友達。

友達は髪長い同僚といざこざがあり転職を考えていた。
(修羅場無関係だが、髪長同僚はきっちり二週間後退職した)

占「二万二千七百五十ニ円あるでしょ。お代は千円札二枚でいいよ」

一円単位で財布の中身を当てられた事にびびり、
二千円渡してそそくさと逃げた。

友達「彼氏君…殴る蹴るってほんとに?」

私「私が悪いから…仕方ないよ」

友達「どういうことで殴られたの?」

詳しいことを話すと、友達は怒りで顔真っ赤にしてた。

その後、友達に説得され洗脳解除。

彼氏をファミレスに呼び出して別れを切り出した。

周りに聞こえるか聞こえないかの静かな声で毒づきはじめる彼氏。

「外に出るか」

と腕を捕まれた。

真後ろの席に変装して待機してくれていた
友達4人(私と彼氏の共通の友人)が彼氏を止める。

愛想よく友達に挨拶する彼氏。

「話聞いてたから、全部知ってるから」

と、最初に私を説得してくれた友達が告げると、顔色を変えた。

私はもう見慣れていたが、
友人達には初めて見る表情と雰囲気だったらしく、
ついてきたものの彼氏寄りだった友人の一人は呆然としていた。

多勢に無勢と判断したのか、一人で帰ろうとする彼氏。

友達「話終わってなくない?ちゃんと別れるんだよね?」

彼氏「もういらねーから」

彼氏寄りだった別の友達

「サイテー…彼氏君ってこんな人?」

彼氏「誰に何言ってもいいよ?みんな俺の味方だし。
お前らなんかの言うこと信じないって」

録音済みでした。

その後彼氏は、友人の半分ぐらいに縁を切られていた。

私と別れた後、彼氏は私を殴った右手を火傷し、
私の目をつこうとした中指人差し指の先っぽ削る事故にあい、
私を蹴ったり踏んだりした右脚を骨折。

彼氏の家にある私が貢いだ物は、
カビ大発生と虫大発生で台なしになったらしい。



別れた後に、また方言のおばちゃんの夢をみました。

「うんうん」

と満足げに頷き、

「男でも女でもな、あいそええのはきぃつけ、笑顔の下は鬼がおるでのう」

そして何故か、近くのスーパーのイメージがわいてきた。

そのスーパー近くにある宝くじ売り場で宝くじ買ったら、
貢いだのと同じくらいの額をあてました。

DV受けてるのは私の方なのに、
生傷絶えなかったのは彼氏のほうだったな。

本性表わしはじめたあたりから、彼氏がどんどん不運になっていってて、
転んだり物無くしたり、何か小さな失敗をするようになってった。

ドジなタイプとは程遠く、
神経質で周囲をいつも見渡してるタイプだったから心配だった。

昔坊さんが語ってたけど、
守護者は霊ではなくて、もっと強くて偉いらしい。

人間だったかどうかはわからなくて、大地とかそんなあたりらしい。




優しい彼氏集より
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私が見た
優しい彼氏

私は
若い頃
文化住宅
一人暮らし
してました

お隣に
若いご夫婦が
住んでおられまして
やたら愛想のいい
ご主人と
おとなしい奧さん

夜8時ぐらい
いつもの
夫婦喧嘩

今日は
やたらと
激しい模様

クライマックスに
差しかかった頃

「ドンッ!」と
押入れから
凄い衝撃

なんやと
押入れを開けてみる

押入れの壁を
突き破り
飛び出る
奧さんの頭
大きな穴から
ご主人と
目が会う

翌週明け
ご夫婦は
どこかへ
引っ越した

俺がみた
優しい彼氏



関西ブライダル














最期の闘い


最期の闘い




明仁天皇の「生前退位の意志表明」は安倍政権と日本会議改憲=戦前回帰に対する最後の抵抗だった!


宮内庁天皇陛下お誕生日に際し
(平成25年)」より


いったいこれはどういうことなのか。昨日、 NHKが報じた「天皇が生前退位の意向」。NHKの情報源は「宮内庁関係者」ということだったが、その直後に宮内庁の山本信一郎次長が「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた」と完全否定した。


さらに、時事通信によると、深夜には、風岡典之宮内庁長官も「(皇室の)制度については国会の判断にゆだねられている。陛下がどうすべきだとおっしゃったことは一度もなく、あり得ない話だ」と否定した。また、菅義偉官房長官もオフレコながら「承知していない」と事実を認めなかった。



では、NHKは何を根拠にこの「生前退位の意向」報道に踏み切ったのか。常識的に考えると、NHKのような官僚的なメディアがこうした重要な情報を宮内庁長官オーソライズなしに報道するというのはありえない。もしそれができるとしたら、天皇周辺から直接、情報をとっているというケースだろう。


