ポンタの想い出

俺に明日はあるのか?

猛暑と地震の因果律


猛暑と地震因果律



ひと昔前になるが、物理学の教書、その冒頭か末尾には必ず宇宙の誕生に関する記述があり、この宇宙は極小となった暗闇に一条の光が差すところから爆発、膨張を始めたと記されていたものだ。
だがこの一条の光はどこから来たのか、何で発せられたのかと言うと、それは分からない、「神の力としか表現しようが無い」、物理学の教書はまたそこに、このような科学の限界も記していた。


そしてこうした科学の限界は今も何ら変わってはいない。
近代科学は因果律、つまり運命論を否定することをしていったが、その先に見えてくるのもはあらゆる物質の存在に対する疑問であり、科学はすべての物質に対して、それが存在する理由や意味を証明できない。
それゆえ現在の地球の科学は現象から引き起こされる事実をして科学と呼び、ここに創造性や意義などと言ったものを問うことはできない。
つまりは科学は事実と、観測によって確かめられた予測、の羅列に過ぎないのである。



だが現実の世界はどうか、そこにはこうして認知された現象、つまり「科学」に当てはまらない現象も起こってくる。
そこでこうした科学の枠を超えた現象を絶対とする考え方が生まれてくるが、これを神秘主義と言い、科学と神秘主義は互いを認め合わない為に、そこには相互否定が発生してくる。
つまりここでは事実よりも「思想」が優先された、対立して閉ざされた世界が広がってくるのだが、このことが実は科学の進歩を遅らせている最大の理由である。


現象や事実に対して謙虚であること、このことを知る者ならば、いつの日か科学と神秘主義はその垣根を越えて、ともにその先に真実を探ろうとするに違いない。
実に科学の本質とは「想像と疑問」にすべてが帰するものと言えるのではないか・・・。



10月9日兵庫県姫路市にて撮影

1923年8月、この年の日本、特に東京の気候は異常な高温と、連日発生する雷や正体不明の発光現象で尋常ならざるものとなっていたが、人間の感覚とはおかしなものだ、それが1度のものなら3日もすればほとんどの人がすべて忘れ、異常なことでも毎日続けばそれに対する異常性が失われる。
1923年に起こった関東大震災では、地震発生前に多くの異常がありながら、苦しい生活に追われる大人たちは、その異常を異常として捉えることができなかった。
それゆえ関東大震災前にもっとも「何かとんでもないことが起こるのではないか」と感じていたのは、実は多くの子供たちだったのである。


「柏木みやの」さん(旧姓)は当時9歳だったが、両親の都合で1年間ほど品川の叔父夫婦の家へあずけられ、彼女はそこで1922年7月から、1923年8月28日までを過ごす事になるが、このとき1923年8月に起こったことは一生忘れないと話している。





8月半ば過ぎごろから、裸でいても蒸し暑くていられないほどの天気が毎日続き、その上いつも夕方6時ごろになると、大して天気が悪くも無いのに、空から太鼓を打ち鳴らすようなドーン、ドーンと言う音がやはり毎日聞こえ、湿度なのか汗なのか分からないが、いつも夕方には着ている服がずぶ濡れになった。
それで叔父夫婦にもこのことを話したのだが、彼らの返事はいつも「ああ、そう」でしかなく、そうこうしている間に両親が迎えに来て彼女は福島へ帰るのだが、彼女たちが福島へ帰ってから3日も経たない間に関東大震災が東京を襲ったのである。


また当時横浜鶴見に住んでいた「新澤喜三郎」さんは当時10歳だったが、とにかく暑い日が続き、それが夜になると今度は蒸し暑さになってきて、さらに夕方7時か8時ごろになると、いつも必ず雷のような音がして、でもおかしなことにはこの雷、外へ出てみると、空の一点からまるで水面に石を投げたように光が広がっていくことで、真っ青な光だった。
それが8月20日過ぎごろから毎晩続き、喜三郎さんの両親もそれを見て不思議がっていたが、やがて両親はこうしたことが毎晩続くことから、しまいには見に出る事も無くなった、しかし喜三郎さんは子供ながらに実に異常な光景だった・・・、と話している。


そしてこれは1995年に発生した「阪神淡路地震」(阪神大震災)だが、この地震は1月17日に発生しているが、この前年の1994年、日本は大変な猛暑に見舞われ、その猛暑による経済効果が1兆円とも言われた、記録的な暑さだった。
また1995年1月の神戸の気温は、最高で17度と言う気温の日があり、明らかに1月とは思えない気温の高さが地震発生の前には観測され、人々もどこかで「何かおかしい」と思いながら暮らしていたのである。


さらに2007年の能登半島地震、ここでも前年の2006年は北陸が大変な猛暑に見舞われ、能登半島地震は3月25日に発生しているが、神戸と同じようにやはり例年だと積雪があるはずの能登半島は、1月、2月と温暖な天気が続き、住民は「もしかしたら大きな地震でも来るのではないか」などと話していたのである。





1923年、関東大震災をその年の1月から予言していた易学者「小玉呑象」(こだま・どんしょう)は、その著「地震の予知」でこう語っている。
地震が起こるときは、温暖な気候のものなり」
1703年「元禄地震」、1707年「宝永地震」、1828年「越後三条地震」、1847年「善光寺地震」、1854年「安政東海地震」、同じく1854年「安政南海地震」、1855年「安政江戸地震」、1923年「関東大震災」、いずれの場合でも地震が発生する前には「暑さ」が関係している。


そしてこのことをして間違いなく地震が来るとは言えないが、統計上暑い気候の年や、その半年後には大きな地震が起こっていることもまた事実であり、多くの地震でその現象が確認されている雷のようなドーン、ドーンと言う音だが、これも気象庁は因果関係が確認できないとして、地震の前兆現象とは認めないが、多数の日本人が確認している事実であり、少なくともこの雷に似た「音」ぐらいは、地震の前兆現象と認めるべきものだと私は考える。





9月1日は「防災の日」だが、これは関東大震災が1923年9月1日、正午近くに発生し、東京が火の海となって10万人以上の人が、焼け死んでしまったことを教訓とするものだ。
防災で大切なのは科学的であるか否かではない、すなわち「生き残るためなら科学でも、例え迷信や言い伝えを使ってでも良いから、何としても生き残る」、このことに尽きる。


最後に、1923年、関東大震災が発生し東京が劫火に焼かれた直後、当時の文壇の著名人、芥川龍之介田山花袋生田長江竹久夢二などは一様に同じ感想を述べているが、それは基本的に「そら見たことか・・・」と言う言葉である。
国家は堕落し、政治も腐敗の極みを向かえ、人々の心は拝金主義によってモラルを失った大正末期の日本、彼らの目には極限を超えた堕落は、もはや人間自らによっての自浄能力ではいかんともし難く、救いは巨大災害しかなかった、そのような壮絶な見識が感じられる。


2010年、この暑さと、そしてこの日本の在り様である。
何も無いことを祈ろうか・・・。



この者に天のご加護を
さんより




第二次世界大戦のさなかである昭和18年(1943年)9月10日17時36分、M7.2の鳥取地震が発生する。
最大震度は6で死者は1083人を数える大きな被害となったが、戦時統制中であったことから詳しい状況は伝わらかなった。
この鳥取地震を皮切りに戦後にかけての4年間、日本は毎年巨大地震に見舞われて(東南海地震三河地震、南海地震)、その都度1000人以上の犠牲者を出した。


壊滅した市中心部と荒金鉱山の悲劇


地震鳥取平野の直下で発生、震源が浅いこともあり、鳥取市で震度6を記録するなど激しい揺れを伴った。
揺れは新潟県から九州北部の広範囲におよび、震源から比較的離れた瀬戸内側の岡山市でも震度5を記録しており、被害は地盤が軟弱である鳥取平野に集中した。
鳥取市の中心部などは壊滅状態となったが、これは積雪地帯ゆえの梁を太くして屋根が重たい木造家屋や、老朽化した建物が多かったことが災いした例といえる。



