I'm Japanese
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『古事記』の原稿を、1から全部書き直して、ようやく脱稿したのが3月の末。
サラリーマン時代からそうでしたが、何かのレポート作成などで、目一杯頭を使うと、終わってから2週間ほど、まるで頭が働かなくなります。
そのせいかどうかはわかりませんが、疲れを癒やそうとスーパー銭湯に行ったら、出掛けに縁石に車を乗り上げて、マフラーが破損。
修理工場に持って行ったら、部品がなかなか入らずに、結局昨日、ようやく修理となりました。
修理が終わって、あらためて車に乗ったらびっくり仰天。
もう15年経つ古い車なのですが、マフラーが新品に変わっただけで、車がまるで違う車になったみたいに調子が良くなりました。
そこで気付いたのですが、人生は何事も意味があって起きるといいますが、おそらく車もマフラーに不具合があったのを気付かずに乗っていたのでしょう。
事故はショックでしたが、結果から見れば、不具合を修理する大きなチャンスになったわけで、結果はとても良かったことになりました。
前回の『百人一首』では、書いている最中に、何かが降ってくることを何度も体験しました。
それは、なにものかによって書かされている、あるいは本当に神様が降ってきているという、明確な体感がありました。
おかげさまで、その何者かによって、すごい本が書けたような気がします。
ところが今回の『古事記』では、何かが降ってきて教えていだたいて書いたというのではなく、逆に『百人一首』で学ばせていただいた知恵で、まるで「書くことを試されている」ような感じがありました。
降りてきたものはあったのです。
書き始めの頃は、毎日が感動の連続でした。
ところが、何度目からの書き直し以降は、何かが降ってきて教えてくれるのではなくて、わからないこと、疑問に思うこと、矛盾を感じる点などを、ただひたすら納得できるまで調べて書くという、地道な作業の積み重ねになりました。
この作業をしながら、確かに感じたのは一点です。
それは、私心や欲が前に出ると、まるで筆が進まなくなるか、長い時間をかけて書いても、結局、数日して読み返したときに全文書き直しになる。
本気で神の書を学ばせていただき、日本を変える力になりたいという「公心」になると、それまで見過ごしていた様々な点が、不思議と理解でき、筆も進むし、書き直しもあまりない。
それは実に不思議な体感でした。
さて、今日お話するのは、レンタルで観た映画のことです。
ストレスの解消にと、借りてきたビデオに、『ピッチ・パーフェクト2』という映画がありました。
どういう映画かというと、ある大学のダメダメな、唯一の武器は強烈な個性しかないというガールズたちのアカペラ部が、みんなの気持ちがひとつになったとき、信じられないハーモニーが生まれ、全米選手権で優勝するという物語です。
最初の「1」は、2012年にアメリカで公開されたのですが、全米で扱ってくれたのはわずか335の映画館だったのだそうです。
「売れない」と思われたのですね。
ところが公開されると、週末の3日間で、なんと520万ドルを超える興行成績となり、即座に全米拡大が決定し、世界的な大ヒット映画となったのだそうです。
ヒットの理由は、ティーンを中心とした世代の口コミで、全米中に“ピッチ"旋風が吹き荒れたのだそうです。
ヒットしたということは、そこに共感があったということです。
面白いのは、この映画、アメリカという国の社会を反映して、女性たちの出身国が実に様々な設定になっていることです。
そして、それぞれの人種や民族の、アメリカ人たちが理解している特徴を、極めて象徴的に、笑いの中に本音で、語られています。
ストーリーも秀逸ですが、それ以上に、人種や民族の特徴が、見事に表現されているのです。
「ピッチ・パーフェクト2 」予告編
たとえば「1」では、主演の女性が大学の寮生活を始めるのですが、同居の女性が韓国人という設定です。
とにかくこの韓国人女性が排他的で、意図的に寮の部屋の同居人である主演女性に対して嫌がらせを行います。
そして自分を正当化する。
悪さを仕掛けているのは自分なのに、あたかも自分が被害者であることを装う。
主役の女性は、その韓国人女性の横暴に、ひたすら我慢を強いられるという設定です。
また、ガールズの女性のグループには、支那人女性がいます。