実際、今回のNHKの情報源は、天皇本人にきわめて近いスジではないかといわれている。



「今回、スクープしたのはNHK宮内庁担当のHという記者なんですが、彼は秋篠宮に食い込んでいる。そんなところから、天皇秋篠宮を通じて意志を伝えたのではないかといわれています。実際、秋篠宮は数年前、記者会見で「(天皇の)定年制が必要になってくると思います」と述べたことがあり、このときも天皇の意向を代弁したものだといわれました。天皇はこのころからしばしば生前退位の制度を作るよう要望を出されていたのですが、1年前くらいからその意向が非常に強くなったようです」(全国紙宮内庁担当記者)


たしかに、NHKがここまで踏み込んで報道したというのは、それくらい天皇の意志が強いということだろう。実はNHK参院選を前にこのニュースを出そうとしたものの、官邸からストップがかかって、一旦、報道を断念している。普通ならそれでたち消えになるところを、NHKはもう一回、参院選が終わったタイミングで出してきた。これは、官邸を超える存在、つまり天皇サイドからの絶対的な後押しがあったとしか考えられない。



では、なぜ、天皇は改めて、生前退位の姿勢を強く示したのか。新聞・テレビはたんに「自らの体調を考慮」などと報じているが、そんなことでこの行動は説明できない。なぜなら、現行の皇室典範でも天皇が公務に支障がある場合は、摂政をおくことができるからだ。


実は、宮内庁関係者の間では、今回の「生前退位の意志」報道が、安倍政権の改憲の動きに対し、天皇が身を賭して抵抗の姿勢を示したのではないか、という見方が広がっている。



というのも、生前退位こそが、今、安倍政権や日本会議が復活を目指している大日本帝国憲法の思想と真っ向から対立するものだからだ。

実は、生前退位というのは江戸時代後期までの皇室ではしばしば行われていた。ところが、明治になって、国家神道を国家支配のイデオロギーと位置づけ、天皇を現人神に仕立てた明治政府は、大日本帝国憲法皇室典範によって、この生前退位を否定、天皇を終身制にした。「万世一系」の男性血統を国家の基軸に据え、天皇を現人神と位置づける以上、途中で降りるなどということを許すわけにはいかない。終身制であることは不可欠だったのだ。



つまり、明仁天皇はここにきて、その明治憲法の真髄とも言える終身制をひっくり返し、真逆の生前退位を打ち出したのである。天皇が生前に退位するということは、天皇は国家の「役職」にすぎないということを示すことだ。役職だから、時期が来たら退位する。役職を果たせなくなったら交代する。もし、これが制度化されたら、天皇をもう一度、現人神に担ぎ上げ、国民支配のイデオロギーに利用することは難しくなる。そのために、天皇はこの「生前退位の意志」を明確にしたのではないか、というのだ。



これはけっして、妄想ではない。天皇と皇后がこの数年、安倍政権の改憲、右傾化の動きに危機感をもっていることは、宮内庁関係者の間では、常識となっていた。実際、第二次安倍政権が発足し、改憲の動きが本格化してから、天皇、皇后はかなり具体的で踏み込んだ護憲発言を何度も口にしている。


たとえば、2013年には、天皇が誕生日に際した記者会見で、記者の「80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事を」という質問にこう答えている。



「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」

日本国憲法を「平和と民主主義を守るべき、大切なもの」と最大限に評価した上で、わざわざ「知日派の米国人の協力」に言及し、「米国による押しつけ憲法」という右派の批判を牽制するような発言をしたのである。


また、美智子皇后も同年の誕生日に、憲法をめぐってかなり踏み込んだ発言をしている。この1年で印象に残った出来事について聞かれた際、皇后は「5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます」としたうえで、以前、あきる野市五日市の郷土館で「五日市憲法草案」を見た時の思い出を以下のように記したのだ。


明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」

日本国憲法と同様の理念をもった憲法が日本でもつくられていたことを強調し、基本的人権の尊重や法の下の平等言論の自由、信教の自由などが、けっして右派の言うような「占領軍の押しつけ」などでないことを示唆したのである。


また、天皇、皇后は日本国憲法の精神に沿った新しいかたちの皇室作り、皇室の旧弊の改革にも熱心に取り組んできた。小泉政権のときに、女性・女系天皇が検討されたのも、実は明仁天皇の意向があったとされているし、皇居や御用邸を一部開放、最近は、自分の葬儀や墓について、陵墓を縮小して、埋葬を土葬から火葬へ切り替えたいという希望も表明している。


しかし、安倍首相やそれを支える右派勢力にこうした天皇皇后の姿勢を真摯に受けとめようという気配はまったくない。それどころか、八木秀次など御用評論家に天皇批判をさせる一方、改憲の動きをますますエスカレートさせた。そして、先の参院選ではとうとう改憲勢力が3分の2を超えた。


しかも、安倍政権の背後に控える改憲の発信源は、戦前回帰を狙う日本会議だ。日本会議改憲の究極の目的は、まさに、明仁天皇が脱却を目指してきた大日本帝国憲法の復活であり、自民党改憲草案もその明治憲法回帰の延長線上にある。