鳥取市内の被害の様子(鳥取市HPより)>


鳥取県震災小誌』によれば、「道を歩いていた者は、瞬時に地上に投げ出されている自分を見出した。立ち上がろうにも立てないのである。
そこかしこの家々からおこる悲痛な叫び声に続いて、バラバラと身一つで逃げ出る人びと。
かくてこの瞬間に、家々の建物は、目の前で凄まじい土煙を立てて崩れて行ったのである」とあり、地震の激しさが見てとれる。





また、夕食の準備時間と重なったことから市内12箇所から火災が発生して燃え広がり、沈下したのは翌朝の5時頃だった。
また液状化現象も見られた。

県東部の岩美町にある荒金鉱山では、地震により鉱泥を貯めていた堰堤が決壊して鉱山の飯場や荒金集落を直撃、朝鮮人労働者やその家族、地元住民ら計65人が犠牲となった。
堰堤直下にあった飯場は鉱泥の下に現在も埋まったままだ。




戦時統制下の地震


鳥取地震の発生は第二次世界大戦の戦局が悪化する頃にあたり、戦時統制下で報道管制が敷かれていたため、被災状況が国民に詳しく伝えられることはなかった。
その後に続く東南海地震三河地震などとともに「伏せられた地震」としても知られている。





その一方で戦時統制下であるがゆえに、住民の防災訓練が徹底されていたとの見方もある。また、関東大震災の教訓から略奪や流言による大きな混乱はなかったとされる。

この地震では鹿野断層と吉岡断層という二つの断層が出現した。
南西-北東にのびるの鹿野断層(長さ約8km)は、西半分では北側が東方向に最大150cm動き、南側に対して75cm沈下、東半分では北側が東方向にわずかにずれ、南側に対して50cm隆起している。
その北側に並ぶ吉岡断層(長さ4.5km)では北側が東方向に最大90cmずれ、南側に対して最大50cm沈下している。
また昭和53年(1978年)に行われた鹿野断層のトレンチ調査の結果、この地震以前も、4000~8000年前に地震が発生していたことが分かった。

中国地方活断層が少ない。
主な活断層広島県西部から山口県東部の五日市断層帯と岩国断層帯、山口県西部の菊川断層帯で、地殻変動が比較的小さい地域と言われている。
しかし中国地方で発生した地震震源は、鳥取県から山口県にかけての日本海沿岸に並んで分布する。

この地域では明治以降、明治5年(1872年)の「浜田地震」、ここで記した「鳥取地震」、平成12年(2000年)の「鳥取県西部地震」といったM7以上の内陸型大地震が3度発生している。

活断層がない(分かっていない)地域にも内陸型地震が発生する可能性があることを認識したい。


鳥取県災害記録より










花田家の謎


花田家の謎



先日一緒に国技館に行った友人から、花田家にまつわる興味深い話を聞いた。

花田家といえばかつての若貴兄弟を生み出したした名高い相撲一家である。

その血統は第45代横綱若乃花(初代)を中興の祖とし、その弟である大関貴乃花、さらにその息子である若貴兄弟へと受け継がれている。

...というのが一般的な認識だが、実はこの系図は偽りであるというウワサがまことしやかに流れているらしい。

事の発端はプロ野球ニュースのキャスターを務めていた佐々木信也が講演会でポロッともらした「若貴は兄弟といっても父親が違うんですよ」という一言だ。

ニ子山親方(元大関貴乃花)と女優藤田憲子との間に設けた兄弟が若貴のはずだが、佐々木氏の言はこれを明らかに否定している。

佐々木氏曰く、若乃花(お兄ちゃん)の父親はなんと初代若乃花、そして貴乃花(光司)の父親は...これがなんと第54代横綱の輪島なのだとか。

あまりにも衝撃的すぎる内容だが、それを裏付ける根拠もいろいろあるらしい。

まず「初代若乃花-お兄ちゃん」の方だが...
昨年ニ子山親方が死去し、その息子である若貴が遺産相続問題でモメた際に貴乃花がインタビューでこんな発言をした。


「勝さん(お兄ちゃん)は親父(ニ子山親方)よりも勝治さん(初代若乃花)に似てますよね。勝治さんも僕より勝さんを随分可愛がってますし。(中略)何か事情があるんじゃないですか?まぁご想像にお任せしますよ」

もし「勝治-勝」が叔父と甥ではなく父親と息子の関係であれば、貴乃花の言もそれを暗示しているようにも思える。


次に「輪島-貴乃花光司」の方。
そもそも若貴兄弟があまりにも似てないというのはかねてから言われていたことだが、なぜか光司は成長するに従ってどんどん輪島に似てきたらしい。

しかもニ子山親方は現役時代から輪島とは親友で、憲子夫人との結婚前は会話の間が持たないため輪島を入れた3人でよくデートしていたとか。(これは輪島がTVで暴露)

ゆえに「輪島-憲子」間に何らかの繋がりがあってもおかしくはない。

また光司は98年に一度兄弟絶縁宣言を出しているが、これも貴乃花光司そもそも花田家の血を引いていないことになれば大いに納得のいく話である。

そうなると憲子夫人の行動が問題視されることになるが、佐々木氏の言によれば、これは不倫ではなく計画的に実行されたものだという。

二子山親方は種無し(ホ◯との説も)だったそうで、憲子夫人は後継者を生むためにニ子山親方に近い初代若乃花と輪島の種をそれぞれもらったとか。

先日タレントの向井千秋が双子を代理出産していたが、アレに近いことを秘密裏に行ったということだろう。

しかし仮に肉体的な繋がりがなかったとしても、世間的には考えられないドロドロした世界ではある。

花田家の力士で唯一横綱になれず、しかも早逝した上にホ◯だの種無しだの散々言われる故・二子山親方には心から哀悼の意を捧げたい。

(AT/MTさんより)




初代横綱若乃花花田勝治)が愛人との間に作った子供が今の二子山親方(元大関貴ノ花)。

洒落にならんので、弟ということにした。

更に大部屋女優だった憲子と二子山は同棲していたが、初代若乃花(当時の二子山親方)はこれに猛反対しており、何度も憲子のもとに通っているうちに、あろうことか、初代と憲子がなんと出来てしまい憲子は妊娠!!

その子が花田勝、つまりお兄ちゃんである。

さらに洒落にならんので、急遽二子山(当時貴ノ花)は憲子と結婚、勝を我が子とした。

(ここで結局勝治は息子(いちおう弟ということになっているが)二子山に大きな借りができた。

後年勝治がいとも簡単に 相撲界を退き、当時の藤島親方に二子山部屋をタニマチ ごと破格の安さで譲り渡したのは、このためである)

さらに今の貴乃花花田光司)は、憲子と輪島の子だということは皆さんご存知のとおりだが、実はここはウラがとれていない。
しかしあの顔となによりも体つきのクリソツぶりはそれを信じさせるのに十分足りる。

つまり二子山夫妻は今も昔も仮面夫婦(*注 離婚しました)なのである (二子山はタネなしとも言われる)。

そしてこのことを花田勝はある程度知っていたのだが、全く知らなかったのが光司。

そしてそのことを光司の耳に吹き込んだのがあの整体師・冨田であり、それを聞いて心底わが家族が嫌になり、以降全く親方、そしてそれを隠していた兄と袂を分かとうとしたのが、あの「絶縁宣言」の真相である。

(あの掲示板より)




日馬富士横綱としての初優勝を全勝で成し遂げた大相撲初場所・千秋楽。

同日、十両では貴ノ岩が12勝3敗で初優勝を果たした。

2004年2月に創設された貴乃花部屋にとって初の十両優勝力士となる。

「親方になって初めてわかったが、相撲は自分が取るほうが数段楽だ。弟子の相撲ほど、心臓に悪いものはない」

こう語ったのは貴ノ岩の師匠・貴乃花親方。

ご存知、第65代横綱貴乃花だ。

初場所開催に合わせ上梓した自伝 『生きざま』の中で、親方としての苦労を語っている。

本書『生きざま』は、父親である元大関貴ノ花の初優勝時、貴乃花が2歳のときまで遡り、そこからの激動の相撲人生を振り返りながら、40歳を迎えた今、どう相撲とかかわっていくかというまさに「生きざま」が詳細に綴られていく。