ニコリともしない女性で、ある日、みんなで自分の人に言えない秘密を暴露しあおうということになったとき、この支那人女性は「妹を食べた」と、しらっと告白します。
「2」にも、この支那人女性は登場します。
そしてここでも、「私の歯は、全部他人のもの」と、恐ろしい事実を告白します。
また、ラストの世界大会で、アナウンサーが、
「いまは、韓国のグループの出演ですが、誰も見る人などいませんね」
「パクリばかりだからでしょう」
と、韓国人をおもいきり笑い飛ばしています。
なんだか中共や韓国の大使館からクレームが付きそうなくらいですが、この映画は、特に支那人や韓国人だけを笑い者にしているわけではなくて、オーストラリア女性、英国系、ユダヤ系、ドイツ系、メキシコ系、アフリカ系など、さまざまな人種が登場し、それぞれが、いわば「ぶっ飛び」を大げさに演じている、笑いあり感動ありのパロディですから、苦情の申し立てのしようがない。
笑いの中に本音をチラホラさせているわけで、これに生真面目に苦情を申し立てれば、かえってそれを認めたことになってしまいますので、苦情の申し立てようもないわけです。
つまり、いまアメリカやヨーロッパ各国が知っている支那人や韓国人の持つイメージが、ひとことでいえば、人食い人種と、協調性のカケラもないわがままな嫌われ者であるということです。
そしてそうした描写が、世界の多くの若者達の共感を得たからこそ、この映画のヒットがあったのではないかと思います。
韓国は、自国民がいかに立派であるかを韓流ドラマなどの映画を通じて、莫大な予算をかけて世界に宣伝しています。
韓国が、「誰も知らない東洋の小国」であるうちは、そういう「つくられたイメージ」も通用します。
ところが米国在住者の数が増えてくると、つくられたイメージとは異なる、本当のその国の民衆の姿が、露わになるわけです。
そしてこの映画でわかることは、コリアンは全米の若者たちからの嫌われ者になっているということです。
いくら、見栄を張り、カネをばらまいて、政治的にイメージを作ろうとしても、若者たちはちゃんと見抜くのです。
私たち日本人は、他人を悪くいうことを好みません。
どちらかといえば、他人の良い所を発見し、そこを見つめていたいし、自分がしっかりと生きていきたいと考えますから、他人から欠点を指摘されれば、それを素直に受け止めて、反省しようとします。
ですから日本人は、悪口をいうことにも、言われることにも好みませんし、慣れてもいません。
だから一方的に、悪い国の悪者扱いの宣伝をされたとき、おもいきりその被害をこうむります。
ところが、世界の人々は、ちゃんと見ているのです。
やはり、正しいものは、冷静に評価されるのです。
私は、日本がこれからの世界において、よその国から悪口を言われたからと、同じように悪口を言い返したり、そのための政治的工作をすることは、よくないことだし、仮にそれをやったとしても、所詮は民族の血になっていない借り物でしかない悪口と、何千年もの間、他人の悪口を言いつのることで暮らしてきた民族では、おそらく悪口合戦では、勝負にもならないのではないかと思っています。
むしろそうではなくて、なぜ日本人が他人の悪口を言うことを好まず、他人からの悪口に、つねに謙虚に反省をしようとするのかという理由を、日本人としてしっかりと説明できる力を身につけることの方が大事なのではないかと思います。
日本人は「対等」という意識を持っているのだということ、協調性を持って生きることが大事とされる文化を持つ国であり、民族であるのだということなどを、私たち自身が、しっかりと説明できる力を身につける必要があると思います。
日本人にとっては、悪口を言いふらさない、人と仲良くする、騙す側が悪いと考えることは、常識です。
けれど、世界には、そういう常識が通用しない民族がいるという経験を、私たちは戦後のたった70年で、おおいに学ばせていただいたのではないかと思います。
おもしろいことに、この映画には、2作とも日本人は登場しません。
民族の個性を描いた映画だけに、日本人は没個性で、描きにくかったのかもしれません。
しかし、その没個性的ということが持つ意味の深さを、誰よりも日本人が自覚することの大切さを強く感じた次第です。
ねずさんのひとりごとより
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