もし、そんな方向での改憲が進められれば、これまで進めてきた護憲と皇室改革が水泡に帰す。天皇はこれに相当な危機感を抱き、再び天皇が「現人神」として利用されることがないよう「生前退位」の制度化の流れを作り出そうとしたのではないか。


こうした見方は、まったく報道されていないし、これからも報道されることはないだろうが、皇室取材をしている記者やジャーナリストの間では、一般的な認識になっている。海外メディアの中には、今回の行動が安倍首相の改憲に対するものであると書いている新聞もある。


たとえば、米「ニューヨークタイムズ」は13日付けの紙面で、「生前退位の知らせは、まさに安倍晋三総理の自民党参議院で圧勝した3日後のことだ。安倍総理改憲発議の要件である3分の2議席を獲得したのである。安倍氏は長年にわたり、日本の完全な戦争放棄を謳う憲法の条文を覆したい(overturn)という野望を抱いている」と書いた上で、天皇は公的な政治的権限を有していないにせよ、今上天皇が生前退位によって皇位を継承させる徳仁皇太子の存在は、安倍首相が目指す憲法改正と好対照をなしているかもしれない」と指摘している。


一方、安倍官邸や日本会議は逆に、この報道に苛立ちを隠せない。官邸は、一旦は報道を天皇の強い希望ということで、渋々参院選後の報道をOKしたものの、オフレコで、菅官房長官NHKに激怒するコメントを発しているという。


また、安倍政権の御用学者で、日本会議常任理事でもある百地章日本大学教授は朝日新聞に「明治の皇室典範をつくるときにこれまでの皇室のことを詳しく調べ、生前退位のメリット、デメリットを熟考したうえで最終的に生前譲位の否定となった。その判断は重い。生前譲位を否定した代わりに摂政の制度をより重要なものに位置づけた。そうした明治以降の伝統を尊重すれば譲位ではなくて摂政をおくことが、陛下のお気持ちも大切にするし、今考えられる一番いい方法ではないか」と、困惑を隠しきれないトーンで生前退位を否定するコメントを出した。


天皇の身を賭した最後の改革への試みは果たして実を結ぶのか。安倍政権は官邸に渋々、皇室典範の改正の検討チームをつくったといわれているが、明治憲法を否定する「生前退位」に本気で取り組むとは思えないのだが……。



いずれにしても、安倍の頭の中にあるのは天皇を政治利用することだけ。こういうのをきっと連中の用語では「君側の奸」というのだろう。



リテラさんより
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生前退位
私もよく解らなかった
いろんな記事を読み
調べてみた
これは左翼系の仕業か
いや少し違う

この報道が
あのNHKから出て来た理由
NHKも逆らえない力
選挙の後の
このタイミング

昨今
中国系の
コシミズ
さゆ
BF

RAPTなど
天皇陛下
卑しめるブログ
記事がやたらとあります
私も
そうなのかな…と
迷う時期がありました

でも
昭和天皇陛下の
敗戦後の全国行脚
今上天皇陛下の
素早い、被災地への訪問
熱心に被災地へ訪問される
秋篠宮ご夫妻
なかなか行かない皇太子
親子兄弟なのに
違う想い

何故
日本大嫌いの
NHKからなのか

アベンジャーたちが
逆らえない力
ムサシ選挙で勝利
憲法改正
戦争出来る国へ

俺たちは
精神的にも
経済的にも
破綻寸前

日本という国の根幹
天皇制を
破壊すれば

もう
俺たちに
護るものも
何も無い

このまま
奴等の
筋書き通りに
壊れてゆく国に
頼るのか

天皇陛下
俺たちに
問いかけて
いるのではないのか

明治維新からの
日本は
どうだったのか

このままでは
日本は
朽ち果ててゆく

日本は
こんな荒んだ
国に堕ちたのか

街ゆく人よ
俺たちは
問われている

知らないふりをせず
もう一度
日本という国の
日本人は
どうあるべきか
考えてみよう

戦争で
玉砕した英霊
犠牲になった人たちは
こんな国にしてくれと
俺たちに
言ったのか

答えは
俺たちの
心の中にある

四季のごちそう


創味シャンタン


わんまいる


ウインナー

俺のおかず


俺のおかず




牛丼以下の「貧乏めし」で節約する
サラリーマンたち


サラリーマンのお小遣いはここ30年で史上最低に! そんな状況下で編み出されたサラリーマンの“ど根性節約術”を紹介。ぜひともこれを参考に、このお小遣い不況期を乗り切ってもらいたい


◆牛丼すら買えない人が急増中! 貧乏めしで節約はもはや基本<食事編>



丸亀製麺のご飯に天かす、ネギを盛り、上からつゆをかけた「オリジナル天かす丼」。これでたった120円。味も激ウマとか


消費増税の影響でますます貧しくなっているサラリーマンのランチ事情。「昼はめし抜きか、買い置きした1個50円のカップ麺で乗り切っている。1食300円以上なんて言語道断です」(31歳・販売)と、牛丼さえ手が届かない人も多数。当然、値引き品しか買えないという人も珍しくない。