“輪島のおじさん”に教わった、わんぱく相撲での横綱土俵入り
・新弟子時代に兄弟子達から受けた「かわいがり」
千代の富士との初対戦
・叔父である二子山理事長からの賜杯を受け取った時の本当の気持ち
若貴ブームとマスコミの呪縛
・「貴ノ花」から「貴乃花」に変わった経緯
・「不撓不屈」は師匠から、「不惜身命」は緒形拳からもらった言葉
・洗脳騒動の真実、そして身内との関係性
・非難を浴びた体重増の背景とその壮絶な方法
小泉首相(当時)の「感動した!」が生まれた、武蔵丸との対戦の舞台裏
・引退後……親方業、相撲協会理事としての苦労

ワイドショーやスポーツ紙をはじめ各メディアを賑わせ、相撲ファンならずとも印象深いこれらのエピソードの裏側を惜しげもなく語っている。

読者の誰もが知りたい、宮沢りえとの破局若乃花との確執についても、実名こそないものの「それ」とわかる記述がなされ、現役時代通り、潔い姿勢で貫かれた一冊だ。

だが、ここではあえてそれらは取り上げない。

なぜなら、本書でもっとも熱く、ページを割いて語られるのは、父であり師匠である元大関貴ノ花についてだからだ。

その意味で本書は、元横綱貴乃花の自伝でありながら元大関貴ノ花の回顧録にもなっているという、二人の貴乃花貴ノ花)の物語でもある。

父の取り組み時にはテレビの前に正座してその相撲を食い入るように見つめ、取り組み後はビデオに録画した映像を何度も見返した少年時代。

《父がどうして勝ったのか負けたのか、子どもながらに一生懸命分析しながら、父と一緒に相撲を取っている気持ちになっていた》という姿は、後の横綱としての結果を知れば納得だが、実際にそんな少年を目の前にすれば異様な光景と思われても仕方のない、まさに修羅への第一歩。

「世界一近くて遠い実家」と呼ばれ、その後何度もメディアで流されることになる三階の実家から二階の藤島部屋への引っ越しの際、生まれて初めて見た父の涙。

《あの厳格な父を子どものように泣かせた、そうまでして決めた道だ。負けるわけにはいかない。逃げ出すわけにはいかない》という決意は、無口でクレバーという形容詞が似合っていた貴乃花らしくない熱い一面を垣間見せてくれる。

その他にも、横綱千代の富士との初対戦で勝利した際、「これだけ騒がれている中で、自分の相撲を取りきったところはたいしたもんだ」と褒められたことを「耳を疑った」「私を褒めたことがない師匠が初めて褒めてくれた」とまるで大事件のように綴るなど、現役時代に師匠からもらった言葉、受けた指導を詳細に振り返っていく。

それは親方になった今でも変わらない。

貴ノ岩が三段目で初優勝を果たしたときも、《自分が優勝したときなどは、涙はおろか、「嬉しい」という感覚さえもなかった。弟子の優勝がこれほど嬉しいものとは思っていなかった。

父はどんな思いで、私の優勝を見守っていてくれたのだろうか。私に隠れてこっそり涙を流したこともあったのだろうか。

確かめたくても、確かめる術はない》と、まず父の顔を思い浮かべている。

本書の冒頭において貴乃花は《私は横綱になるという父の夢を果たすため、父の分け身としての人生を歩んできた。各界入りをしてから今日まで、私の中には常に父の言葉が、父の魂があった》と語っているのだが、この「分け身」という言葉が本書の中で何度も何度も登場する。

二場所連続全勝優勝という偉業で横綱昇進を果たした時も、喜びよりも「これでいつでも辞められると思った」と吐露し、《本来、横綱になるべきだったのは師匠。

私はその分け身としての使命を果たしただけだ》と綴る。

洗脳騒動時、父からも信じてもらえず、誰も味方がいない状況になっても、《私が変わらず相撲に打ち込んでいれば、師匠も見方を変えてくれるだろう。

私と師匠をつなぐのは相撲しかないのだ》とひたすら四股を踏み続け、《私はあなたの分け身としてしか、自分の生に価値を見いだしたことがないのだから》と告白する。

そこからは、師匠と弟子、父と子の関係性を超えた、崇高な存在であったことが伺えてくる。

それが如実にわかるエピソードがある。すこし長いが引用したい。


《あるとき、前世が見えるという人に「あなたは前世でもお父様と親子で、その背中を追って生きてきた。今世でもそのままのことが行われている」と言われたことがある。

前世というものが本当に存在するのかわからないが、そのときは「そうかもしれない」と思った。もし、父が造り酒屋だったら、私も造り酒屋となっていただろう。

もし、父が医師だったら、私も医師になっていただろう。

私は、父の子としてこの世に誕生した瞬間に、相撲という修羅の道で生きることを宿命づけられていたのだ》
平成の大横綱貴乃花

それは一人で成し遂げた地位ではなく、親子二代に渡る共闘によって登りつめた地位だったことがよくわかってくる。

そんな父からの「部屋を頼むぞ」という遺言を受けて二子山部屋を引き継ぎ、現在は貴乃花部屋の師匠を務める一代年寄貴乃花。周囲の誰とも口をきかなかった現役時代とは打って変わり、他の親方衆とも酒を酌み交わし、相撲協会理事として宣伝活動や裏方業にも忙しい日々を送る。

スカウト活動もせず、タニマチに依存しない「サポータ制」(年会費2000円)を導入するなど、これまでにない部屋運営がよくも悪くも注目を浴び、話題先行と見られることも多い。

だが今回、貴ノ岩が十両優勝を果たしたことで、着実に部屋としての実績も追いついてきた格好だ。

苦労の末、辿り着いた弟子の初優勝をどんな気持ちで見届けたのか、そしてこれからどんな相撲道を歩んでいくのか……これについても本書の中で綴られている。

《もう、これ以上の分け身はいらない。叔父、父、私とつないできた相撲界と花田家の因縁は私の代で捨てよう。そのかわり、この身は惜しむことなく骨の髄まで相撲道に捧げよう》
一代年寄貴ノ花の不惜身命の相撲人生は、これからも続いていく。

(エキレビさんより)



「兄より優れた弟など、存在しねぇー‼」リンク


「父の四股名で綱をとる」リンク





違う調べ物をしていたら
ふと
若貴の記事が目に止まる

若貴の時は
私も相撲をよく見てました

兄貴は天才型
弟は地道な努力家

兄貴は天才的な
運動神経をしています

弟はひたすら
努力と稽古で
強くなった

当時から
似てない兄弟だなと
思っていました

私もなんで
あそこまで
仲がこじれるのだろう?

不思議でした

多分
この通りなのだろう

でも
種違いとはいえ
兄弟には違い無い

いつかは
仲直りしてほしい

私にも4歳下の
弟がいます

以前は
親父と弟と三人で
仕事をしてました

親父が死んでから
色んな事があり

今は絶縁状態

なんか鏡を
見てる様

なんで
こうなったんだろう?

多分
俺が悪いのかな…


貴乃花親方ロングインタビュー リンク




兄貴は何を想う…


日本文化センター


おせち 2017年


空気清浄機


アイフォーレ




俺は賢い?


俺は賢い?




テレビで朝から晩まで大量の情報を浴びても白痴化する理由


テレビは雑学の宝庫で、朝から晩まで私たちに何かを教えてくれる。しかし、それでいて「テレビばかりみていると馬鹿になる」とはさんざん言われてきたことだ。


「テレビばかり見ている人間は馬鹿かもしれない」というのは私たちは経験的に知っている。

私たちは、テレビを見ていつの間にか馬鹿になった人は掃いて捨てるほど知っているからだ。逆にテレビを見ていつの間にか天才になった人の話はまったく聞かない。

もしテレビを見ていると次第に天才になっていくのであれば、朝から晩までテレビを見ている子供や、テレビを見るしかやることのない高齢者は次々と天才になっていって、日本は天才だらけになっていただろう。


現実は逆だ。





テレビばかり見ている子供は愚鈍になっていき、言葉の発達も認識も遅れていく傾向にある。また、テレビばかり見ている高齢者は次第に無気力になり、認知症を発症したり加速したりすることもある。

テレビは朝から晩まで私たちに情報を与えてくれるが、それに接していると、次第に白痴化してしまうのである。


「考えたくない。考えるくらいなら死にたい」

大量の情報を死ぬほど浴びているのに、なぜテレビを朝から晩まで見ていると白痴化してしまうのか。その理由は1つや2つではない。

そもそも、テレビは何事も誇張し、大袈裟に騒ぎ、わめき、次から次へと強いインパクトを私たちに与えてくる。つまり、テレビが視聴者に与える刺激は非常に強いものがある。

インパクトを与えることによって、テレビは視聴率を上げようとするのだが、そのインパクトを朝から晩まで、来る日も来る日も浴び続けていると、人間はどうなるのか。

急速に脳は防衛状態に入り、「考えないで受け流す」ようになる。つまり、思考停止に入る。前頭葉が働かなくなる。

強い刺激は感じているのでテレビに釘付けになるのだが、そのまま思考停止になってインパクトだけ感じている。つまり、刺激を受けて身体は反応しているのだが、脳だけが働かなくなっている状態だ。

嫌なことや世間の憂さを忘れたい人は、食事をして、ビールを飲んで、テレビを見るのだが、それは何をしているのかというと、自発的に、強力に、自分を「思考停止」に追い込んでいるのだ。


「考えたくない。考えるくらいなら死にたい」と無意識に思っている人は、世の中には山ほどいる。


そういう人たちがテレビを慰めにするのは、テレビがその「考えたくない」を実現してくれる道具だからでもある。

テレビは次から次へと雑学や知識を与えてくれているのに、それを見続けると馬鹿になるのは、一方的に強い刺激を与えられることによって脳が停止して、それが単に「雑音」として処理されるからだ。

雑音はいくら長い時間をかけて聞いても、それが人生を豊かにすることは決してない。そもそも、「雑音を聞き続ける意味とは何か」を考えることすらもできない。脳が思考停止しているからだ。


テレビに座って得ている情報は、99%が無駄なもの


物事を覚え、深く理解するためには、集中力が必要だと言われている。専門知識を覚えるためには、そこに意識を集中し、何度も同じ知識に触れて反復しなければならない。

テレビで何かの教育番組をやっていたとしても、その知識は次の日に影も形もなく消えてしまっているのは、そこに集中していないし、一度きりで消えてしまって二度と接することもないからである。

テレビでやっている「何か」は、その99%は自分の人生や生活に関係のないものだ。そのために、何らかの情報に接しても、ただ単に暇つぶしにしかならない。

テレビに座って得ている情報は99%が無駄なものだと言っても過言ではない。その無駄なものに朝から晩まで付き合っているということは、一日のほぼすべてを無駄なもので時間を消費したということになる。

テレビでやっているのは雑学だ。雑学は「雑」とあるように、時間つぶしには最適だが、本物の知識ではないので、自分の身につかない。仮に付いたとしても、役に立たない。

私たちが本当に必要としているのは雑学ではない。必要のないものは、それにいくら時間をかけても意味がない。意味がないことは、いくらうまくやっても価値がない。


私たちに必要なのは、目的意識を持って選び取った知識である。自分が生きるのに必要な知識である。自分の人生を成り立たせてくれる専門知識である。


見て、聞いて、匂って、触って、食べて、感じて、考えて、手に入れた経験や知識は忘れない。また、自分が興味があって、じっくりと腰を据えて調べて、考えて、検証して、手に入れた経験や知識は確実に身につく。

専門知識はテレビを見て手に入るのではなく、自分でそこに集中して、それを覚えたいという切実な欲求と努力と向上心があって初めて身につく。

逆に言えば、努力しないと専門知識というのは手に入らないのである。少なくとも、テレビをだらだらと見て専門知識が手に入ることは絶対にない。思考停止にはなるが、知識向上にはならない。


大切なことを反復して覚える機能を悪用するテレビ


専門の知識、専門の技術、専門の能力を向上させるためには、だらだらと一方通行で流れる情報に受け身になるのではなく、必要なものを必要なだけ「反復」しなければならない。これを勉強や練習という。


人間は、「それが自分にとって大切なものである」と分かったものに対しては、繰り返し反復することで手に入れる。これができない人は、何も手に付かない。

「反復」の重要性が分かって、重要なことについては何度も反復できる人は、人生で成功する秘訣を手に入れたも同然だ。早くそれに気付いた人は早く大成する。



大切なことを反復して身につけるという習慣がつかなかった人は何も成し遂げることができない。それほど「反復する」というのは大切なことである。



ところで、テレビはこの「大切なことを反復して覚える」という人間の機能を悪用をもしている。

大量の刺激を与えることで思考能力を奪い取り、思考停止にさせた脳に、今度は同じコマーシャルを執拗に反復することによって洗脳する。



本当はプラセンタなんて 知りません


同じコマーシャルを朝から晩まで繰り返し反復することで、それを脳に焼き付け、買わずにおられない消費ロボットのようにしてしまうのだ。

本来は大切な専門知識や技術や能力を反復して脳に刻み込まなければならない。しかし、テレビを見続けていると、その重要な部分がコマーシャルで埋まってしまう。

そして、コマーシャルの反復でそれが脳に焼き付いた人は、どこかでそのコマーシャルの商品を見たら、無意識にそれを買う行動に結びつく。



何とかGOをplayする とある国の賢い人たち


思考停止にされた上に、単なる消費ロボットにさせられてしまうのである。


どうすればいいのかは明白だ。テレビはだらだらと見るべきではないし、自分の大切な人や子供には見せるべきではない。他の有意義なことに時間を使った方が絶対に良い。テレビを見なくても、もう今の時代は困らない。

まだテレビに依存している人は、意識的にテレビから離れる方が幸せになれる。

思い切ってテレビを捨てた方が、世の中を見通せるようになる。思考停止がなくなり、下らないコマーシャルに洗脳されなくなり、頭が働くようになるからだ。

このすがすがしさは、試す価値がある。



とある国の未来はあるのか?


思い切ってテレビを捨てた方が、世の中を見通せるようになる。思考停止がなくなり、下らないコマーシャルに洗脳されなくなり、頭が働くようになるからだ。



DUAさんより
画像は追加しています。








DTI SIMプラン







ポロニウム210


ポロニウム210





ニコチンの奥に隠された煙草の闇
ポロニウム被爆の恐怖


煙草にはニコチンが含まれており、これが健康を害している。喫煙に反対する人たちの多くがこの言葉を口にします。
 

その一方で、ニコチンがそれほど健康に害があるとは思えないと主張する人もいて、結局、未だにニコチンの毒性がどれほどのものなのかについてはっきりと結論が出ていません。
 

少なくとも、ニコチンを決定的な悪玉に仕立て上げることができていないというのが現状でしょう。
 

そのため、喫煙者たちは未だに身体に悪いと分かっていながら、やめられないから仕方がないと言って、お金もないのに煙草を吸いつづけています。
 

しかし、煙草の一番の問題はニコチンではなく、ポロニウムという放射性物質なのです。
 




このポロニウムという名前、どこかで聞いた覚えはありませんか。2006年12月、元KGB旧ソ連の国家保安委員会)情報部員アレクサンドル・リトビネンコ氏がロンドンで殺されたときに使われた猛毒の放射性物質です。
 