「ランチは午後3時まで我慢。店をたたむ直前の路上販売で値引き弁当を買う。お腹が空いたら水道の水をがぶ飲みし、空腹感をごまかす」(35歳・公務員)


「スーパーの閉店セール開始30分前に行き、目当ての夕飯用惣菜を確保。セールが始まったら商品をこっそり棚に戻して、店員に値引きシールを貼ってもらう」(36歳・事務)





また、彼らには飲み物を買うお金もない。


マクドナルドのアンケートアプリ『KODO』で、ドリンクかポテトのSサイズなどの無料券がもらえる。お昼はこれと自宅で作ったサンドイッチでセルフのバリューセットを食べます」(33歳・教育)


「『みかん味の天然水』などのフレーバードウォーターを買って、水道で2倍に薄めて飲んでいる。もともと濃い味なので、薄めてもちゃんと味はする」(35歳・通信)



薬局や携帯ショップ店内のほか、チェーン型スーパーのなかにも来客専用のウォーターサーバーが設置されている店舗も


さらに、ウォーターサーバー未設置の職場で働く人のなかには、「毎日、薬局や携帯ショップ店内のウォーターサーバーでペットボトルに水を詰めている。また、輸入食品チェーンの『カルディ』はコーヒーの試飲ができるので、ランチ休憩のときにフラッと立ち寄って利用している。月4500円ほどの節約になる」(40歳・総務)という人もいる。しかし、これはまだ序の口。


丸亀製麺で120円の(天丼用の)ごはんのみ注文し、無料の天かすとネギで山盛りにして、タレをかけて『オリジナル天かす丼』にして食べています。店員の『天ぷらはいかがですか?』も断ってください」(34歳・不動産)

もはや周囲の視線を気にする余裕なんてないのだ。






◆無料の空間やサービスを使い倒して余暇を充実させろ!<趣味&生活編>



食費や光熱費ほどマストではないが、人間らしい生活のためには趣味や娯楽も楽しみたいもの。「漫画はブックオフの立ち読みで基本、済ませている」(35歳・営業)というのは当然。


「最近のパチンコ屋は広い休憩スペースに大量の漫画を揃えているので、パチンコを打つふりをして2時間は暇を潰せる」(39歳・自動車整備)というやり手も。


また、少ないお小遣いではジム通いをするなど夢のまた夢だが。


「区のスポーツ施設にあるトレーニングルームは、民間のジム並みに器具が揃っていて料金も格安。土日は家族で利用すれば、レジャー代を節約でき、みな健康にもなる」(41歳・金融)という方法なら格安で結果にコミットできる。


そして、企業が提供しているお試しサービスを使い倒すのも手だ。


「『ヘアモ』というアプリで、カットモデルを探している美容師アシスタントに500円で切ってもらう。たまに手つきが危ないコもいるが、仕方ない」(32歳・広告)


「家族旅行に行くときは、自動車メーカーが提供する長期試乗車を1週間くらい借りて、車代を浮かせています」(38歳・アパレル)


なかには、「引っ越しする友人や同僚に『知り合いがタダで処分してくれるよ』と言って不用品をもらい、自分で使う。本当にいらないものはヤフオクで売る」(37歳・スタイリスト)という強者も。


身だしなみからインテリアまで、ど根性でこんなに節約可能なのだ。



◆出張費を浮かして小遣いをゲットする逞しき人々!<ビジネス編>



ただでさえお小遣いの少ないサラリーマンにとって、仕事の出張費や通勤代ですら、お小遣いを補填するための絶好のチャンスとなっているのだ。


「新幹線はJRのネット予約『EX予約』や『えきねっと』で手配。東京~新大阪なら窓口より880~2110円安い」(42歳・医師)


「出張時はいつも深夜バスを利用。さらに宿泊プランは1000円クオカード付きのものにする。月3~4回出張があるので、それだけで8000~9000円の儲けになっている」(42歳・営業)


また、近年は路線が充実しているLCCも同様の理由から出張サラリーマンに人気がある模様。


「札幌や福岡への出張費はJALANA便の利用を前提とした額になっている。羽田でなく成田発なので空港までの移動は面倒だが、いずれもLCCの航空券なら片道で最安5000円台から購入できるので、一度の出張で差額の3万~5万円は懐に入れられる」(40歳・機械)と、1か月の小遣い以上の大金を手にすることも可能だ。


また、自転車通勤をしている人に多いのが、「会社には電車通勤とウソをついて片道12kmを毎日通い、定期代として年間20万円をもらっている」(32歳・印刷)というケース。しかし、この方法は詐欺罪や横領罪に問われる場合があることを知っておくべきだろう。


その一方で「職場の飲み会の幹事を引き受け、事前購入した自治体プレミアム商品券で代金を支払った。会費として集めた現金との差額のプレミアム分30%が自分の取り分」(37歳・証券)と話題の商品券を使いこなして儲ける人も。


お小遣いが少なくとも、それを補う方法はいくらでもあるのだ。


◆仕事の間に裁縫、転売etc. 涙ぐましい努力で副収入を!