英国健康保険庁はリトビネンコ氏の尿から「ポロニウム210」が検出されたと発表しました。リトビネンコ氏の死因は体内被曝による多臓器不全。通常、人間の体内から検知されるほどの量のポロニウムが発見されることはないので、暗殺だという噂が流れました。ポロニウムの致死量は1億分の1グラムと言われ、リトビネンコ氏の身体からはその100倍の量のポロニウムが見つかったと言われています。
 

亡くなる前のリトビネンコ氏は、頬もこけ、髪も抜け落ちていました。上の写真がそのときの様子です。
 

2006年のニューヨークタイムズにも、こう書かれてあったそうです。(NYTimes.comより参照)
 


隠し味で入れてます。by J◯


●タバコ産業は、少なくとも1960年代からタバコに相当な量のポロニウムが含まれていることを知っていた。

●喫煙者はタバコ1本吸うたびに、平均0.04ピコキューリーのポロニウムを吸っている。

●初期の原爆に使われた核物質の何千倍もの放射能がある。

●1日に1箱半のタバコを吸う喫煙者は、年300回も胸部にX線を浴びたに等しい。
 

この記事を受けて、『週刊現代』(2007年1月6・13合併号)でも「ポロニウムがふつうのタバコに含まれていた」と記事にしました。
 

さらに詳しい情報を以下を記載します。
 

■米国の土壌や空中に存在する「ポロニウム210」「ラドン222」といった放射性物質がたばこの葉に取り込まれるため、1日1~2箱の喫煙によって、気管支上皮細胞が年間8~9レム被爆する。胸部X線写真1枚の被爆量が0.03レムなので、喫煙による被爆量は年間にして胸部X線写真300枚分に相当する。1979年米国スリーマイル島での原発事故で、周辺住宅地域での被爆量は0.0015レム。これを毎日浴びたとして年間0.5レムなので、喫煙による放射能被爆はとんでもない量である。
 


ニコチンタールでがんになる?本当は…。
言えません…。by ◯T


ギリシアの喫煙者(1日20本)の1年間の実効線量の平均値は、287マイクロシーベルト(ポロニウム210からの124マイクロシーベルトと鉛210からの163マイクロシーベルト)になると推定。喫煙者の吸入量は、北半球の中緯度地方に住んでいる非喫煙者より平均およそ12倍高い。
 

■ハムスターを使った実験で、「ポロニウム210」よる15~300ラド(現在の単位で0.15~3グレイ)の気管支内への被爆によって、9~53%に肺がんが発生したというもの。喫煙者は「ポロニウム210」によって20ラド(0.2グレイ)の気管支上皮への被爆を受けていると推定されるので、この結果は、「ポロニウム210」や鉛210からのアルファ線が喫煙者の肺がんの原因となっているという仮説を支持する。
 

■【エジプトの論文】1本のたばこの「ポロニウム210」の放射能は16.6(9.7-22.5)mBq(ミリベクレル)だった。その分布割合は、たばこのフィルター4.6%、たばこの灰20.7%、煙74.7%。1日20本の喫煙者は、「ポロニウム210」と鉛210から1日に123mBqを吸っていることになる。そうすると1日20本の喫煙者は、「ポロニウム210」から193マイクロシーベルト、鉛210から251マイクロシーベルト被爆を受けていることになる。
 

■ブラジルでもっとも売れている8種類のたばこから「ポロニウム210」と鉛210の放射性物質が検出された。乾燥たばこ1gから鉛210が11.9~30.2mBq、「ポロニウム210」が10.9~27.4mBq検出。1年間でブラジルで生産されているたばこから15000シーベルトもの被爆を受けていることになる。
 

■【ポーランドの論文】喫煙者は「ポロニウム210」から35マイクロシーベルト、鉛210から70マイクロシーベルト、あわせて105マイクロシーベルト被爆を受けている。
 

JTにタバコにポリニウムが入っているのかどうか尋ねると、「可能性はある」との返答が返ってくるそうです。しかし、彼らはこの事実を全く公にしていません。国もまたこの情報を隠したままです。そのため、相変わらずニコチンの問題だけが取り沙汰され、多くの人たちが煙草の本当の恐ろしさを知らないまま吸いつづけています。
 

明らかに何かおかしいです。やはりこれはイルミナティによる人口削減計画の一環ではないかと思って、とりあえずJT筆頭株主を調べてみました。すると、以下のようになっていました。
 

○株式の状況 | JT ウェブサイト
 

驚いたことに、財務省がその大半の株を所有しています。そして、それ以外の株はやはり例のごとく金融ユダヤ人たちがそのほとんどを握っていました。言うまでもなく、ユダヤ人が日本人にとって有益な情報を流してくれるはずもないので、今後もこの情報が大手メディアで報じられることはないでしょう。しかも、この国の官僚までもがユダヤ人とグルとなって、国民の健康被害に一役買っているわけです。本当にあり得ないことです。



わしみたいに、ならん様にな…。


RAPT氏より
画像は追加しています






タバコはストレス解消に
抜群の効果があります!

日本の皆様に
沢山吸って頂き

程よく
病◯に!

日本人は
あまり疑う事が無いから
とても
やり易いです!

そうしないと
私ら
おまんまの
食い上げです

by ◯T

がんは
生活習慣病です
タバコは
全く関係有りません
是非
人間ドックを

若い方が
いいですね

長く
お付き合い
したいですね

心配してます
本当です

by 悪◯医者






プライマリー 


人という名の万能細胞



人という名の万能細胞










遠藤憲一さんとお父さん









被曝の恐ろしさについて

DNAが破壊されて、細胞分裂が上手くいかなくなる






人類で最初に放射線を発見したのは、ドイツの学者レントゲンです。



彼は1895年に、陰極線管の実験中に、「正体不明の不思議な光」が発生しているのに気づき、『エックス線』と名付けました。



翌96年には、フランスの学者ベクレルが、ウラン鉱石から謎の放射線が出ている事を発見し、『放射能』と名付けました。



98年にはキュリー夫妻が、ウラン鉱石の中からラジウムポロニウムを分離して、

それらが放射能を持つと突き止め、『放射性物質』と名付けました。







ある国の被曝キャンペーン








当時は、放射能の恐ろしさは知られていませんでした。



少しづつ、「被曝は有害である」と分かってきたのです。





被曝の恐ろしさを理解するには、「生命の仕組み」を知る必要があります。



人体は、もともとは1つの『万能細胞』からスタートします。



その1つの細胞が分裂していき、分裂をくり返して人間の形になります。



大人の身体には、60兆個もの細胞があります。



どの細胞も、「遺伝情報」は同じです。



私たちの生命は、細胞分裂をしながら、同じ遺伝情報を複製することで支えられています。



細胞には核という部分があり、その核の中にはDNAの二重らせん構造で遺伝情報があります。



細胞分裂の時には、DNAの鎖がスーッと分かれて、片方の鎖がもう片方を正確に複製し、

新旧が対になって元と同じ配列で繋がるのです。



DNAの幅はわずか2ナノメートルで、繋げていくと1つの細胞につき長さは1.8mにも

なります。



ナノメートルの極細の糸を、正確に複製して繋げるのですから、まさに「神業・神秘」です。



放射能被曝は、この神業で組み立てられる遺伝情報(DNA)が、切断されて異常を

起こします。






1999年9月30日に、東海村の核燃料の加工工場で、『臨界事故』が起きました。



工場内の容器内で、予期せずに核分裂反応が始まったのです。



放射線が大量に放出され、避難勧告が出されましたが、700人近くが被曝しました。



中でも現場で作業にあたっていた3人が大量に被曝し、そのうち大内久さんと篠原理人さんが短期間で亡くなります。



2人は放射線医学の総合研究所に担ぎこまれましたが、治療は出来ませんでした。

被曝量を調べた結果、「もう助けられない」と分かったからです。



2人の被曝量は、大内さんが18シーベルト、篠原さんが10シーベルトでした。



人間は、2シーベルトの被曝をすると死ぬ人が出始め、4シーベルトでは半分が死に、

シーベルトでは全員が死にます。



2人は、被曝によってDNAがズタズタにされて、身体の再生する能力を失い、

苦しみながら亡くなりました。



当初の大内さんは外傷もなく、看護師とおしゃべりするほど元気だったといいます。



ところが、1ヵ月後には全身が焼けただれた様になってしまいました。

それは、皮膚の再生ができなくなったからです。



皮膚だけではなく、肉・骨・内臓も再生されず、ただれていきました。



大内さんは、毎日10リットルを超える輸血と輸液をしながら、天文学的な量の鎮痛剤を

投与され、83日後に他界しました。



その治療の経過は、『NHK「東海村臨界事故」・朽ちていった命』として出版されました。



痛ましい内容ですが、価値のある本です。







原発のウソ 小出裕章著から抜粋)







院長の独り言リンク









俺たちのDNAは被曝で…?













島唄


島唄



■概要

島唄」は「THE BOOM」というバンドの代表曲の中の一曲

THE BOOM」はバンドブームのはしりであった1986年(昭和61年)11月に結成し

そのバンド名は、「常に流行に左右されず自分たちの音楽を貫いていけるように」という逆説で

ヴォーカルの宮沢和史さんが命名したんだとか

島唄」は1992年1月22日発売のアルバム「思春期」に収録され

その翌年の1993年6月21日シングルカットされた「島唄(オリジナル・ヴァージョン)」が

全国発売となり150万枚以上を売り上げる大ヒットを記録しました

その年の紅白歌合戦にも出場、「レコード大賞」でも「ベストソング賞」を受賞し、

名前の通りブームを巻き起こしました

丁度その頃 全日空による「ANA'S SUMMER 沖縄」という

沖縄キャンペーンが行われており

森高千里さんが出演するCMがバンバンながれるなど

バブルの余韻が残る中「沖縄」ブームが
島唄」の背中を押して行った 
そんな時代背景でした



■「島唄」創作秘話

2005年朝日新聞に「宮沢和史の旅する音楽」
というシリーズが連載され、
島唄」の創作秘話が語られ
この「島唄」の裏歌詞、本当の意味というのが話題になりました



朝日新聞宮沢和史の旅する音楽」引用


島唄』は、
本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。

91年冬、
沖縄音楽にのめりこんでいたぼくは、
沖縄の『ひめゆり平和記念資料館』を初めて訪れた

そこで『ひめゆり学徒隊』の生き残りのおばあさんに出会い、

本土決戦を引き延ばすための『捨て石』とされた激しい沖縄地上戦で

大勢の住民が犠牲になった事を知った

捕虜になる事を恐れた肉親同士が互いに殺し合う

極限状況の話を聞くうちにぼくは、
そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた

資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟)の中にいるような造りになっている

このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった

だが、その資料館から一歩外に出ると、
ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている

この対比を曲にして
おばあさんに聴いてもらいたいと思った

歌詞の中に、
ガマの中で自決した2人を歌った部分がある

『ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら』

という下りだ

島唄』はレとラがない沖縄音階で作ったが、
この部分は本土で使われている音階に戻した

2人は本土の犠牲になったのだから


2005年8月22日 朝日新聞(朝刊)




■本当の意味


THE BOOM  「島唄」  作詞:宮沢和史

でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た
(1945年春、でいごの花が咲く頃、米軍の沖縄攻撃が開始された。)

でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
(でいごの花が咲き誇る初夏になっても、米軍の沖縄攻撃は続いている。)

繰り返す 哀しみは 島わたる 波のよう
(多数の民間人が繰り返し犠牲となり、人々の哀しみは、島中に波のように広がった。)

ウージの森で あなたと出会い
(サトウキビ畑で、愛するあなたと出会った。)

ウージの下で 千代にさよなら
(サトウキビ畑の下の洞窟で、愛するあなたと永遠の別れとなった。)

島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ
島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある神界 "ニライカナイ" に戻って行きなさい。)

島唄よ 風にのり 届けておくれ わたしの涙
島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
(でいごの花が散る頃、沖縄戦での大規模な戦闘は終わり、平穏が訪れた。)

ささやかな幸せは うたかたぬ波の花
(平和な時代のささやかな幸せは、波間の泡の様に、はかなく消えてしまった。)

ウージの森で 歌った友よ
(サトウキビ畑で、一緒に歌を歌った友よ。)

ウージの下で 八千代に別れ
(サトウキビ畑の下の洞窟で、永遠の別れとなった。)

島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
島唄よ、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある神界 "ニライカナイ" に戻って行きなさい。)

島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を
島唄よ、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)

海よ 宇宙よ 神よ 命よ
(海よ 宇宙よ 神よ 命よ 万物に乞い願う。)

このまま永遠に夕凪を
(このまま永遠に穏やかな平和が続いてほしい。)

島唄は 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
島唄は、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある神界 "ニライカナイ" に戻って行きなさい。)

島唄は 風に乗り 届けておくれ 私(わくぬ)の涙(なだば)
島唄は、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい。)

島唄は 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
島唄は、風に乗せて、死者の魂と共に海を渡り、遥か遠い東の海の彼方にある神界 "ニライカナイ" に戻って行きなさい。)

島唄は 風に乗り 届けておくれ 私(わくぬ)の愛を
島唄は、風に乗せて、彼方の神界にいる友と愛する人に私の愛を届けてほしい。)








ライブノートさんより
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沖縄の真実 リンク








 





食材宅配




卓球の女神


卓球の女神




15歳の卓球五輪代表・伊藤美誠
母の猛特訓と、規格外のメンタル


福原愛石川佳純に続き、3人目のリオ五輪女子卓球日本代表に選ばれた伊藤美誠。


ダブルス、シングルス両方でワールドツアー史上最年少優勝を果たし、世界に大きな衝撃を与えた15歳の少女は、どのように鍛えられてきたのか。そこには取材陣の想像を超えたエピソードがあった。



関西在住のライター城島充氏と新大阪駅で合流し、タクシーに揺られること10分ほど。マンションや商店が建ち並ぶ住宅街の一角に「関西卓球アカデミー」の入るビルはあった。日本生命卓球部、そして卓球女子日本代表の監督を務める村上恭和が2012年に開いたこの私塾が、伊藤美誠の練習拠点になっている。



伊藤のインタビューを行うのは昨年2月に刊行したNumber872号「ヒロインを探せ!」以来、約1年ぶり。前回は卓球に青春を捧げる少女たちの群像を描く「ピンポンガールズ!」の中の一人としてだったが、今回はリオ五輪での活躍が期待されるアスリートたちを追う新連載企画の第1弾。前回の取材時点では決して現実的でなかったリオの代表候補の座を、伊藤はみごとに掴んだのだ。



4月に行われるリオ五輪のアジア予選で、石川佳純福原愛が実力通りシングルスの出場枠2つを獲得すれば、日本に団体の出場枠も配分される見込みだ。世界ランキングで日本人3番手につける伊藤は、団体戦のメンバーとして五輪の舞台に立つことになる。


「14歳の時はダブルスって感じ」


現在15歳の伊藤は、1年前との違いをこんな言葉で表現した。


「14歳の時はダブルスって感じ。“みうみま”って感じでしたね。ダブルスがよければシングルスがダメ、シングルスがよければダブルスがダメっていうのが多かったんですけど、2015年は、韓国オープンだったらダブルスで優勝してシングルスは2位とか。そうやって、両方ともいい結果を出せたのでよかったと思います」

まだ中学1年生だった2014年3月のドイツオープン、同学年の平野美宇と組んだダブルスでワールドツアー史上最年少優勝を果たした時は、賞金額を聞かされて驚く無邪気な表情が話題になった。



その記憶もいまだ鮮やかな1年後、同じ大会で伊藤はシングルスの優勝者となる。ドイツオープンは、ワールドツアーの中でも最も格付けの高いスーパーシリーズの一つだ。ランキング上位者が集まるこの大会で次々と快挙を成し遂げる中学生が、いかにスペシャルな才能の持ち主かが分かるだろう。