少ないお小遣いを嘆く前に、会社や妻に内緒で副業を始めた人も意外と多い。


「もともと服飾系の専門学校を卒業して裁縫が得意なので、古くなったデニムを裁断してバッグに作り替えてヤフオクに出品。モノがよければ1万~2万円で売れるので、お小遣いが足りなくなったときに作っています。妻には『友達に頼まれた』って言い訳しています」(32歳・販売)

一方で、王道のせどりや転売などを行っている人も多い。


「この前もブックオフで見つけた100円の小沢健二のアルバムがネットで5000円になりました。基本は仕事終わりに探しますが、先日、仕事中にレコ屋を漁っていたら上司に見つかって。『トイレ借りただけ』と必死に言い訳しました(笑)」(39歳・自動車整備)





古くなったデニムをリメイクしてバッグに。ヤフオクに出して売れれば月のお小遣いは倍増!?


なかには、知り合いのツテをフル活用し、不用品を回収、転売しているという猛者もいた。


「友達の家に眠っている古いファミコンのカセットを譲り受けて転売するんです。これが意外と高く売れるんです。仕入れはタダなので、40~50本で1万円程度儲かる」(36歳・IT)


副収入源を確保した者のなかには、家計管理術をやりくりして、さらにお小遣いを貯めているやり手もいる。


「財布にお金が入っているとつい使ってしまうので一日1000円ずつ、袋に小分けにして壁にかけて、使っています。辛いときはそのお金を眺めて、気持ちを高揚させています」(35歳・経理)


もはやお金を拝むことすら、彼らにとっては節約術になるのだ。




まだだ… まだ終わらせない…

絹蜜


北国の恵み


高額




綺麗な花嫁になれ


綺麗な花嫁になれ




植村眞久海軍大尉の遺書


先日、イスラエルで行われたスギハラ・チウネ・ストリートの命名式の際、レセプション開場でとても美しい日本舞踊を拝見させていただきました。
やはり美しいものですね。
すっかり見とれてしまいました。

その日本舞踊で思い出したことがあります。
それは、植村眞久(うえむらなおひさ)海軍少尉の娘さんの靖国神社奉納の舞のことです。

植村眞久海軍少尉は、東京都出身、海軍第十三期飛行科を卒業され、昭和19年10月26日、第一神風特別攻撃隊大和隊隊員として零戦に搭乗してフィリピンセブ基地を出撃され、スリガオ海峡周辺洋上で特攻、戦死された方です。(戦死後大尉に昇進)
享年25歳です。



植村大尉は、立教大学に在学中、サッカー部の主将だったそうです。
昭和18年の学徒出陣のために9月に大学を繰上げ卒業して海軍に入隊し、第13期飛行予備学生となりました。
予備学生卒業後、三重航空隊に所属されています。
そして昭和19年9月に、休暇を許されて帰郷しました。

以下にご紹介するのは、このとき植村少尉が生後3ヶ月になる一人娘の素子さんに書き残した遺書です。
この遺書は、鶴田浩二が慰霊祭で泣きながら朗読したことがあります。
下にそのときの動画をご紹介します。




素子へ

素子は私の顔を
よく見て笑いましたよ。
私の腕の中で眠りもしたし、
またお風呂に入ったこともありました。

素子が大きくなって
私のことが知りたい時は、
お前のお母さん、
佳代叔母様に
私のことをよくお聞きなさい。

私の写真帳も
お前のために
家に残してあります。

素子という名前は
私がつけたのです。
素直な、心の優しい、
思いやりの深い人に
なるようにと思って、
お父様が考えたのです。

私はお前が大きくなって、
立派なお嫁さんになって、
幸せになったのを
見届けたいのですが、
もしお前が
私を見知らぬまま死んでしまっても、
けっして悲しんではなりません。

お前が大きくなって、
父に会いたいときは
九段にいらっしゃい。

そして心に深く念ずれば、
必ずお父様のお顔が
お前の心の中に浮かびますよ。

父はお前が幸福者と思います。
生まれながらにして
父に生き写しだし、
他の人々も
素子ちゃんをみると
真久さんにあっている様な気がすると
よく申されていた。

またお前の伯父様、叔母様は、
お前を唯一の希望にして
お前を可愛がって下さるし、
お母さんもまた、
御自分の全生涯をかけて
ただただ素子の幸福をのみ
念じて生き抜いて下さるのです。

必ず私に万一のことがあっても
親無し児などと思ってはなりません。
父は常に素子の身辺を護っております。
優しくて人に可愛がられる人になって下さい。

お前が大きくなって
私のことを考え始めたときに、
この便りを読んで貰いなさい。

昭和十九年○月某日 父
植村素子へ

追伸
素子が生まれた時
おもちゃにしていた人形は、
お父さんが頂いて
自分の飛行機にお守りにして居ります。
だから素子は
お父さんと一緒にいたわけです。
素子が知らずにいると困りますから
教えて上げます。

=======

セブ島に戻った植村大尉は、
二隊に分けられた大和隊のうちの一隊を指揮し、
神風特別攻撃隊大和隊、第一隊隊長として出撃されました。
目標は米国海軍T・L・スプレイグ艦隊でした。



米艦隊は他の艦隊からの補充を合わせ、
全戦闘機60機を上空に配置して、
日本機の攻撃を待ち受けました。

植村隊3機は、60機の米軍戦闘隊と遭遇し、
重たい爆弾を機体に吊り下げたまま激闘し、
敵機の猛攻と、海上からのさかんな対空砲火をかいくぐり、
米機動部隊に特攻を敢行しました。
そして敵艦隊を大破炎上させ、
特攻を成功させました。



手紙にある素子さんは、
父の母校である立教大学を昭和42年に卒業され、
その年の4月12日に、
父の手紙にあった、
「お前が大きくなって、
 父に会いたいときは九段にいらっしゃい」
という約束を果たすため、
そして靖国神社で鎮まる父の御霊に
自分の成長を報告するために、
母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、
文金高島田に振袖姿で、
6歳のころから習った日本舞踊で
「桜変奏曲」を舞い、奉納されました。

そのときの写真です。



素子さんはこのとき、
「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」
と言葉少なに語らました。

父から子へ、子から孫へ。
決して忘れたり
風化させたりしてはならない歴史が、
私たちの国にはあります。

そうそう。
ふと思ったのです。
お亡くなりになった植村大尉は、きっと素子さんの花嫁姿を見たかったろうな、って。
なのでトップの画像を、花嫁人形の写真に差し替えました。




ねずさんより
画像は追加しています。


今日 朝方に嫌なを夢見ました
娘が一人で 満員電車に乗っている
慌てて 追いかけるけど
何処にいるか 解らない
探して 探して
途方に暮れる私
ふと 後ろから娘の声
泥だらけの娘が立っていた



私には
もう成人した長男と
高校3年の次男がいますが
そんな夢は見た事がありません
なんでだろう?
いきなり娘と別れるなんて
そんな気持ちで
この記事を思い出しました
皆様 小さい子どもからは
目を離さぬ様に
日本が どうなろうと
子どもたちが生きていればいい

風に吹かれて


風に吹かれて



見ないふりをしながら 
人は何度顔を背けるのか



風に吹かれて (Blowin’ In The Wind)



How many roads must a man walk down
人はどれ位の道を歩めば
Before you call him a man? 
人として認められるのか
How many seas must a white dove sail 
白い鳩はどれ位海を乗り越えれば
Before she sleeps in the sand? 
砂浜で休むことができるのか
How many times must the cannon bolls fly 
どれ位の砲弾が飛び交えば
Betore they’re forever banned? 
永久に禁止されるのか
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
友よ答えは風に吹かれて
The answer is blowin’ in the wind  
風に吹かれている

How many years can a mountain exist
山は海に流されるまで
Before it’s washed to the sea? 
何年存在できるのか
How many years some people exist
人々は何年経てば
Before they’re allowed to be free? 
自由の身になれるのか
How many times a man turn his head 
見ないふりをしながら
Pretending he just doesn’t see? 
人はどれくらい顔を背けるのか
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
友よ答えは風に吹かれて
The answer is blowin’ in the wind  
風に吹かれている

How many times must a man look up
人はどれくらい見上げれば
before he can see the sky? 
空が見えるのか
How many ears must one man have 
人にはどれくらいの耳があれば
Before he can hear people cry? 
人々の悲しみが聞こえるのか
How many deaths will it take till he knows
どれ位の人が死んだら
That too many people have died? 
あまりにも多くの人が亡くなったと気づくのか
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
友よ答えは風に吹かれて
The answer is blowin’ in the wind
風に吹かれている


答えは風に吹かれている


風に吹かれて リンク





歌詞は、1962年に雑誌「シング・アウト!」に、ディランのコメントとともに掲載された。

「この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会 を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。ヒップな奴らは「ここに答えがある」だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも 見られず理解されず、また飛んでいっちまう。世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。俺はまだ21歳だが、そういう大人が大勢いすぎることがわかっちまった。あんたら21歳以上の大人は、だいたい年長者だし、もっと頭がいいはずだろう。」

ウィキペディアより)

まだ21歳のボブ・ディランらしい発言です。「世の中で一番の悪党は、間違っているものを見ても、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ」。この言葉が強烈です。


https://twitter.com/tomichonet/status/751417764451987457
富永広紀@tomichonet

富永広紀 Retweeted 上脇博之

大学時代に憲法の講義で、ある有名な教授が「自由で民主的だと主張する政党があるが、実は全然、自由で民主的ではない」と話しておられた。そんな政党があるのか、と思っていたのだけど、今や自由でも民主的でもなく、単なる嘘つき政党らしい。



富永広紀 added,
上脇博之 @kamiwaki


「TPP反対」と選挙で公約した政党の代表が、選挙後にTPPを推進し、「TPP反対とは言っていない」と平気で強弁する。これでは、選挙の意味がないから、国民主権のもとでの議会制民主主義の選挙ではありません。私たちは三流の主権者にならず、三流の政治屋に審判を下さないといけません!