母の“卓球中継胎教”


この時の戦いぶりが伊藤をリオの代表入りに大きく近づけることになるのだが、その成長の過程についてはNumber894号掲載の記事をぜひともお読みいただきたい。



今回の取材では、伊藤の母・美乃りのインタビューも行われた。娘が3歳になる前から始まったという卓球の猛特訓。その真相を確かめたかったのだが、母の発する言葉は取材陣の想像をはるかに超えていた。


「私は卓球が大好きで、社会人でも選手としてクラブチームに所属していましたし、テレビで試合を見るのも好きだったんです。妊娠期間中、美誠はお腹にいて映像を見れないので、私が見たままを実況中継して聞かせていました。口元からお腹に届くように曲がった筒を手づくりで用意して……」


ただその頃は、娘を卓球選手にしたかったわけではないという。自分が好きなものを伝えたい、同じ空間で感じてほしい。“卓球中継胎教”は、そんな気持ちの表れだった。


「素晴らしい子育てをされましたね」


しかしラケットを握るようになった娘の姿に、母は衝撃を受け、自身の選手生活をなげうってでも指導に全てを捧げる覚悟をする。卓球場では心を鬼にして厳しく接し、小学生の伊藤を連れてメンタルを専門とする大学教授に診てもらいにいったこともある。




「この子、どうでしょうかと話をしていたら、先生の目の前で美誠が爆睡し始めたんですよ。すると先生が言ったんです。『お母さん、もう答えは出てますよ』って」


大学教授は朗らかにこう続けたという。


「メンタルトレーニングが必要なのはお母さんです。なぜなら僕にアポをとって会いに来た人は今までいませんから。この子? 必要ありませんよ。寝るということは『私はあなたを必要としていません』ってことですから。子ども心にそれが分かっているんです。お母さん、素晴らしい子育てをされましたね」


美乃りのインタビューの間に写真撮影を終えた伊藤は、少し退屈そうにベンチで待っていた。そして気がつくと、ベンチに横になり、深い眠りについていた。


「もう十分でしょ」


規格外のメンタルをもつ15歳の心の声が聞こえた気がした。



Numberさんより
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伊藤美誠ちゃん リンク




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解放


解放



十字架を背負い続るSMAP 
解散は彼らの「解放」でもある


SMAPの解散は、本人たちにとったら解放なんじゃないのかって思うんです。ここ何年かSMAPをみていて苦しいなと思うことがあった。「27時間テレビ」に司会として出演していた時もそう。こんな役割を引き受けさせられてかわいそうだなと。SMAPも彼ら以降のジャニーズアイドルも基本的に解散せず、30歳を過ぎてもアイドルを続けてきた。その一番の理由は、人気が落ちないからでしょうが。


90年代以降の男性アイドルシーンはSMAPがつくってきました。80年代末までは「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」「夜のヒットスタジオ」といった歌番組に出ることがスターの条件。ジャニーズのアイドル、光GENJIや少年隊、男闘呼組も歌番組を通じてスターになっていきましたが、90年までに相次いで終了してしまう。アイドルは主戦場を失ってしまったんです。91年にデビューしたSMAPは場所を用意されていなかったから自分たちで新たな活躍のステージを切り拓くしかなかった。



いまでこそアイドルは歌だけでなく、俳優も司会も歌もやるが、それはSMAPがつくりあげたスタイルであって、SMAP以前と以降では明確な違いがある。


SMAP以前は、演技ができる男性アイドルはすごく限られていた。アイドルに演技力を求めるのは論外という扱いで、低く見られていました。しかし、稲垣吾郎NHK連続テレビ小説「青春家族」(89年放送)に続いてフジテレビの月9ドラマ「二十歳の約束」(92年放送)に出演したり、木村拓哉がフジテレビの「その時、ハートは盗まれた」(92年放送)、「あすなろ白書」(93年放送)に出演するなど、俳優としてのキャリアを積んでいった。





木村拓哉にとっては「ロングバケーション」(96年放送)の出演が決定的だった。つくり込まない、自然体の演技というのが90年代のドラマに入ってくるんですけど、木村はそんな演技を持ち込んだ一人。アイドルだけど、自然な演技ができるということで突出していった。90年代後半からの木村の圧倒的な人気につられる形で、しだいに全員が主役をはれるような存在になりました。SMAPの不動の人気は、誰か一人が突出しているのではなく、5人全員売れたから。草彅剛はグループ内では平凡的な位置づけですが、ドラマの俳優としてはむしろそっちの方がよかったりする。平凡な人間を演じられる方が需要があるんです。年を取ればとるほどその傾向は強くなる。


SMAPのメンバーがそれぞれ演技や司会など、プロフェッショナルであり続けているのは、本人たちが真面目だからでしょうね。昔はだらしなく崩れる人が多かったですが、SMAPや彼ら以降のアイドルは基本的にストイックで真面目ですよね。それは単なるアイドルではいられなくなったというのが大きいでしょう。



昔は、歌って踊っていれば、ちやほやしてもらえてそこで終われたはずだけど、いまはお笑い芸人と同じフィールドに立たなければいけなかったり、俳優として演技をしたりする。違うフィールドに出ていけば、必然的に半人前扱いしかされない。でも、結果をださなければ生き残れない。面白くなければいけないし、かっこよくないといけないし、歌も歌えなければいけない。それぞれの本当のプロ、たとえばお笑いのダウンタウンとかに勝てるかといえば、勝てないんだけど、拮抗できるように頑張らなければならない。平均点が高くなって、その結果、総合的に勝ったということではないか。



SMAPは開拓者であるとともに後継者でもある。トレンディドラマの流れからつながるフジテレビの月9ドラマ、その後に放送される「SMAP×SMAP」といったフジテレビが華やかで、景気が良かったころの最後の後継者。SMAPは解散によってそんなテレビ界最後のスターみたいな役割から、いい意味で解放させてもらえるのではないかと。もちろんそれでも中居正広はこれからも司会をするだろうし、他のメンバーも俳優で活躍するだろうし、個人個人が自由にやっていけるから、本来はもっと前にどこかのタイミングで解散してもおかしくなかったと思うんですけどね。SMAPがいなければ嵐が引き受ければいいだけですから。


トレンディドラマを延命させた一人が木村拓哉かもしれないし、「笑っていいとも!」などのフジテレビのバラエティ文化を引き継いだのは中居正広かもしれない。タモリ明石家さんまビートたけしといったビック3といわれる人達。もっとさかのぼると、ザ・ドリフターズクレイジーキャッツらの直系なんじゃないかな。彼らは演技も笑いも歌もできた。



SMAPがテレビ文化から離れられなくなっているというのは不幸な側面だ。いま明らかにテレビは下り坂。視聴者も高齢化しているし、新しい文化も生まれない中で、終わっていくテレビを引き受けさせられているのがSMAPなのではないか。伝統芸能のようになっているテレビの看板をわざわざ引き受けさせられているような。テレビは華やかでなければいけないというものの象徴になっている。


タモリが「笑っていいとも!」をずっとやめられなかった苦しさを、SMAPが引き受けるんじゃないかと漠然と思っていた。解散によってそれが解放されるなら、むしろそのほうが幸福なんじゃないか。





IRONNAさんより
画像は追加しています




たしかに
親方の
地盤があっての
今現在

仕事が
出来る様になれば
独立していく

上手く
関係を保ちながら
お互い発展していく

もう
十ニ分に
奉公したはず

日本の
古来からある
師弟関係

親方に
呼ばれたら
また
応援にいく

持ちつ持たれつ
義理は通す

日本人なら
解るはず

通用しない
世界もあるのか?