すごい説得力ー強烈な安倍首相批判=元自衛官(防空ミサイル部隊)の泥 憲和さん。 
思索の日記 2014-07-05 | 社会批評
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/40768d2be233f251b6ff75903613f0db




街頭(6月30日 神戸・三宮の街宣活動に飛び入りで) 元自衛官(防空ミサイル部隊所属) 
泥 憲和さん


突然飛び入りでマイクを貸してもらいました。 集団的自衛権に反対なので、その話をします。 私は元自衛官で、防空ミサイル部隊に所属していました。 日本に攻めて来る戦闘機を叩き落とすのが任務でした。

いま、尖閣の問題とか、北朝鮮のミサイル問題とか、不安じゃないですか。 でも、そういったものには、自衛隊がしっかりと対処します。 自衛官は命をかけて国民をしっかり守ります。 そこは、安心してください。

いま私が反対している集団的自衛権とは、そういうものではありません。 日本を守る話ではないんです。 売られた喧嘩に正当防衛で対抗するというものではないんです。 売られてもいない他人の喧嘩に、こっちから飛び込んでいこうというんです。 それが集団的自衛権なんです。

なんでそんなことに自衛隊が使われなければならないんですか。 縁もゆかりもない国に行って、恨みもない人たちを殺してこい、 安倍さんはこのように自衛官に言うわけです。 君たち自衛官も殺されて来いというのです。 冗談ではありません。 自分は戦争に行かないくせに、安倍さんになんでそんなこと言われなあかんのですか。 なんでそんな汚れ仕事を自衛隊が引き受けなければならないんですか。 自衛隊の仕事は日本を守ることですよ。 見も知らぬ国に行って殺し殺されるのが仕事なわけないじゃないですか。

みなさん、集団的自衛権は他人の喧嘩を買いに行くことです。 他人の喧嘩を買いに行ったら、逆恨みされますよね。 当然ですよ。 だから、アメリカと一緒に戦争した国は、かたっぱしからテロに遭ってるじゃないですか。 イギリスも、スペインも、ドイツも、フランスも、みんなテロ事件が起きて市民が何人も殺害されてるじゃないですか。

みなさん、軍隊はテロを防げないんです。 世界最強の米軍が、テロを防げないんですよ。 自衛隊が海外の戦争に参加して、日本がテロに狙われたらどうしますか。 みゆき通りで爆弾テロがおきたらどうします。 自衛隊はテロから市民を守れないんです。 テロの被害を受けて、その時になって、自衛隊が戦争に行ってるからだと逆恨みされたんではたまりませんよ。 だから私は集団的自衛権には絶対に反対なんです。

安部総理はね、外国で戦争が起きて、避難してくる日本人を乗せたアメリカ軍の船を自衛隊が守らなければならないのに、いまはそれができないからおかしいといいました。 みなさん、これ、まったくのデタラメですからね。 日本人を米軍が守って避難させるなんてことは、絶対にありません。 そのことは、アメリカ国防省のホームページにちゃんと書いてあります。 アメリカ市民でさえ、軍隊に余力があるときだけ救助すると書いてますよ。

ベトナム戦争の時、米軍は自分だけさっさと逃げ出しました。 米軍も、どこの国の軍隊も、いざとなったら友軍でさえ見捨てますよ。 自分の命の方が大事、当たり前じゃないですか。 そのとき、逃げられなかった外国の軍隊がありました。 どうしたと思いますか。 軍隊が、赤十字に守られて脱出したんです。 そういうものなんですよ、戦争というのは。

安倍さんは実際の戦争のことなんかまったくわかってません。 絵空事を唱えて、自衛官に戦争に行って来いというんです。 自衛隊はたまりませんよ、こんなの。

みなさん、自衛隊はね、強力な武器を持ってて、それを使う訓練を毎日やっています。 一発撃ったら人がこなごなになって吹き飛んでしまう、そういうものすごい武器を持った組織なんです。 だから、自衛隊は慎重に慎重を期して使って欲しいんです。 私は自衛隊で、「兵は凶器である」と習いました。 使い方を間違ったら、取り返しがつきません。 ろくすっぽ議論もしないで、しても嘘とごまかしで、国会を乗り切ることはできるでしょう。 でもね、戦場は国会とは違うんです。 命のやり取りをする場所なんです。 そのことを、どうか真剣に、真剣に考えてください。

みなさん、閣議決定集団的自衛権を認めてもですよ、 この国の主人公は内閣と違いますよ。 国民ですよ。 みなさんですよ。 憲法をねじ曲げる権限が、たかが内閣にあるはずないじゃないですか。 安倍さんは第一回目の時、病気で辞めましたよね。 体調不良や病気という個人のアクシデントでつぶれるのが内閣ですよ。 そんなところで勝手に決めたら日本の国がガラリと変わる、そんなことできません。