いや
そんな事は無い

永遠に
人を縛れる訳が無い

お互い
人間だ
心がある

親方に
裏切られ

仲間にも
裏切られ

もう
同じ仕事を
一緒に
出来る訳が無い

職人の世界は
仕事の
遅い速いは
あるけれど

出来る職人で
1.5人分

二人集まれば
3人分

5人が
同じ方向を向き
力を
合わせれば…

夫婦も
家族も
兄弟も
同じ事

全ての事が
出来る人は
この世にいない

だから
自分の出来ない事を
してもらう

膨大な
材料を前に
一人の職人だけでは
収めていけない

仕事も
人生も
同じ事

彼らの
能力を
個々で使うか

また
力を合わせるかは

彼らが
決める事

心を
解放し
自分を見つめる

もし
時間が経ち
わだかまりが
無くなれば
また
やればいい

心を合わし
力を合わせれば
大概の事は出来る


俺も
あいつも
同じ方向を
向いているのか
前に進まないのは
何故だ

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自動車学校

SugarDaddy

勝者の言葉


勝者の言葉



藤田晋(ふじた すすむ/1973年5月16日-/男性)は、福井県鯖江市出身の実業家。株式会社サイバーエージェント代表取締役社長を務める人物であり、ライブドア堀江貴文楽天三木谷浩史と並び『ヒルズ族』の筆頭格として知られた起業家。青山学院大学経営学部在学中にベンチャー広告代理店で営業のアルバイトを2年半ほど経験。大学卒業後に人材派遣会社インテリジェンスへ入社。インテリジェンス社の出資を受けて1998年に起業し、株式会社サイバーエージェントを設立。2000年には東証マザーズ上場を果たし、史上最年少の上場企業社長として大きな注目を集めた。

(参考文献:ウィキペディア+楽天ブックス+ベンチャー通信)





著書

主な著書(共著含む)に「藤田晋の成長論 ブレずに、逃げずに、成長し続けるための50のメッセージ」「藤田晋の仕事学 自己成長を促す77の新セオリー」「人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない」「憂鬱でなければ、仕事じゃない」「渋谷ではたらく社長の告白」「起業ってこうなんだ!どっとこむ」「サイバーエージェント流成長するしかけ」「藤田晋渋谷ではたらく社長の成功ノ-ト」「ジャパニ-ズ・ドリ-ム 26歳上場企業社長のe革命宣言!」などがある。




藤田晋の名言集


何事でも「結果ではなく、
プロセスを評価してほしい」
という人がいるけれど、

僕はこれを聞くたび、
ただならぬ
違和感をおぼえます。

僕は経営者なので、
結果が出なくても、
本気で仕事に
取り組んだ社員には、

次のチャンスを
与えるようにしています。

しかし、プロセスを
評価してほしいと
本人が考えているとしたら、

一体どこに焦点を合わせて
仕事をしているのか
心配になります。

そういう人が
結果を出したのを、
僕は見たことがありません。

結局、仕事とは
勝負なのです。

勝とうとしなければ、
勝てるわけがない。

プロセスというのは、
結果論で得られる
副産物に過ぎないのです。

結果を出せる人は、
見た途端にわかります。
目つきが違う。

それは獲物を狙う、
タカのように厳しい。

初めから、
勝ちに行こうとしている。

そこにプロセスを
評価してほしいという
甘えはありません。

変革を恐れない者だけが、
先に行ける。

とどまったままでは
未来は無い。

苦しみ抜いて
得られたものにだけ、
価値はあるのだ。

ベンチャー企業
最初からデカいところを
狙うべきだけど、

厳しい現実を直視して
突破口をみつけていかないと
先に進めないよ。

新たなネットビジネスは
参入遅れによる
機会損失が莫大で、

それと比べれば
参入コストなど微々たるもの。

何より、とりあえず
スタートして
目鼻を付けることが肝心です。

目標がはっきりしていて
軸がきまってると、

価値基準が明確になり、
優先順位、有り無し、
優劣が一瞬で判断できる。

新しいネットサービスを
ローンチ(立ち上げ)したら、

早期撤退を決断するか、
片時も集中力を切らさず
矢継ぎ早の改善を
積み重ねるかの

2択どちらかを
選択しなければならない。

信念を持ち、腹を括って
突き進む人間は強いが、

モラルが無ければ
最終的にはこける。

スタートラインは
みんな同じではない。

キャリアを積むには、
この事実を知って、
スタートダッシュをかけ、

できるだけ早くに
成果を出すことが大切。

企業社会では、
忍耐力が無い人が
最初に脱落する。

「企業に入ってからの競争」
で求められる忍耐力とは、

結果が出ないときに
結果を出すまで
頑張り通せるかどうか。

基本的に
インターネットサービスは

「最高」もしくは
「最速」なものしか
生き残れないと思います。

会社はわらしべ長者
のようなもの。

やりたいことに辿り着くまで、
一歩一歩こまを
進めていかないといけない。

有望なベンチャー起業家の条件
「高尚で壮大な志を掲げつつ、
やっていることは手堅い」

流れがいい
と判断したときに、

仕事をサボって
いてはいけない。

夢をかなえる人は、
忍耐強く理想と
現実のギャップを

埋めていける人しか
いないと思う。

自分の強みは何か。
自分の立ち位置は今どこか。

未来のことを考える前に、
今の現実を率直に
見つめなければ
現状を打破できない。

たったひとつ、
これに命を懸けていると

言えるほどのものを
持っていることが
とても大切だと思う。

今がんばらなければ、
いつがんばる。

経営の「先見性」
の正体は、

「先送りしないこと」
にあると考えてます。



何かを
成し遂げるためには、

目標を明確にして、
それを見失わないこと
が大切です。

当たり前のようで、
これができない人は多い。

起業を目指していたはずが、
仕事に追われ、熱意を失い、
惰性の中で夢から離れてしまう。

ひとえに目標に対する
集中力が甘いからだと思います。

成長のスパイラルに入るには、
とにかく量をこなす。
それに尽きます。

ですから、
朝は始発電車で出社し、

ほかの社員が出てくる頃には、
営業先に向かいました。

成功する確率が高い人と
何度チャンスを与えても
ダメな人の違いは、

結果を出すことに対する
執念です。

結果を出す人というのは、
絶対に諦めない。

そして、泥臭くても何でも、
なんとか目標を達成するんです。

かたや結果を出せない人は、
諦めが早い。

そして「○○のせいで」
「結果ばかりでなく、
プロセスも見てください」

などと目標を
達成できなかった
言い訳をあれこれするのです。

弊社が求めているのは、
自分のアイデア
熱狂することができ、

プライドも何もかも
なぐり捨てて、

その実現に寝食を忘れて
没頭できる人材です。

社長業というのは、
まじめにコツコツ
働いていけば必ず成功する
というものでもありません。

時代の流れを読んで、
「ここは力を入れるときだ」とか
「ここは手を出してはいけない」

と勝負勘を働かせたりすることも
時として必要です。

自分のアイデア
熱狂している人は、
目つきが違います。

目つきが違う人の話は
信じていい。

仕事は最初が
勝負の分かれ目です。

早めに成果が出ると、
自信が持てるので、
ますますいい仕事が
できるようになります。

周りからも
「あいつはなかなかやるな」
と認めてもらえて、

どんどん仕事を
任せてもらえるようになります。

すると、それに
取り組んでいるうちに
さらに実力がついて…
というように、

成長のスパイラルに
入っていけるんです。

実績がない中で
新しいことを
始めるのは難しい。

でもそれが
起業家の使命なんです。

身の丈にあった
経営は重要ですが

会社が成長し続けるためには
どこかで勝負することも必要。

その際の判断基準は
80%くらいの勝算があり、

仮に失敗しても致命傷に
ならないかどうか。






最近やたらと目に付く
アメーバ
何処がやってるのか

サイバーエージェント
社長は誰だ
藤田晋という人物

なんと
桜井章一の弟子

やはり
流れを読む力

悪い時には
引く勇気

そして
自分に風が吹いた時
一騎に勝負する

掴めそうで
逃げてゆく

振り返れば
そんな人生

俺は本気で
勝負したのか

本当は
まだ力が
残っているのか

風を
吹かす為に

俺は
どうすれば
いいのか

明日が
あるなら

まだ
終わらない

俺の
最期は
笑っているのか

それとも


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