これからが正念場です。 だから一緒に考えてください。 一緒に反対してください。 選挙の時は、集団的自衛権に反対している政党に投票してください。 まだまだ勝負はこれからです。 戦後69年も続いた平和を、崩されてたまるもんですか。 しっかりと考えてくださいね。 ありがとうございました。





「子どもたちも、国を護るために命を投げ出して」高市早苗総務大臣 
https://www.youtube.com/watch?v=AVVdsAes9o8



自国民を戦場に送るのが、アベ自民党です。 
情報収集中&放電中 2016/7/5(火) 午後 9:16
http://blogs.yahoo.co.jp/honjyofag/66177315.html




自民改憲案かなりひどい/フリーアナ吉田照美 [2016年7月7日9時32分 紙面から] 

http://www.nikkansports.com/general/news/1674483.html?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=nikkansports_ogp


ラジオ放送直前に取材に応じた吉田照美
(撮影・村上幸将)


フリーアナウンサー吉田照美・65歳


今回の参院選は日本の岐路だと思う。争点にすべきは自民党憲法改正草案。民主主義、平和主義、基本的人権は、かなりひどいものになっている。結局は国のための国民で、国民のための国にしようとする感じが全くない。これを大きく報じないメディアが不思議。その中、日刊スポーツの社会面と「政界地獄 耳」がよりどころで、文化放送「飛べ! サルバドール」でも取り上げています。





安保関連法の強行採決違憲の形で進められた。自公が大勝すると、こうして話したいことも話せなくなるんじゃないか…。ブレーキをかけないとアウトだ。(有権者と)対等でなければいけないのに、偉い気になっている政治家が多過ぎる。菅官房長官が、バングラデシュのテロ事件の合間に選挙の応援に行っ てしまうこと自体、どうなのか。命と選挙、どっちが大切なのか。

海外メディアから失敗の烙印(らくいん)を押されたアベノミクスのエンジンをさらに噴かそうというのだから恐ろしい。(14年に8%にした)消費増税社会保障にいくはずだったのに今は財源がないという。ウソだったのか、という思い。一方で海外には、かなりお金をばらまいている。自国の問題を解決してからでしょう。

パナマ文書に関しても、大企業と富裕層が租税回避できる方法を許してもらっているのに、国民は全部搾り取られるわけで、国民にも租税回避の方法を教えないと税の公平性からいって、おかしいでしょ? それを野党もメディアも突っ込まない…。日本は今、本当におかしいと思います。



さてはメモ帳さんより
画像は追加しています。








明日は選挙ですね
皆様は本当に国民の民意で
議員が選ばれていると思いますか?
マスゾエが民意で
選ばれていると思いますか?
当選者は最初から決まっている
では、何故
選挙というイベントをするのか?
私達が、選挙に行く事によって
政治に参加している
そう思わす為です
行列のできるラーメン屋がある
「旨いのかな?俺も並んでみようかな…。」
全く同じです
俺はこの候補者は支持してないけど
みんなの民意で決まったのなら
仕方がないな…
あなたは、そう思っていませんか?
最近、不正選挙の話がありますが
そんな事は、言わずともです
もっと根底の事に目を向けて下さい
あなたが、選挙に行こうが行くまいが
当選者は決まっている
なんで、候補者や支持者は
あんなに必死のパッチで活動しているのか?
実は… そう思わす事がビジネス?
日本の為に、あの候補者に当選してほしい!
選挙に行くだけで
あなたのその思い
エナジーをヤツらに吸われるだけ
行列のできる店に並ぶ人達
やたらマスクをする人も然り
日本では、
相手に顔を見せないのは無礼
そう、あなたは先輩から習いませんでしたか?
おかしなコンス礼が蔓延している
あれは日本の礼ですか?
「ご注文、以上でよろしかったですか?」
学生なら、まだしも、
いい歳こいた大人がこれを言う
あなたは、そんな日本語を
学校で習いましたか?
何故、自分で考えない
周りに流される
ダメな事はダメ
おかしい事は、おかしいと言う
私は日本人の心の奥底に
眠っている
本当の魂を信じています


いろんな不幸が重なり
家も仕事も奪われた人がいる

家族も健康で
仕事も順調で
お金もある人がいる

病に倒れ
精神を破壊され
好きで一緒になった
連れ合いに
毎日罵声を浴びながら
生きている人がいる


周りに流されず
自分で考え
自分の意志で生きる
苦しくとも
逃げず
自死せず
戦う
人は必ず死ぬのだから


私の家族は
幸せだ
今のところ
満足している


でも
私の兄は
精神の破綻した嫁と
まだ学校に行く子供たちと
生活している
以前していた仕事をやめ
日雇い、アルバイトで
生活している
もう何年も会っていない
知らんぷりを続けている


私が
私の家族が
幸せなら
それでいい
どうせ
兄とは
会う事も無い
以前は
一緒に仕事を
していたが
関係ない


これで
いいんだよ
これで…


でも
あの世で
兄貴と会うんだな
俺は地獄に
行くのかな…